「文化テロ」を仕掛けた久保田成子  アート上の「革命とイノベーション」トミオカホワイト美術館

 「文化テロ」を仕掛けた久保田成子

 アート上の「革命とイノベーション」トミオカホワイト美術館



 全国を巡回中の「久保田成子展」

 久保田成子は日本を代表する世界的なアーティストの一人です。

 芸術上のパートナーである夫ナムジュン・パイク(ビデオ・アーティスト/白南準)の陰に隠れて、目立たない面がありますが、日本でも再評価の動きが目立ちます。

 2021年3月、郷里・新潟での「久保田成子展」(Viva Video!)に始まって、6月から大阪の「国立国際美術館」と全国に巡回しています。

 2021年11月から2022年2月23日にかけては、東京都現代美術館で開催されています。

 1月13日、いわゆるワクチン訴訟の第2回公判が行われた東京地裁から「ウエルネス@タイムス」記者が、東京現代美術館に向かったのは、コロナ下の表現者としての正しい戦い方のヒントを求めてのことです。

 翌日、仙台の「丸山アレルギークリニック」(丸山修寛院長)を訪ねたのも、コロナ下に医療従事者として、どのような戦い方をしているのかを知ろうと思ってのことです。

(※「丸山アレルギークリニック」については、別項「愛こそすべて・究極のアートとしての治療技術」を参照のこと)




 そして、新潟に帰る途中、南魚沼の「トミオカホワイト美術館」を訪ねたのも、アーティスト富岡惣一郎が、世界でどのような戦い方をしてきたかを知るためです。

「芸術は爆発だ!」と画家・岡本太郎は語っています。それだけのエネルギーがあるのです。そのエネルギーの持って行き場をどこに求めるかは、人によってちがいます。

 とはいえ、基本的に現代アートは伝統的なアートへの反発と、それ以上に停滞を打破することを使命にしています。



 ナムジュン・パイクの「文化テロ」

 1937年8月、現在の新潟市西蒲区に生まれた久保田成子は、17歳で二紀展に入選するなど、すでに才能を発揮しています。

 高校卒業後、東京教育大学(現・筑波大学)教育学部芸術学科彫塑専攻に入学し、1960年に首席で卒業。中学の美術教諭となる一方、積極的な芸術活動を始めています。

 1963年には初の個展「久保田成子彫刻個展」を開催。翌64年、渡米のきっかけとなるオノ・ヨーコ、そしてナムジュン・パイクと出会うことになります。

 古くから交流のあった新発田在住の写真家・吉原悠博氏は「新潟日報」(2022年1月12日)で「久保田成子展」について、オノ・ヨーコが2015年7月に行われた久保田成子の葬儀のために、献花とメッセージを送ったと写真入りで紹介しています。

 彼女をアメリカに導いたのも、オノ・ヨーコだと記しています。

 草月アートセンターで1964年5月に開催された「白南準作品発表会」を見た衝撃を彼女は「テロ」という言葉を使って「世間をあざ笑うかのような彼の文化テロは、私の心に鮮明な印象を植え付けた」と語っています。

 1933年、韓国ソウルに生まれたナムジュン・パイクは1950年、香港を経由して日本に移住。東京大学文学部を卒業後、ミュンヘン大学で音楽史を学び、世界を舞台に新しい芸術活動を展開しています。

 1960年代からテレビモニターを使用したパフォーマンスを始めた彼は「ビデオアート」という新しい表現形式を現代美術に導入し、コンピュータなどの電子機器を使用した「メディア・アート」の世界を開拓したハイテク時代を代表するアーティストです。

 リトアニア出身のデザイナーであるジョージ・マチューナスの始めたニューヨークの前衛芸術団体「フルクサス」に参加。現代音楽家のジョン・ケージ、ダンサーのマース・カニングハムらとビデオ・アートを制作。多くのインスタレーションを手がけ、現在のメディア・インスタレーションの先駆けとなっています。



 マルセル・デュシャンとの出会い



 ナムジュン・パイクの公演に衝撃を受けた彼女は、1964年7月、ニューヨークへ飛んで「フルクサス」に参加。彼のパートナーとしてニューヨークを拠点に、美術の枠を超えた活動を展開しました。

「久保田成子展」の「公式図録」(河出書房新社)の帯には「ヴィデオは女性器(ヴェギナ)の復讐」「ヴィデオは女性器の勝利」といった過激なフレーズが書かれています。

「ヴィデオ──開かれた回路」(「芸術倶楽部」1974年6月号)で、彼女は「ヴィデオ文化の大きい部分は、麻薬文化(ドラッグ・カルチュア)やヒッピー文化がそうであったように、反体制の哲学であり、共同体の文化である。それは現代のリアリティを象徴し社会現象を反映する若者のエネルギーの融合である」と、書いています。


 彼女にとって、ビデオは「ニューライフスタイルのレボリューションである。ラジカルな行為である」と語るように、まさに「文化テロ」の手段なのです。

 そんな彼女の代表作はいろいろありますが、ビデオ・アートそしてインスタレーションが中心のため、動きのある作品はその場に行って見て、確かめるしかありません。

 例えば、現代美術の父とも称されるマルセル・デュシャンと、偶然、彼の死の3か月前に飛行機内で出会ったことから制作された一連のシリーズ「デュシャンピアナ」の他、夫ナムジュン・パイクとの関わりの中から生まれてきた記録とも作品とも言える一連の仕事も、どこかで見たような印象を覚える彼女の痕跡を示しています。



