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 「歩くエクササイズ」世界で評価される地下足袋シューズ  「和」の世界企業 倉敷「株式会社丸五」を訪ねる

vegita974

更新日:2023年4月3日


 「歩くエクササイズ」世界で評価される地下足袋シューズ
  「和」の世界企業 倉敷「株式会社丸五」を訪ねる





 林芳正外相と各国大使一行の会社見学

 首都・東京にいると、大阪・福岡・札幌あたりの情報はまだしも、その他の地方の情報

には疎くなる。だが、地方には中央などにいてはわからない地域の実情がある。

 例えば、2023年2月5日、岡山県倉敷市の株式会社「丸五」(福田正彦社長)を林

芳正外相が9カ国の駐日大使らとともに工場見学に訪れたことなど、全国のニュースには

ならない。

 倉敷市の伊藤香織市長の案内で、警備を含めて総勢40数名になる一行が「丸五」を視

察したのは、5月に広島で開催されるG7サミット(主要7カ国会議)に先立ち、4月に

倉敷市で労働雇用相会合が開かれるためだ。

 視察は外相が各国大使とともに地方を訪れ、その魅力を理解してもらおうとの外務省の

「地方から世界へ」プロジェクトの一環であり、最初に訪れたのが地下足袋などの履物、

自動車のラッピングホースなど工業製品を製造する「丸五」であった。

 クラボウ(旧・倉敷紡績)の創業地であるように、倉敷は繊維の町である。いまなお伝

統を守って、発展を続ける倉敷の伝統企業の一つに茶屋町の「丸五」がある。

「丸五」の藤木茂彦会長は「地下足袋ブーツ・シューズの丸五といっても、業界では少し

は知られてますけど、ブランド力はまだ今後の課題です」と謙遜するが、創業100年を

超える倉敷を代表する企業として、海外等外部からの視察には、真先に選ばれる一社だと

いうことである。





 100年企業の条件

 かつて「企業30年説」が脚光を浴びた時代があるように、企業の存続は難しい。近年

は跡継ぎがいないといった事情で、事業継承を主眼にするビジネスも盛んである。

 だが、30年どころか、100年続く企業が世界で一番多いのは、日本である。

 長く続く理由は、一言で言えば近江商人の「三方よし」を原則としていること。買い手

よし、つくり手よし、世間よしというビジネスの在り方を当たり前に行ってきている。

 その上で、明確な経営理念があること。伝統を重視すること。従業員、地域を大事にす

ること。そして、常にイノベーション・技術革新が行われていることだ。

「丸五」は、これら100年企業の条件を、当然ながら備えている。

 本社のある茶屋町は、昔は交通の要衝だったため、茶屋をはじめとした多くのサービス

業が盛んだったという。その茶屋町は、江戸時代に小島が散在する近海を干拓してできあ

がった土地である。

 江戸時代の典型的なインフラ投資・イノベーション事業が行われた。その土地に綿や畳

の材料となる藺草(いぐさ)を植えたことから、繊維産業が栄え、倉敷が繊維の町と呼ば

れるようになったという歴史がある。

 倉敷・茶屋町で創業することは、そうした時代と地域の伝統を継承しているということ

である。

 もともと都窪郡帯江村(現・倉敷市)の庄屋だった藤木家は、1917年(大正6年)

