「ゲルハルト・リヒター展」と長谷川章の「DK(デジタルカケジク)」
SDGsから欠落しているもの 一口知識
SDGsにはアート・エンタメがない
世の中、SDGs(持続可能な開発目標)流行りである。だが、そこには決定的に欠落
しているものがある。
SDGsと言えば、持続可能な世界への17の目標が、例えば「1.貧困をなくそう、
2.飢餓をゼロに、3.すべての人に健康と福祉を」という具合に並んでいる。
目標としては、いささか曖昧な印象もあり、やや具体性に欠ける。
それでも、別に問題はなさそうだが、そこには芸術・文化の項目がない。
事実、エンターテインメント系情報誌「ぴあ」の矢内廣社長が「日経」紙上で「国連の
SDGsには文化・芸術・スポーツは含まれていない」と嘆いていた。
何とも残念な状況にあるというしかないが、実はそこにこそ、今日の持続可能性が問わ
れる現代文明社会の実像もある。
そんなSDGsの矛盾などを考えたのは、一つは2022年7月3日、国立近代美術館
で開催されていた「ゲルハルト・リヒター展」を見に行った後、8日に自動車のリサイク
ル業を通じて、いわばゴミを宝に変え美しい環境創造に取り組んでいる「会宝産業株式会
社」(石川県金沢市/近藤典彦会長)を、世界各地でDK(デジタルカケジク)を展開し
てきたデジタルアーティスト長谷川章氏と訪ねていったことによる。
リサイクル都市・江戸のSDGs
SDGsのキャッチフレーズは立派でも、ロシア・ウクライナ戦争という現実の前に、
まったく無力であるのは、なぜなのか。
というか、SDGsブランドをビジネス並びに便利なキャッチフレーズにして、これま
でのように好き勝手に儲けることができない時代をうまく切り抜けていこうというビジネ
ス世界の決め事のようなものだろう。
根本にあるのは、SDGsとは無縁な文明社会の辻褄合わせである。
大体、SDGsなどといまさらながらに言われているが、振り返れば日本では江戸時代
には当たり前のことであった。おまけに、武士は刀を持っていたとはいえ、250年近く
戦争のない平和な時代を実現していた。
そんな18世紀の江戸では、隅田川を白魚が泳いでいた。対する西洋文明の覇者・イギ
リスではどうか。ロンドンを流れるテムズ河は糞尿が垂れ流しの状態であった。江戸の町
ではあらゆるものがリサイクルされ、糞尿を集めて売るビジネスが成り立っていたぐらい
である。
イギリスではその後、大量のモノとエネルギー、つまりはカネの力で下水道を整備する
ことによって、世界に冠たる大英帝国を実現していった。それがわれわれが知る文明の力
であり、今日、持続可能性が問題になっている文明国のいわば原点である。
世界に例のない平和な時代を生きてきた日本も、文明国の仲間入りを果たし、戦争と共
に原爆の悲劇を経て、戦後の復興、バブル崩壊後の失われた30年の時代を続けている。
江戸は元禄文化という言葉に象徴されるように、アートとエンターテインメントの花開
いた時代でもある。
現在の日本でもアート、エンターテインメントは盛んだが、例えばメセナの流行った時
代に、景気が後退するとその勢いがアッという間に萎んでいった。薄っぺらな芸術文化活
動は、平和のための橋頭堡たりえないという残念な現実がある。
「ビルケナウ」強制収容所
東京の国立近代美術館で開催されている「ゲルハルト・リヒター展」は「生誕90年、
画業60年。待望の個展」というのがうたい文句だ。
嘘ではない。その122点に及ぶという圧倒的な作品群による様々な手法とチャレンジ
により、現代アートの到達点を示している。会場は日曜日ということもあってか、かなり
混んでいた。
1932年、ドイツ東部・ドレスデンに生まれたゲルハルト・リヒターは、写真を絵画
に写し取る「フォト・ペインティング」、色見本を組み合わせた「カラーチャート」、キ
ャンバスを灰色の絵の具で塗り込める「グレイ・ペインティング」、写真の一部を自作の
大きなヘラを用いて描く「アブストラクト・ペインティング」、写真に絵の具を塗り付け
た「オイル・オン・フォト」、デジタルプリントを用いた「ストリップ」等々、次々と新
しい試みを続けることによって、作品は常に注目を集めてきた。
そんな彼の代表作が2014年に制作された「ビルケナウ」だ。ドイツに生まれた彼が
1960年以降、ホロコーストを主題にして、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を
描こうとして、その深刻さゆえに何度も断念。ついに完成した作品群である。
一見したところ、大きな現代抽象画シリーズだが、絵は隠し撮りされた強制収容所の凄
惨な写真の上に描かれているということである。
その痕跡を探そうとしても、ホロコーストの残像を見ることはできない。つまり、確か
