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「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(13)   青年会事業と実業界における貢献について

更新日:4月4日

「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(13)

  青年会事業と実業界における貢献について


 小林富次郎氏の欧米漫遊が日露戦争渦中のことであることは、その時代背景とともに、

以前にも紹介しているが、それはラフカディオ・ハーンこと小泉八雲と妻・セツをモデル

にしたNHKテレビ小説「ばけばけ」で描かれた時代でもある。

 小泉八雲の死の前年、彼の書いた『怪談』がアメリカで出版されて、その本が日本に送

られてきたのが、明治37年(1904年)のこと。まさに日露戦争勃発の年である。

 加藤直士著『小林富次郎伝』に描かれている第22章の小林氏が晩年に専念した「青年

会事業」並びに「実業界における貢献」の舞台は、そうした時代でのことである。

 小林氏の先見性は、今日の宗教界、実業界を考えたときに、実に興味深いものがある。

          *                  *

 第22章「小林氏と青年会事業」

 小林氏は晩年、青年会事業に大きな関心をもって、尽力した。氏は徒弟教育の信奉者で

もあり、もともと青年会事業には理解があったが、自ら一歩踏み込んで、この事業に全力

を尽くすようになったのは、欧米漫遊より帰って、間もないときであった。

 明治39年(1906年)1月、東京キリスト教青年会の理事になって以来、永眠する

までの5年間、日夜、同会の経営問題に協力を惜しまなかった。その小林氏が洋行以降、

青年会に尽力することになったのには、深い事情があった。

 小林氏が初めて、米国サンフランシスコに着いたとき、まだ米国との取引関係がなく、

どの方面から手をつけたものか、ちょっと途方に暮れていた。そこで多くの紹介状の中か

ら、東京のキリスト教青年会からサンフランシスコの同会に宛てた一通を取り出して、と

りあえず地元の青年会幹事を訪問した。

 すると、同幹事マッコイ氏は早速、小林氏をサンフランシスコ第一流の薬種商の主人を

紹介してくれた。すぐに、その薬種問屋に行ってみたところ、初対面にもかかわらず、非

常に親切にしてくれて、さらにその店が代理店をしているシカゴのカーク商会を紹介して

くれたのである。

 先にも述べた大契約が小林氏とカーク商会との間に成立したのは、まさにこの関係から

であった。このとき初めて、小林氏は米国における青年会が持つ実業界に対する影響力を

目の当たりにして、驚嘆の念を新たにした。

 青年会は単に青年の教育や世話をするばかりではなく、実業界の重要な地位にある者が

直接間接に、その事業に関係して社会の各方面につながり、いまや欧米における一大社会

勢力となっているのである。

 小林氏はその在り方を見て、帰国後、一つは恩返しのため、一つは我が国の社会事業の

ため、微力ながら、この事業に尽くしたいと決心した。そこで、小林氏は理事の一人にな

ると、財政問題の方面を担当して、その基礎を強固にするために非常なる努力を試みたわ

けである。

 特に、東京高等商業学校のキリスト教青年会寄宿舎を神田の青年会館裏手に建設するこ

とに関して、自ら多額の金を寄付するのみならず、自ら篤志家を訪問して、資金募集に従

事。明治43年(1910年)11月末、遂に竣工して、めでたく開舎式を挙行した。

 小林氏は当日、早くから来舎して自ら開設の準備をし、かつ式の間は非常に寒かったに

もかかわらず、正面のベンチに端座していた。他の理事らは「あなたは老体なれば、外套

を召されては」と、しきりに勧めたのだが、小林氏はそれには及ばずといって、寒さを忍

びつつ会を終えることになった。

 不幸にも、これが健康に障ったものと思え、その翌日より例の胆石症が再発し、寝込ん

でしまった。ああ、まさに小林氏は59年の生涯最後の活動を青年会事業のために捧げ、

ついに雄々しくその職に倒れたというべきである。我が国の青年会は、小林氏という

大きな後ろ楯を失った。

 小林氏の青年会事業に対する深き関心は、すべての宗教を超えた点から来ている。彼は

自分の属する組合教会に対しては、飽くまで忠実なる一信徒であって、長い間、その常議

員、または評議員の一人として、またその伝道会社(日本基督教伝道会社)の主要なる社

