「トイレ掃除」は開運の第一歩! ベンチャーへのチャレンジ ライオン創業者 小林富次郎の実像(4)
- vegita974
- 3 日前
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「トイレ掃除」は開運の第一歩! ベンチャーへのチャレンジ
ライオン創業者 小林富次郎の実像(4)

汚れた水風呂を磨き上げる
ライオン創業者『小林富次郎伝』の第四章は「開運の首途」である。「首途」とは、今日では馴染みのない言葉だが、旅に出ること。旅立ち、物事が始まる門出を言う。
故郷・新潟を離れ、家業である酒造業に就いて、兄を助けた富次郎氏だったが、その将来性に疑問を感じて、自らは新事業にチャレンジする。
立志伝中の人物の成功談に、よく登場するのは、トイレ掃除である。日本ではカマドにもトイレにも神様が住んでいる。寺社での修行においては珍しくないように、人の嫌がる仕事、掃除は真摯に向き合うことで、己れを磨くことにつながる。
汚れ仕事を率先してやることは、必ずしも合理的・効率的ではないが、それは遠回りのようで案外、近道でもあり、より早く道が開けることが多い。
その昔、新人教育に「トイレ掃除」を必修にしていたのが、京都のダスキンである。
その伝統はいまにつながるが、近年、トイレ掃除を社員教育に取り入れて話題になったのが、自動車用品販売のイエローハットである。創業者である鍵山秀三郎氏が、従業員の教育のため、率先してトイレ掃除をすることによって、まとまりがなく、手もつけられなかった従業員の意識改革を進めていった結果、ついに一代で1000億円の上場企業を作り上げたわけである。
小林富次郎氏の場合は、トイレ掃除ではないが、奉公先の家の風呂釜が汚れているのを見て、かつて酒樽を洗い上げていた要領で、きれいに磨き上げて湯を焚いた。風呂掃除が開運のきっかけである。

* *
明治10年、富次郎氏は25歳のときに意を決して、単身上京。自分の運命を開拓しようと試みた。もとより資本があるわけではなし、頼るべきツテもなければ、どんな仕事でも前途に見込みがある商売ならば、身を入れて習ってみたいと心がけ、しきりに奉公口を探していた。
ちょうどそのころ、向島小梅町に「鳴春舎」という石鹸工場があった。それはかつて公務員から実業に転じた堀江小十郎氏という有識者の経営にかかるもので、小規模ながら当時の日本で、他に率先して石鹸製造に着手していた。
ちょうど小林氏が世話になろうと考えていた家の付近にこの工場があったので、誰かの仲立ちにより、とりあえずこの工場に雇われることとなった。そのころ、東京には石鹸製造はいまだ五~六件しかなく、関西地方にはただの一軒もなかったぐらいで、いわば新事業中の新事業である。
新しき運命を切り開こうとしている小林氏にとっては、またとないチャンスであった。
長く仕事に飢えていた彼がいかに精力を注いで、主人のために働いたかは想像するに難くない。そのころのことである。
堀江氏方の風呂釜が多年薄暗い風呂場の隅に据えられてあったので、内も外も真っ黒に汚れていた。あまりに不潔になったので、主人は一つ新調せねばなるまいと語っていた。
その話を小耳に挟んだ富次郎氏は仕事の暇を見計らって、例の酒造で鍛え上げた腕前を振るった。丸裸になって、風呂釜を井戸側に持ち出してきれいに磨き上げた。それをすっかり天日に干して、夕方主人が帰って来たときには、立派に風呂が立てられてあった。
主人はびっくりして、その働きぶりに非常に感心したようだが、とりわけ堀江氏の老母はよほどこの越後の若者が気に入ったものと見え、自分の浴衣を男物に直して、ご褒美に与えたとのことである。
これらは至って小事に過ぎないが、こうした小事はかえって思いがけない信用をもたらすとの習いで、鳴春舎における小林氏の位置は次第に高まった。やがて市中を奔走して問屋に商品を売り込み、あるいはまた新規の注文を引き受ける販売係の任にも当たることになった。
翌年に至って堀江氏他、2名の出資者の賛同を得て自身も合資の一人となった。それには多少の資本も持ってくる必要が起こって、郷里・柿崎に残してある家財を売却した他、与野町の兄よりもらったいくらかの資本を加えて、鳴春舎に出資することにした。
後年、広告界の覇者たる小林氏がその広告の手始めを行ったのが、ちょうどこのときのことであった。即ち、家財の売却をするに当たって、なるべく多くの購入者を引きつける必要がある。そのころは、いまだ新聞広告等の手段がなかったため、氏は手頃な板にことの次第を認めて、これを竹の先に打ちつけ、村内の目立つ2~3カ所に立てて広告した。
その文面は下記の通りである。
覚え書
「家具の競売致します」
本日より3日以内
明治11年10月5日
小林清蔵
この清蔵とは兄・虎之助氏の改名した名前であるが、思うに小林富次郎ではまだその地方に通用しなかったためであろう。元来、この家財競売は石鹸事業に投資するためばかりではなく、酒屋時代の負債の後でもあったため、親族縁者は外聞が悪いとのことで、その場には顔を見せなかったということである。
この最初の広告板は、今日なお越後の小林氏旧宅の倉の天井に記念品として 張りつけてある。いまや、日本全国はもちろん世界各国にまでその製品を売り広めている小林商店のスタートは、家財競売によって試みられたのであった。人の運命ほど予期し難いものはない。
さらに、翌年になって鳴春舎の事業がますます好況になってきたため、今度は合資組織より一歩を進めて、3万円の株式会社に改めた。社長は堀江氏で小林氏はその支配人となり、その株券はこの石鹸を取り扱う市中の問屋をはじめとして、東京・大阪の屈指の輸入商社の人々を網羅したので、組織としてはずいぶん良い会社であった。
ところが、商品の顧客であると同時に、株主であるこれらの商人は、競って鳴春舎株式会社に注文を出しそうなものだが、事実はまったく予想に反した。市況の活発なときには予想通りに行ったけれども、一転、不況に陥ったら、誰一人お義理で儲からない商品を注文する者はない。それもそのはずで、定価の一定した品物は安全な代わりに何の面白味もないから、不景気のときにはなおさら儲からない品を取り扱わないこととなる。
そこで小林氏はこれは決して株式組織で営むべき事業ではないとの考えを起こし、その思いを、それぞれの株主に説くことによって、満期1年前に株主総会を開いて一同合意の上、会社を解散することとした。
当時、あちらこちらに誕生した石鹸製造のための株式会社は、損失が引き続いて、ほとんど株券は全損の状態であったが、ひとり鳴春舎は株主たる問屋に製造品の全部を交付して、その株券を回収したために、誰にも損害をかけずに無事に解散することができた。
これはまったく小林氏の先見と果断の賜物であると、誉める者が多かった。小林氏も当時のことを思い出して、あれは不幸中の幸いであったと人に語った。