にあるはずなのに、見えない。目の前にないものが、実はあるという見えない世界を感じ
させる作品になっている。
廃品をHigh品にするリサイクル
「ゲルハルト・リヒター展」に行った記念に公式図録を買ってきた。
図録の表紙にもなっている「ビルケナウ」の4点は、会宝産業のリサイクル工場が現代
アートの現場ということを教えてくれる。昔、鉄のゲージツ家クマさんこと篠原勝之氏と
一緒に、ゲージツの材料を収集に東京近郊の廃品処理施設を訪れたことを思い出した。
「ウエルネス@タイムス」では「先祖供養は未来への投資!」と、さんざんメッセージし
てきた。
会宝産業は主にクルマから回収される「廃品」を、近藤会長の言葉では英語の高いを意
味する「High品」と呼んでいる。まさにゴミを宝に換えるビジネスモデルを展開して
いるわけである。それこそあらゆるモノの供養の理想的な在り方であり、正しく「未来へ
の投資」なのである。
会宝産業は社名そのものが「すべては宝」とのキャッチフレーズとともに、持続可能性
が問題になっている世界へのメッセージであり、世界90カ国でのビジネスを成功させて
きた、つまりは正しいSDGsへの取り組みの答えでもある。
近藤会長が今日の成功を手にする原点は、二宮尊徳の「推譲」の法則にある。たらいの
泡を手前に集めるには、一旦、向こうの壁に当てることによって、もどってくる。
商売に当てはめれば「オレがオレが」と、一人儲けるのではなく、相手に譲ることによ
って、お互いがうまく行く。
同社の会社案内には「自分だけがよければいい、という考え方は、もう古い」、「地球
を国で分ける発想は、そろそろ終わりにしたいと思う」、「競争の果てにあるものより、
協調の先にあるものが見たい」などと書かれている。
事実、同業他社とアライアンス(連携)を図ることによって、まずは相手に儲けてもら
える仕組みをつくって、共に繁栄する社会づくりに取り組んでいる。
会宝産業では近い将来、新本社工場を長谷川氏が拠点にしている白山地区に建設すると
いう。同社のこれまでの取り組みを集大成したような画期的な工場ができるはずだが、そ
の前に現在の本社工場を舞台にしたDKイベントが実現する日が期待される。
アーティスト長谷川章氏のメッセージ
以下、後日、長谷川章氏から届いたメールである。ここで、彼はゲーム化された人間社
会の成れの果てである今日、ゲームによる奴隷生活を一新すべき「革命」を提示する。
そこでの彼は、アーティストである前に、一人の預言者か哲学者のようだ。
* *
すべては概念である
世界はさまざまな技術的革命によって拡大され、拡張されてきた。
言語文字革命、印刷革命、産業革命、メディア革命、モバイルネットワーク革命と続き
現在に至っている。
だが、果してこれは世界の拡張なのだろうか?
制御できる世界をいくら拡大し精細化していっても、世界を捉えたことにはならない。
世界の果てにたどり着くことはできないだろう。
なぜなら、世界とは物理的な環境ではなく、概念だからである。つまり、そもそも世界
は我々の頭が作り出した構築物であり、存在しないということだ。
世界と同様、社会も存在しない。社会もただの概念だからである。
また宗教や神や仏ももちろん存在しない。
それらはすべて私たちの脳が創り出したただの概念である。
無心とは
ここで子どもを観察してみよう。
暑い、寒い、空腹、満腹、痛い、くすぐったい、かゆい、眠い・・。
これらは何かを求めるといった複雑な情動ではなく、ただの身体反応である。
つまり方向性を持たないのだ。
よって赤ん坊は何かを求めているのではなく、ただ生きているのである。
まさに無心と言えるだろう。
大人に成長しても、生活が保障されれば、誰もが赤ん坊と同じく無心でいられるのでは
ないだろうか?
人間のゲーム化
だが、成長するにつれ、人間には食欲や性欲、名誉欲、金銭欲など、さまざまな欲望が
生まれてくる。
生まれてくるというより、実情はそのように学習されるということだろう。
生物の行動の根本原理は繁殖するためのものである。
動物の世界では最終的に勢力の強いものが繁殖環境を制して子孫を増やしていくが、人
間の場合はここに秩序を組み込み、ルールを作った。
それが婚姻制度や一夫一婦性度などである。繁殖という根本的な行動原理をルール化し
たのだ。
これが人間社会の始まりであり、世界の始まりである。
環境があり、ルールがあり、競争があり、結果が決まる。
これは何かというとゲームである。
つまり、ここから、人間のゲームが始まったのだ。
スポーツはもとより、世界、社会、経済、貨幣、国家、宗教、学校、コミュニケーショ
ン、ネットでの言動など、人間のすべての活動はゲームとして捉えることができる。
これらゲーム化の延長として、メタバースでのセカンドライフの到来が予感されている
のだろうが、それは革命足り得るだろうか?