員として、すべての信徒が尽くし得る以上のものを尽くしていた。

 かつ、その宗教上の思想がはじめから、極めて進歩的であったため、その神学思想は、

当初から教会の信仰と全く一致していた。

 しかしながら、彼は他の善を認めるのに、極めて敏な人だったから、一個の長所でも他

宗教または他宗派の中に見い出すことを、もっとも快しとしていた。彼の目には善事の前

に宗派も党派も一切なかった。また、彼はどこまでも平和を愛して、少しでも他人の気を

悪くすることは大嫌いであった。

 他人と争うよりは、自分で苦しむほうが良いという心の持ち主であった。そのため宗派

的な軋轢や分裂は、彼のもっとも好まざるところであって、彼の晩年に起こった新教諸派

の教会合同論には全面的な賛成を表した。

 彼は教会合同に賛成しない声は悪魔の声であるとまで極言したこともあった。また、宗

派で争う教会事業よりは宗派争いのない青年会事業のほうが愉快であると語ったこともあ

る。

 教会合同は果して、小林氏の信じていた如く簡単に行われるかどうかは疑問であるとし

ても、氏が万事において共同一致の精神を尊び、この精神をもって社会に善を行うことを

もっとも愉快としていたことは、その性格の一大美点であった。


 第23章「実業界に於ける小林氏の貢献」

 まず、第一に伝えるべきは、我が国石鹸製造業に対する小林氏の功労である。氏が初め

て、石鹸業に従事したのは、明治10年(1877年)に、堀江小十郎氏の経営する鳴春

舎工場に入ったときである。

 当時、この事業はいまだ極めて幼稚なものであって、工場といい、機械といい、今日か

ら見たら、まったく子どものままごとのようなものであった。

 小林氏はこの時代から亡くなる少し前まで、実に30年間、この石鹸製造に関する知識

と経験とを積んだ。氏の葬式のとき、東京石鹸製造組合副組長の朗読した弔辞の中に「小

林富次郎氏は我が石鹸業界の恩人なり(中略)、今日の我が国の石鹸業が日進月歩、改良

の実をあげ、かつ我が組合が今日の隆盛を見たのも、氏の力によるところ大なり」云々と

あったのは、まったく事実を述べたものである。

 氏は、実に石鹸の製造に精通していた。その原料の研究も、十分に重ねていた。つまり

同じ原料で製造しているにもかかわらず、我が国の石鹸は品質面で、到底、外国製に及ば

ず、加うるに価格の安さのみを主とするところから、ますます粗製濫造に流れた。一時は

盛んに中国(清国)に輸出されたものの、その後はまったく信用を落とすに至った。そこ

で、小林氏は深く、これを遺憾として石鹸製法の改良のためにあらゆる努力を試みた。

 氏の洋行中、もっとも視察に意を用いたのは、この方面であった。氏は各国の工場を機

会の許す限り、大小共に視察した。このようにして得た、その製法並びに原料に関する調

査結果を、ときどき長文の書面にまとめて東京の同業組合に報告し、また帰国後は再三、

同業者に向かって、詳細なる視察談を試みた。

 のみならず、氏はシカゴのカーク商会から特別な許可を得て、親友の一人である村田亀

太郎氏を製造研究のため、同工場に入り実習させることとした。村田氏は鳴春舎時代の同

僚であり、その後「花王」の創業者となった長瀬富郎氏(長瀬商店社主)に協力して「花

王石鹸」の製造者となった。我が国石鹸業にはもっとも精通している人物で、現に東京石

鹸業組合の組長としての重責を担っている。

 小林氏がこの希有の好機会に際して、自社の店員ではなく、友人である村田氏を推薦し

たのは、あくまで公明なる処置であった。特に我が国石鹸業のため、研究の労を執ること

になったのは、石鹸製造の副産物として生じるグリセリンの精製法である。

 我が国の製造家も石鹸製造後の水からグリセリンが取れることを知らなかったわけでは

ない。ただし、各工場の規模が小さく、これを精製する設備をなすことができずに、貴重

な石鹸水を捨てていた。小林氏はこれを大きな国富の浪費と考えて、自ら精製事業を計画

した。

 村田氏は小林氏の斡旋並びに助力によって、カーク商会に行き、実地の経験を積み、グ

リセリンの製法と共にこれまで我が国では造られなかった浮き石鹸(水に浮く石鹸)の製

法も伝授された。そこで、村田氏は帰国後、早速、まずは浮き石鹸の製造を開始すること

になった。

 ちょうど小林氏は南清(中国)、インド旅行に出かけた留守中であったので、村田氏は

わざわざ上海まで行って小林氏に面会し、カーク商会視察の結果を報告した。小林氏は報

告を聞いて、自分の成功のように喜んだ。

