「みそぎ研修」で典型的右翼とされた「修養団」創始者・蓮沼門三の真実
戦後、公職追放されなかった理由 フォトギャラリー
日本の高度成長期、サラリーマンは「企業戦士」と言われて、企業に忠誠を誓わせる、
いわば根性を鍛え直すため(?)の研修が、よく行われていたものです。
富士山での特訓を売り物にした研修とともに、伊勢神宮参拝とセットの五十鈴川でのみ
そぎ研修が話題になっていました。そのみそぎ研修を行っていたのが、公益財団法人「修
養団」です。
当時は、学生運動あるいは左翼上がりの多い日本のメディアで、折りにふれ典型的な右
翼団体として、興味本位のレポートが登場していました。
そんな左翼的な時代を生きた「ウエルネス@タイムス」編集子でしたが、あるとき実家
の床の間に、叔父の笹谷休藏書とある掛け軸に気がつきました。
修養団の創始者・蓮沼門三の「明魂」の詩句を書いたものです。
「明魂」の詩句は、要するに悟りの真実、明鏡止水の心境を示したもの。歴史的な文脈で
は「恩讐を超えて」ということです。
もともと書家を目指していたという叔父が、1948年8月、新潟の花火大会の日、我
が娘を万代橋での欄干崩落事故で失いました。殺到した花火客による大惨事に、誰が悪い
のか、怒りの持っていき場のない娘の死に直面した彼は、修養団に救われたのです。
家業の傍ら、まるで写経をするかのように、ひらすら「明魂」の詩句を掛け軸に書いて
は、縁ある人に分け与えていました。その功績が修養団の知るところとなり、あるとき表
彰されたと、叔母から聞いたことがあります。
その叔父から蓮沼門三の本『天分に生きる』(修養団出版部)をもらったのが、修養団
に対する誤解を解くきっかけです。
蓮沼門三は1882年(明治15年)福島県耶麻郡相川村(現・喜多方市山都町)に生
まれました。修養団は1906年2月11日、東京府師範学校(現・東京学芸大学)在学
中、彼を中心とした学生たちによって創立された社会教育団体です。
きっかけは、師範学校の寄宿舎に入って、当時の学生の乱脈ぶりを見た彼が「風紀革正」の必要を説いたのですが、ほとんど賛同が得られないため、一人自習室の雑巾がけや便所
掃除から始めたものです。
「偽善者」などと笑われた半年後の冬、誰も手伝う者はなく、バケツの冷水で雑巾を絞る
と、あかぎれの手から血が滴ったと言います。あるとき、たまたま通りかかった同室の一
人が、バケツの中の血にショックを受けると「ゆるしてくれ」と言って冷えきった両手を
掴んだといいます。そして「一緒にやろう」と始まったのが、修養団の原点です。
渋沢栄一の特別の後援を得て、昭和の戦時体制下、一時は全国に支部を持ち、600万
人の団員を抱えていたと言われます。ただの右翼ではありません。
事実、戦後、公職追放されていないこと。寄宿舎における掃除など、ボランティアから
始めて、社会の教育とともに、世界平和を理想としています。
いまはSYDの「みんなでまこう!幸せの種」とのキャッチフレーズの下、青少年を心
豊かに育てる活動を中心に、ボランティアをはじめとした様々な活動を行っているのも、
そのためです。
「修養」とは、蓮沼門三自ら『広辞林』を引いているように「道をおさめ、徳をやしない、心身を鍛練し、知識を啓発すること。よい人となるよう工夫し、努力すること」。つまり
は人の道です。
今日、修養団が「SYD」という英語のイニシャルによる表記を使うようになったのも、時代の流れです。現代にあってこそ、その考え方・活動の意義と歴史に向き合う必要があ
るのではないでしょうか。
掲載写真について
磐越西線の山都(やまと)駅に「修養団創立者・蓮沼門三先生生誕の町」と書かれた角
柱が建っています。生誕地は、かつてあったバスの便はすでになく、車で行くしかありま
せん。途中、相川温泉の看板がありますが、ずいぶん前に閉鎖したということです。
そんな山あいの道路沿いに「蓮沼門三先生誕生の地」の石碑と立像が建っていて、いま
は「愛汗苑」として整備されています。「誓願」の詩にある「愛(親和)と汗(努力)」
による奉仕を生涯、追い求めてきたためです。
東京・代々木にあるSYD(公益財団法人「修養団」)の本部は、16階建ての大手建
設会社の本社ビルの最上階にあります。間借りしているのは、建設会社のほうで、ビル正
面には「SYD」とあり「SYDホール/修養団SYDビル」となっています。
明治通りを隔てて、日本共産党本部が建っているのが、不思議な巡り合わせです。
かつては盛んだった新潟県支部は、少子高齢化ととも寂れた印象です。
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