答えは否である。
用意されたゲームで遊んでいる
私たちはずっと用意されたゲームで遊んでいるだけのただの子どもである。
公園の遊具を考えてみればわかるだろう。
子どもたちは、誰かが考え、安全に配慮し、景観を損なわないようデザインされた遊具
で遊ぶ。
遊具を自分で考えたわけではない。
ただ与えられた遊具を上手く操れたことを誇っているのだ。
私たちはそろそろ子ども時代を卒業しなければならない。
いままでも、誰かが仕掛けたゲームを遊んでいる場合ではないのだ。
メタバースも同じである。
このままいけば、メタバースもただちょっと新しいゲームにしかならないだろう。
メタバースを活用するなら、用意されたゲームで遊ぶといった従来の延長線で考えても
意味がない。それではいままでどおり、私たちは誰かが与えた餌を食べるだけのただの奴
隷のままだ。奴隷がちょっと新しい奴隷になるだけである。
そこに革命はない。
そろそろ私たちは誰かのお膳立てから逃れなければならないだろう。
メタバースに可能性があるならば、いままでのような奴隷生活から離脱するきっかけに
なること、その一点である。
奴隷から逃れるには
用意されたゲームに没入するという考え方は、従来の発想の延長でしかない。
そこに革命はなく、やがてまた別のゲームが登場するだけだろう。
ゲームに没入するという発想では永遠にゲームプレーヤーから逃れられないのである。
では、どうすればいいのだろうか?
逆に考えてみるのだ。
逆とは何かといえば、現実からゲームに入るのではなく、ゲームから現実に「出る」と
いうことだ。つまり、自分が仮想空間のアバターをコントロールするのではなく、アバタ
ーが生身の自分をコントロールするという逆転の発想である。
メタバースの私が、現実の私に対しリアクションを起こすのだ。
奴隷が主人公になる。これこそが革命であり、メタバースが真に新しいブレークスルー
をもたらす唯一の道である。
人類の解放
この考え方は実現不可能な荒唐無稽なものに思えるかもしれない。
だが、いままで起こった革命も、すべて最初は荒唐無稽だったのだ。
誰もが無理だと思ったことを起こすことが革命なのである。
もっと言えば、これは意識の変革をもたらし、人類を解放する考え方かもしれない。
なぜなら、これはメタバース上のもう一人の私と出会う初めての体験だからだ。
私たちは生涯、自分の目で自分の背中を見ることはない。
私たちは私たちの本当の姿を見ることはできない。
だが、メタバース上の私はそれを可能にする。
その私は、私からは見えない本当の私なのだ。
つまり、これはもう一人の私、本当の私との人類史上初めての出会いなのである。
私たちはそこに、時間と空間の束縛からの解放と、大自然と宇宙と自分との一体化を見
るだろう。
そこにいたり、人類はついに「宇宙は我なり」を知るのである。
* *
静かなる革命
ゲルハルト・リヒター展を見て、そのあまりに激しい作風の変化に、これこそ現代アー
トだと思う一方、彼の「ビルケナウ」が一つの到達点だとしても、時代も作家本人も、そ
こに満足することなく、次なるチャレンジを続けている。
そうした芸術家の在り方と対極にあるのが、長谷川氏のDKである。
それはDKが長谷川章氏が構築したアート界における一つのジャンルだからである。
DKは対象となるものを、まったく浸食せずに、別の命を与える。そのため、廃墟の世
界遺産もモダンな建造物も、移ろいゆく自然も、もう一つの命として現れる。
いわばDKは刹那が永遠につながり、普遍へと昇華、自然に異なる次元へと飛躍してい
く。だからこそ、世界遺産、神社仏閣、城などが似合うのである。
DKはそれらに新たな命を与える。静かなる革命と称する所以である。
「ウエルネス@タイムス」のテーマ「人を良くする」との観点からも、DKの効果・働き
は重要である。
「富山県国際伝統医学センター」でのDKに対する研究データは「頭(前頭葉・前前頭野
表面)や筋肉(僧帽筋)の酸素代謝が、30分間のDKと対照の30分間の白色光とで明
らかに異なる」こと、また「唾液中IgA(ストレス度と同時に口腔内免疫機能の指標)
濃度や、尿中セロトニンや尿中ノルアドレナリン排泄、脳波所見(感性解析)などで明ら
かに有意差が認められる」ことなど、DKがただの光とは異なるとの興味深いデータ結果
が出ている。
長谷川氏のメッセージの終わりが「宇宙は我なり」というのが、その答えである。
上海楊縁
中国上海世界芸術祭
スエーデンのボーベル賞Night Cap晩餐会
サンノジェ世界Zero One Art フェスティバル
(翌年2007年アメリカバブリックアートベストアーチストに選ばれた)
オーストリア ザルツブルグ世界音楽祭
サイレントシンホニーと音のない目で聞く音楽を公演した
アテネオリンピック協賛アクロポリスDーK
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