 しかし、当時、小林氏は英国リーバ社の浮石鹸「スワン」の一手販売権を有していたの

で、他の浮石鹸の製造販売に従事することは断った。なるほど、商標がちがい、舶来と和

製の差があっても、同性質のものであるから、これを売るのはリーバ商会に対して不誠実

であるというのである。

 では、なぜ小林氏は村田氏に多額の旅費まで用意して、研究に行ってもらったのか。村

田氏は驚き、かつ怪しんで、長い間、小林氏の真意を理解することができなかった。けれ

ども、これは小林氏にとって、何も深い理由があったわけではない。

 ただ、彼は我が国の石鹸業界の発展のために村田氏に渡米を勧め、いくつかの研究視察

を遂げさせたに過ぎない。そのため、村田氏が十分にその目的を達して帰国したことは、

小林氏にとって、これ以上の満足はないのである。これにより利益を独占しようとの考え

は、始めからなかった。

 その後、浮石鹸は多く日本でもできるようになったが、小林氏は英国製のスワン石鹸の

輸入元である理由をもって、一切、この方面には手を出さなかった。村田氏はこのことを

評して、商業道徳の生ける模範であると激賞していた。

 また、当時の農商務省がグリセリン製造事業の将来性を感じ、新たに機械を取り寄せて

これをほとんど無条件で小林氏等に貸与するとの打診もあった。折から、英国リーバ社が

大工場を日本に新設することになった時には、資本その他の関係上、いまさら競争相手に

なる不利を悟り、石鹸並びにグリセリン工場の新設は、きっぱり中止した。

 とはいえ、氏がいかに時勢に先じて、石鹸事業の進歩発展のために力を尽くしたかは、

これらの事実をもって証明するに足りると思う。

 彼は確かに、我が国石鹸業界の恩人である。ちなみに、小林氏は多年「高評石鹸」の製

造家であり、小石川に相当の規模の工場を持っていたが、欧米旅行より帰ってからは、小

規模の石鹸事業の不利を悟って、この事業を廃止。その主任者である実弟・山岸氏には、

代わりに「スワン石鹸」の一手販売権を譲与して、この方面の活動をさせるに至った。

 次に伝えるべきは、マッチ軸木並びにこれと関連している経木真田事業における小林氏

の功績である。石巻時代における軸木改良事業の悪戦苦闘の物語は、ここで繰り返す必要

はない。ただ、この失敗によって得た知識と経験とが、後日、小林氏の軸木部の盛運をき

たす土台となった

 その後、軸木事業は時勢の変遷につれ、小林氏の軸木部も経木真田部となった。この経

木真田は西洋婦人の帽子の原料として麦藁真田と共に、我が国の重要物産の一つとなって

いる軸木と同じ原木から製造するので、自然に小林氏の事業の一部になったのである。

 しかし、この事業は海外との取引方法が極めて危険の多い、例の特定売買であるので、

いつも日本の商人は不利益を被って、これには小林氏も相当の苦労をしたようである。

 氏が欧米漫遊の重要なる目的の一つは、この経木貿易に関する視察であった。従って、

ニューヨークまたはロンドン滞在中の多くの時間は、この方面の視察並びに商談に用いら

れたが、いかんせん先き売り約定の不利がまったく除かれない限りは、利益の見込みがな

いと考えて、帰国後はこの経木部を廃してしまった。

 これは非常な英断で、一時、莫大な損失もあったようだが、結局、小林商店のためには

大きな利益となった。小林氏はこのような違約、苦情の起こりやすい事業を、他の有利な

方面に向けることができたので、彼の本業は一段の発展を遂げた。

 小林氏の軸木部は、結局、失敗に終わったけれども、その困難が多かった分だけ、同事

業の改善進展のためには大いに役に立った。

 後日、我が国の経木貿易が一段の発展を遂げて、真に有利安全の事業となることがある

ならば、小林氏が20年間に流した涙と汗とが大いに力となっていると言わなければなら

ない。

 これらのことに関連して、一言述べるべきことは、小林氏が自分の関係している事業の

進歩発達を図るため、その同業組合の組織経営に、常に協力したことである。

 東京における石鹸製造同業組合、小間物化粧品卸商同業組合などの諸組合が、今日の発

展を遂げたのは小林氏の間接直接の尽力に負うところが大きい。わけても、何か組合の内

外に紛議が起こるとか、難問題が生じた場合には、しばしば小林氏を煩わせて、解決して

もらったことがある。

 これがもし組合長とか理事という立場であれば、当然のことだが、小林氏は決して人の

表面には立たない人なので、いつでもただ一個人の資格で骨を折った。彼は終始、人々の

陰になって力を添えることを何より好んでいた、いわゆる縁の下の力持ちで、人の目につ

