「丸山アレルギークリニック」丸山修寛院長の始めた「ループ」(その1)
@タイムス情報 コロナの時代に医の原点を考える
本末転倒の科学と宗教
世の中は矛盾に満ちています。仕事に悩んで、人間関係に疲れ、何事も思いどおりに行
かないと、ストレスを感じます。
ストレス解消のため、例えばアルコールに逃れても、過ぎれば免疫力の低下を招いて、
生活習慣病予備軍となります。その結果が、人体では病気となって現れてきます。
地球上で、自然の中で生きる人間は、基本的に多くの生物と変わりはありません。
当たり前ですが、自然を住処にして、豊かな自然の恵みによって、生きています。
その地球、自然界で、ホモ・サピエンス(知的人類)、あるいは霊長類とされる人間で
すが、そう呼ばれるのに相応しい生き方をしてきたかどうか、振り返ってみれば、心もと
ないものがあります。
あらゆる矛盾を排するには、根本に立ち返って、人としてのニュートラルな在り方を受
け入れる必要があります。
キリスト教世界では人間は、神から自然を支配する権利を託され、便利で豊かな文明社
会を築き上げてきたことになっています。その結果が、今日の持続可能性の問われる地球
です。
本末転倒と、何気なく、また便利に使っている言葉ですが、その意味は「もととすえ」
ということ。辞書には「大切な根本とそうではない枝葉」と書いてあります。
その関係が転倒するとは、どのようなことなのか。わかりやすく言えば、天地が引っ繰
り返るようなものです。
そして、人間と自然の関係同様、医学と科学の関係も、典型的な本末転倒のケースと言
えそうです。
上医・中医・下医という分類
マルクス、エンゲルスの唯物史観が世界を支配するようになった時代に、マルクスは
「宗教は阿片である」と、著書の中で語っています。
その影響は大きく、いまも宗教は迷信、無知蒙昧の類のものとして、科学の風上にも置
けないものとして無視されるに至っています。
科学の起源を逆上れば、今日の科学は宗教から生まれています。宗教上の奇跡こそ、最
初の医療行為だからです。
キリストの奇跡や空海・弘法大師の奇跡同様、多くの宗教の開祖、指導者が病気治しを
行っています。
そうした宗教上の奇跡から、医学が派生して、やがて科学が生まれてきます。要は、奇
跡のわかりやすい例である病気治しこそ、医の原点ということです。
その昔、真言密教による心霊治療を行ってきた東京の真成院「四谷霊廟」を取材したこ
とがあります。
先代の故・織田隆弘師がお経を読み、呪文のような真言を唱えると、遠い九州の信者が
「胸のあたりが熱くなった」とか「肝臓のあたりが熱い」という形で、患部が祈りによっ
て感応します。
医者による薬、ましてや手術などせずに、遠隔治療によって難病を治していました。
古来、中国では医者の分類に関して「上医、中医、下医」に分けて「上医は国を治し、
中医は人を治し、下医は病気を治す」とされてきました。病気そのものに向き合う、いわ
ば対症療法医は下の下です。
もう一つ、別の言い方もあります。上医は未病を治す。つまりは薬を使わず医食同源の
立場から、上医は食医、中医は漢方医、下医を化学合成薬・手術によって治療する医者の
ことです。
そうした考え方、医の分類によれば、現代の医者の大半は上医とはほど遠いことになり
ます。
「医は仁術」の意味
「手術は祈りなり」と言ったのは、心身医療のパイオニア池見酉二郎医師です。
池見医師は自らの医学を「道」として語っています。その語る意味をよく考えれば、手
術とは手かざし同様の施術であり、まさに祈りそのものとなります。
そもそも医は、伝統的に「仁術」とされてきました。
仁術とは、儒教で言うところの仁徳を施す技術です。それが医術の本質です。仁徳とは
慈しみ深い徳のことです。その医術が、いつの間にか「算術」とされて、今日の医療があ
ります。
そこでは、何かというと「血を見る治療」手術が推奨されることになります。
手術が祈りであればまだしも、大半は仁術とは無縁の治療が施されます。
そんな現代医療界にあって、ユニークな存在である「丸山アレルギークリニック」につ
いては、以前「ウエルネス@タイムス」第6号で「愛こそすべて・究極のアートとしての
治療技術」というタイトルで紹介しています。
一般的な医者やクリニックの紹介には、とても使えない表現ですが、医師本来の在り方
を考えたとき、丸山修寛医師が堂々と「愛」を謳うのは、丸山医師の取り組んでいること
が、昔の医者が基本としていた「仁術」だからではないでしょうか。
未来の医療としてのループ
丸山医師は著書で「人体ではなく、人間を治すことが必要であると考えている」と述べ
ています。そのため、医療の目標として人を良くすること。人間の意識を高次元意識や神
の道徳、悟りで満たすことを目標にしています。
人間という字は「人(人体と人体の内側にあるもの)と間(スペース)」が示すように
「人間の本質である意識や生命は、人体の中だけではなく、まわりの空間、つまり間(ス
ペース)にまで広がっているのです。つまり、見える部分だけではなく、見えない部分も
含めて人間であり、それらは一つなのです。ですから、その両方を治してこそ、治るとい
うことになるのです」と記しています。
そのスペースを、いわば本来の在り方に正すのに有効なのが、一瞬でガン、難病、病気
を治すという「魔法の輪(ループ)」です。
古いようで、実は新しいのが、丸山医師が行っている様々な治療ということになりそう
です。
前回、説明しているように、ループとは本当の自分とアクセスできる方法です。
意識には人間の意識と身体の意識(潜在意識)、私たちを悟りに導く超意識(ハイヤー
セルフ)があり、私(私たち)と潜在意識、ハイヤーセルフとが三位一体でつくる輪「ル