 ビデオと彫刻の結婚という組み合わせ

 オノ・ヨーコがジョン・レノンに多大な影響を与えたように、久保田成子もまたナンジュン・パイクにとっては、特別の存在でした。2人は天才アーティストをパートナーに持つ者同士、固い絆で結ばれた盟友のような関係だったようです。

 事実、彼女はナワジュンの妻である以上に、当時を知る映像作家で詩人のジョナス・メカスの目には「母であり、姉であり、看護婦であった」ということです。その彼女が、ビデオを持って現れたときは「最高のアーティストだった」と語っています。

 事実、彼女のビデオアートは、大学の彫塑専攻の彼女にとっては、バックグラウンドである彫刻家としての限界を超える手段でもあったようです。

 彫刻作品は基本的に動かないオブジェクト(物体)なので「動かないから、そんなに面白くない」という彼女は、映像とオブジェクトという新しい組み合わせを「ヴィデオと彫刻の結婚」だと、インタビューで語っています。

 彼女にとって、新しいものを発明する人間としての仕事だったのです。



 白い雪の中の美術館

 アートにしろ何にしろ、世界の舞台で戦うとなると、そこには世界に通用し評価されるだけの内容と独自性が必要とされます。

 仙台から新潟に帰る途中、南魚沼の五日町で一泊して、白い雪の中に建つ「トミオカホワイト美術館」を訪ねてきました。高田(現・上越市)出身の画家・富岡惣一郎の作品を集めた美術館で、現在は企画展「望郷」が3月15日まで行われています。

 1922年(大正11年)1月に生まれた彼は、高田市の美術展で入賞して美術面での才能を示しますが、日中戦争の最中、国家総動員の時代でもあり、高校卒業後の1939年春、東京の三菱化成本社に就職しています。

 ほどなく中南支方面に出征。4年間の軍隊生活を終えると、終戦の翌年1946年に帰国しています。

 三菱化成に復職後、宣伝部勤務にされたことから、アートディレクターとして本格的な絵画の勉強に取り組むことになったということです。

 画家としての転機になったのは、1958年に行ったスキーツアーでした。



 トミオカホワイトの誕生

 高校卒業後、何と19年ぶりというスキーに、彼はかつて慣れ親しんだ白い雪、天からの贈り物のような純白の大自然のとりこになったのです。

 雪の白を、いかにキャンバスの上に描くか。1962年の「現代日本美術展」第1回コンクール賞までの4年間、白い絵の具について研究を続けたということです。

 白という絵の具は、必ず黄変する性質を持っていました。そして、厚く塗ると亀裂したり、剥離してしまいます。それでは、彼が描こうとする白い雪の世界は描けません。

 そこでその道の技術者の人とたちに相談して、開発のため1年半から2年ほど試行錯誤を続けたのですが、とうとう彼らは「不可能です」「いままで世界中になかったわけがわかりました」と、サジを投げてしまったのです。

 一人、残された彼は、それでも諦めずに研究を続けていたところ、あるきっかけから、突然白絵の具の作り方が閃いたと言います。

 こうしてできあがったのが、世界で初めてという永遠の白トミオカホワイトです。





 国籍・風土から生まれる独自性

 苦心の末、完成したトミオカホワイトを使った作品で、一躍脚光を浴びた彼は、1965年夏、活躍の舞台を求めて渡米準備を始めます。

 そんな富岡のアトリエをアメリカから美術評論家のワッシュバーン氏とニューヨーク・ジャパン・ソサエティの専務理事が訪ねてきました。フォード財団とロックフェラー財団の拠出基金によって、日本の芸術家の招聘を始めており「日米文化交流の第一弾としてトミオカをアメリカへ招きたい」とのことです。

 渡米後の彼は、ワッシュバーン氏から「人まねはどんなに作品が華麗にできていても、全く価値を認めてくれないこと、作家の国籍、風土性から生まれる独自な美学と、それを表現する独自の技術を持たなければ、国際的に通用する作家にはなれない」ことなどを教わったと言います。

 その独自性の一つが、思いどおりの白い世界をつくり出すパレットナイフの開発です。小さいものから1メートルを超えるものまであります。それはまるで、武士の命とも言える刀剣のように見えます。

 もう一つ上げれば、絵を描く技法上の画期的な試みである「バーズアイ」と、実際にヘリコプターや飛行機を使った作品づくりです。

 アメリカから帰った翌年、1973年に京都に移り住んだときのことです。ホテルのロビーにあった雪舟の「天の橋立図」の複製画を見て、どこのどの地点から描いたのか、苦労して雪の中を探して歩いたと言います。

 ところが、天の橋立周辺に、そんな場所はありません。そして、気がついたのが、鳥の目(バーズアイ)となって頭上から見た様を描いたということでした。その発見が、後の飛行機取材へと発展していきました。

 正しく彼の独自性は、国籍と風土を離れてはないばかりではなく、いくつもの発明と発見、技術革新としてのアート上の革命とイノベーションを生んできているのです。

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 ナムジュン・パイクとともに「文化テロ」を仕掛けた久保田成子の戦い方は、激しく破壊的であるようで、女性を武器に祈りに満ちた愛をたたえています。

 富岡惣一郎の白い雪の世界を表現するための戦いもまた、従来は不可能とされた常識を超えた革命とイノベーションによる独創の世界を実現しています。求める強さ、執念に似た努力もまた、静かな祈りのようです。

 2人に共通するのは、愛と平和こそが、アートの本質だということを伝えていることです。

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