かないところにずいぶん骨を折っていた。

 小林氏が幾たびか、諸方より勧誘を受けたにもかかわらず、未だかつて何らの名誉職に

就いたことがないことは、一つはその謙遜の徳のしからしめるところだろうが、そのもっ

とも大きな理由は、表面に立たずに仕事をするほうが、かえって世を益することをよく知

っていたからであろう。

 現に、石鹸組合の創立者であるにもかかわらず、一度も組合長にならなかった一事は、

この事実を示して余りある。

 最後に筆者は小林氏が我が国の商業道徳の発達のために尽くした功績について、一言せ

ざるを得ない。氏はその宗教上の信念より、商業道徳の何ものよりも重んじるべきを悟っ

ていたが、分けても親しく欧米実業界の実況を視察して帰ってからは、その確信が一層強

くなって、あらゆる機会を利用して、我が国の実業界にこれを訴えた。

 氏が禁酒事業に熱中した一大動機も、飲酒の弊害を我が国の実業界から除き去らなくて

は、商業道徳の刷新は到底覚束ないと悟ったからである。実際、酒で商業をするような腐

った根性では商業道徳も何もあったものではない。

 彼が一たび演壇に立って、得意の禁酒談より商業道徳議論に言及するに当たっては、温

和なる容貌がたちまち一種の権威を帯びて、聴衆を心服させたのは、この確信の火が彼の

裏に燃えていたからである。

 しかしながら、百の談話も一つの実行には敵わない。小林氏の商業道徳論議が、もし机

上の空論に過ぎないならば、何の価値もないであろう。幸いにして、小林氏は商業道徳の

実行において、恐らく何人の後になることはなかった。

 彼の営業方針は一言でもって述べることができる。曰く、正直と親切と勤勉である。不

正な利益、無理な利益、偶然の利益、この三つは彼の最大禁物であった。

 このような利益は、子孫に災いを残すと、彼は常々話していた。彼はずいぶん利益の計

算に敏い純粋な商売人であったけれども、彼の人間性において、少しも品格を落とさなか

ったのは、いかにも彼の偉大なるゆえんであった。

 氏と多年の親交のあった留岡幸助氏は彼を称して「法衣を着けたる実業家」と言った。

法衣とは単に宗教家であるという意味ではない。世道人心(守るべき道徳と人の心)を大

事にして、その言動により人の手本となっているという意味でもある。この一言は、余す

ところなく、我が小林氏を評し得ているというべきである。小林氏は確かに商業道徳論を

なし得る資格を備えている人物であった。

          *                  *

 ライバル「花王」の創業

 現代のビジネス界では、金融、自動車、半導体など、世界市場を勝ち抜き、生き残るた

めに、日本でも合併・合同などによる協力体制を取るケースが増えている。あるいは、自

社の成長、生き残りを賭けてのM&A、TOBなど、強引な買収がビジネスシーンで騒が

れる時代でもある。

 そうした形でオールジャパン、新生企業グループが誕生する。だが、その実態は、いず

れも困った結果の苦肉(?)の策である。

 筆者・加藤直士氏が描くライオン創業者の青年会事業にしろ、石鹸業界に対する貢献、

商業道徳の啓蒙は、明治期の取り組みであるが、120年後の今日、むしろ意味深い。そ

うした先見性に満ちている。

 今日の企業「ライオン」のライバル企業として、真っ先に上げられるのは「花王」であ

る。日本国内のトイレタリー業界で最大の競合企業であり、ライオンは花王、ユニチャー

ムに次ぐ3位のシェアを維持している。

 そのトップ企業「花王」創業のきっかけとなる「花王石鹸」誕生には、小林氏が深く関

わっている。

 両社の関係は、小林氏の類まれな思想・人格によるところが大きいとはいえ、世界の中

の日本を思い描くとき、オール・ジャパンとしての強さ、業界内での協力・切磋琢磨の関

係が、日本経済の発展にそのままつながる幸せな時代だったということでもある。

 ライオン創業者・小林氏の関わるエピソードは、その生き方、経営思想並びに日本経済

の在るべき姿を示すモデルとして、興味深いと同時に、今日、失われたものの大きさをも

教えられるエピソードでもある。

 とはいえ、渋沢栄一が論じた「論語と経営」による日本型資本主義が、今日、なお脚光

を浴びる時代でもあり、ライオン創業者の「法衣を着けたる実業家」としての価値もまた

再評価されるべき時期のようにも思える。

 以下、第24章「小林氏の友情」に続く。



 
 
 

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