ープ」をつくるとき、新しい気づきがあり、奇跡が起きると言います。
ループで起きている現象について、丸山医師は「現代医学ではあり得ないこと」と語っ
ています。
その仕組みはループによって、本当の自分、つまりは病に冒される以前の健康な自分に
アクセスすることで、余計なものがリセットされ、本来の健康な姿にもどる現象です。
その昔、お経(サンスクリット語)は唱えるだけで効果があったといいます。
その意味では、丸山医師が行っていることは、昔から日本をはじめ世界各地で行われて
きた医療行為、治療法を現代に蘇らせたモノでもあります。
それこそ医の原点であり、総合的に人間に向き合う伝統的な医療です。同時に、古いよ
うでいて、実は身体に害のない「未来の医療」ということになります。
動物は基本的に病気とは無縁です。それがペットとして飼われると、人間同様の病気に
かかります。
そこからは、病気は明らかに文明がもたらしたものだとわかります。
究極の治療法としてのカタカムナ
丸山医師の治療、医学の追究は日々新たな気づき、変化に満ちています。
6月、仙台を訪ねたときには、改めて「カタカムナはすごい。窮境の治療法です」と、
断言していました。
その効果について、一足先に治療を受けていた仙台在住のマクロビオティック指導者・
美上みつ子さんが「あらと思っていたら、首の痛みが消えていた」と話していました。
カタカムナの簡単な呪文のようなものを唱えて、ポンと貼っただけで、首の痛みから解
放されて「ホント不思議です」と驚いていました。
「すごい」としか言いようがありませんが、それはおそらく丸山医師が一般的な医師が見
ない世界を見せられてしまった者として、古来行われてきた多くの伝承的な医術、カタカ
ムナ、ループ、クスリ絵その他、様々な治療法を現代に蘇らせているということではない
でしょうか。
カタカムナについて、丸山医師は現代医学では治せないことが多々あることから、その
限界を自覚。打開策を捜し求める中から、突如、授かったということのようです。
カタカムナは縄文時代よりはるか昔にあった古い文明で、実在不明の神社の御神体とさ
れる文献・カタカムナウタヒという独自の文字で綴られた神話の他には何も残されていな
いため、長い間、謎に包まれたまま、未だ解明途上の文明です。
古代日本の科学技術、哲学が記されているカタカムナについて、丸山医師は「カタカム
ナウタヒをていねいに読み解いていくと、そこには現代物理学の最先端の理論や現代科学
が到達していない超科学についても書かれていました」と語っています。
ループはカタカムナその他、多くの伝統的な治療法の入り口だと言えそうです。
治療の入り口としてのループ
ループについて、改めて「ウエルネス@タイムス」で紹介すると言ったところ、出版準
備中の原稿『一瞬でガン、難病、病気を癒すイエスの“ループ” 奇跡をあなたに』を渡
されました。
そこには「『本当の自分』とは、死を超越した永遠の意識です。人類を支えてくれてい
る世界中の潜在意識とハイヤーセルフに、この本を捧ぐ」との献辞が記されています。
何事によらず、感謝があれば、病気とは無縁の生活が送れるからです。
原稿は、次のように始まります。
「私はこの体である」「私はこの肉体である」「私はこの肉体に宿った心である」と思い
込んでいる限り、人生において肉体を保持することが最優先になります。肉体は永遠に続
くものではなく、人はいつか必ず死ぬという思いが強くなるにつれ、大いなる恐れが生ま
れます。
『本当の自分』は、本当は肉体を超越した永遠に続く意識であるということを知らない限
り、恐れを克服し、平和と平穏、安心は得られません。『本当の自分』に気づく方法、そ
れが奇跡の神技『ループ』です。
丸山医師が指摘しているように、問題は「私」にこだわる現代人の生き方です。
「こだわる」とは、辞書を引けばわかるように、本来の意味は「小事にとらわれる」「小
さな自分」のことです。
そのことの不備を自覚していたためか、もともとの日本語には、基本的に主語(私等の
一人称)はありません。それで十分に通用していたのです。
私や僕などの一人称が使われるようになったのは、外国語の翻訳のためです。「僕」な
どは下僕の僕なので、ろくでもない意味だと、すぐにわかります。「私」の意味は、古い
辞書を引けば「おしっこ」などと出てきます。
一人称を大事にすると、ロクでもないということを、昔の人はよく理解していたわけで
す。
同様に、丸山医師が施している「仁術」では、病気は治さないという医師としての正し
い在り方が基本になります。病気を治すのは、古来「下医」の仕事です。
丸山医師は人間が暮らす空間(スペース)を治すことで、その人が良くなる、病気が治
る手伝いをする、そのための方法を伝えているわけです。
遠回りのようで、確実な方法として、具体的な病気により、宗教的な生き方、つまりは
人間本来の生き方が不可能であるため、人を良くする前提として、病気を治すのです。素
直な感謝の思いがあれば、教え・生き方を受け入れる態勢・土壌ができあがるということ
です。
丸山医師は原稿に「ブッダ&イエスの魔法のループ」と書いたことについて、次のよう
に語っています。
「ループで三位一体になると自然に純粋な気づきになるからです。ループをすると不調や
問題、症状、病気が消えるだけではありません。ブッダやイエスが何年も何十年もかけて
到達した境地に誰もが一瞬で到達できるのです。それも修行や努力をすることなしに」
まさにスゴイことです。
次回は「人生に奇跡をもたらすループ」について、もう少し具体的に説明しようと思い
ます。
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