再び裸一貫になる
「禍福はあざなえる縄の如し」とか「好事魔多し」と言われる。人の運命はどう転ぶかわからない。とはいえ、小林氏のベンチャー修行は、まだまだ序の口である。
第五章は「再び赤裸々となる」である。
* *
先の株式会社の解散に加えて、小林氏はもう一つ、事業上、非常な困難に遭遇した。それは他でもない、兄の清蔵氏と共同で、旧士族の家祿奉還の代わりに官林(国有林)の払下げを受ける運動に従事していた。
当時、清蔵氏は酒造業を辞めて、この種の運動に全力を注いでいたので、富次郎氏も兄弟の情宜にほだされ、次第に深入りした。互いに数千円の運動費を費やし、名古屋の某士族の名義を買受け、それぞれ見込みある官林を調査して、いよいよ出願の手続きをするところまで進んだ。
ところが、いよいよ出願の時となると、内務省の方針がガラリと変わって、委任状をもって出願した分は一切、払下げしないことになった。これこそ、積年の苦労が一朝にして水泡に帰すことになったばかりか、莫大な損失を被って、多くもない財産を使い果たす結果となった。
このときの苦労は、実に名状しがたいものがあった。表面上は一会社の支配人として重責を負いつつあるのに、身内にはこの官林払下げの失敗という火が燃えつつあった。さらに、前述の通り、会社の経営も次第に困難を加え、ついに解散の必要も起こってきたためいわゆる内憂外患こもごも到るというのは、このときの有り様をいうのであろう。
小林氏はこの難関に際して、何とかして自らの体面も保ち、また会社の株主に損失をかけないように苦心したため、傍目にも十歳くらい老けて見えたほどである。
このときに、某氏による忠告の一言は小林氏をして一大決心を起こさしめ、ついに完全に復活させることとなる。その忠告とは他でもない。所有の株券をはじめとした衣類等家財一切を売却して、元の裸一貫にもどり、身を軽くして再び奮闘の道を行くべきであるとの忠告であった。
話は前後するが、小林氏は妻ハンとの間に子がないため、明治13年ごろ、長兄・清蔵氏の四男・徳治郎を養子にして、その2~3年後、妻の姪・いつ子を養女にしていた。
改革当時、徳治郎は麹町の塾にて勉強していたが、小林氏が元の裸一貫となると同時に塾を引き上げ「金港堂」書店に奉公に出した。そして、自らの持ち株はことごとく堀江社長に譲り渡して、会社の解散とともに再び堀江氏個人の事業にして、前日までの支配人たる小林氏は一変して、普通の奉公人となって立ち働いた。
株式会社解散前は、50~60人の使用人を使っていたが、ことごとくこれを解雇。わずかに5~6人の若者だけを残して、彼らとともに昼夜、あるときは釜の上に上りて石鹸を焚き、あるときは自ら荷車を引いて得意先を回り、細君は夜なべに石鹸の箱を張りと、ともに辛酸をなめたのである。
小林氏は後年、当時の激変ぶりを思い出して「あのときばかりは、いま思い返しても悲惨でした。言ってみれば、鶴が変じて雀になったようなもので、その年は実に寂しく哀れな年を過ごしました」と語っている。
それこそ明治17年、氏が上京してから7年目、彼が32歳のときであった。かくして小林氏はわずかに成功の門出に付いたかと思ったら、早くも失脚、蹉跌の身となった。希望の月影は、再び空しく暗雲に覆われてしまった。

* *
華々しくベンチャーへの道をスタートした小林氏だったが、時代の荒波、運命のいたずらなどもあって、ベンチャー修行は振り出しにもどってしまった。
第六章は「驥足を海外に伸ばさんとす」である。「驥足(きそく)」とは駿馬を意味することから、優れた才能を言う。
裸一貫にもどった小林氏が、次に活路を見いだそうとしたのが、海外への道であった。
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