綿織物を利用して座敷足袋の製造を行っていた。当主・藤木伊太郎は、この足袋に当時、

人力車のタイヤに使われていたゴムを足裏に縫い付けた「ゴム底足袋(地下足袋)」を考

案、生産をスタートさせた。

 2年後の1919年5月、現在の「丸五」の前身である丸五足袋株式会社を設立した。

 地面の感触を直に感じ取れる地下足袋は、その使い勝手の良さから、広く農業、炭鉱な

どの労働現場で使用される履物として、全国に普及していった。その人気は、当時として

は珍しい600人の従業員が生産に追われたことからも、よくわかる。



 地下足袋と軍靴の響き

 100年企業ともなれば、企業も日本の戦争とは無縁ではあり得ない。戦争の時代には

「丸五」の縫製、ゴム工業技術が軍需工場として利用されたこともあった。

 戦後は、1954年(昭和29年)に丸五ゴム工業株式会社を設立。自動車関連部品を

製造、日本の自動車産業の成長とともに、業績を伸ばして、現在は「丸五」グループを牽

引する企業として、現在に至っている。

「丸五」の100年を振り返ると、創業5年目の1924年にはドイツ人技師を招いて、

革靴製造を開始。翌25年には運動靴・ゴム短靴の製造販売を始め、26年には摂政宮殿

下(昭和天皇)甘露寺侍従御差遣の栄誉を賜っている。

 一方、1927年には、現在も続く岡山〜茶屋町マラソンを主催。1931年に東京出

張所を開設、1932年には万年軍手(ゴム引き手袋)の製法特許を取得。朝鮮半島、中

国、台湾等へ輸出を行っている。

 目指すところも、やっていることも、すでに世界企業なのである。

 戦争は丸五ゴム工業を設立するきっかけとなった一方、地下足袋とも無縁ではない。

「軍靴の響き」という言葉に象徴されるように、軍隊の履物は靴だと信じられているが、

実際には上官は別にして地下足袋が活躍していた。

 例えば一兵卒として大陸に渡った歌人・宮柊二は歌集「山西省」で「地下足袋に鉢巻の

兵過ぎてゐつ月落ち方の胡桃の樹の下」などの歌を残している。

 あるいは、日本軍の捕虜となり、佐渡の捕虜収容所での体験を描いたカナダのケネス・

カンボン著「ゲスト・オブ・ヒロヒト」(築地書館)には、炭鉱や貯炭場での過酷な作業

に「われわれには適当な履物さえなかった」と嘆いて、次のように記している。

「彼ら(日本人)は、親指をうまく収めるために、足の先が二つに分かれた『地下たび』

と称するゴム底の靴をはいていた」「高くて滑りやすい構脚で作業するのに、地下たびは

理想的な履物だ」



 クールジャパンの流れ

 西洋のライフスタイルが日本に入ってから150年以上が過ぎて、気がつけば床の間の

ない家が普通になっている。神棚・仏壇も似たような運命で、マンション生活には似合わ

ない無駄なスペースとされている。新築ではフローリングが主流で、いまや畳のない生活

が当たり前という時代である。

 快適で便利、効率的な生活スタイルが主流になる反面、多くの日本の良さは古いものと

して消えていっている。そんな中、近年のクールジャパンの流れととにも、その価値を改

めて教えてくれているのは、多くの外国人である。畳やコタツ、ちゃぶ台や火鉢など、外

国では意外な使用法とともに愛用されている。

 地下足袋も似たようなもので、近年、その価値を教えてくれたのは、外国人である。

「ウエルネス@タイムス」記者が、最初に地下足袋ブーツ・シューズを知ったのは、ハワ

イの友人が愛用していたからである。

 当時「丸五」製とは知らなかったが、友人はファッション性と同時に、日本の伝統的な

履物の特徴である、履くことが健康につながる「歩くエクササイズそのものだ」として愛

用していた。

 その地下足袋ブーツを、有名ブランドの女性デザイナーが履いている写真が日本でも紹

介されて、大げさに言えば、日本のファッションシーンに衝撃を与えたものである。



 ブランドイメージの革新

 創業者の藤木伊太郎を曾祖父に持つ藤木会長は、もう一度、創業の原点である地下足袋

を見直したという。ゴム工業製品は仕事も多く一見順調だが、製品全体を扱うわけではなく、あくまで下請けの延長でしかない。

 一方の履物は「丸五」ブランドを持ち、製造から販売まで一貫体制を築いている。

「マイブランドの強みを生かす形で取り組めば、十分やりようがあるのではないかと考え

た」と、藤木会長は当時を振り返る。

 東京工業大学(社会工学)で都市計画を学んだという藤木会長は、卒業後、東京のコン

サルタント企業に就職した。40代でUターンし、「丸五」グループに就業することにな

った。

 当時の履物は、大手量販店相手で、シーズンを追いかけていく傾向が強く、折角のブラ

ンドの良さも生かせない。他の消費財同様、多品種大量販売が基本で大手スーパーなどを

相手に大量の在庫を抱えていたという。

 労働者、スポーツ、武道など、日本では用途の限られていた地下足袋だが「もっとおし

ゃれな地下足袋が欲しい」との海外からの要望もあり、誕生したのが、2009年にヨー

ロッパで発売した「ASSABOOTS(アサブーツ)」である。

 ASSABOOTSの開発をきっかけに、それまで海外の自社工場で製造していた製品

を「メイドイン倉敷」として、2012年には地元で一貫して手がける体制を整えた。海

外人気を受けて、日本でも販売を開始したが、地下足袋のイメージを覆すのは、容易では

ない。

 一法、地域おこしブームの中から全国で祭りが盛んになり、地下足袋が多くの格好いい

アイテムと見直されてきた。その中から、その機能性とかっこ良さ、子供から若者、女性、要は老若男女を問わず、支持されている「祭り」に的を絞ったシリーズが誕生した。

 メイドイン倉敷シリーズの大半は、指先が二股に分かれているため、作業は熟練の技を

要する。地下足袋ならではの履き心地の良さを得るには、どうしても手作業になる。職人

技に支えられた製品づくりは、地元・倉敷ならではである。

 2019年には100周年を迎えることもあり、将来性を考えて、新たなブランドイメ

ージづくりにチャレンジ。3年がかりで、いわゆるCI(コーポレート・アイデンティテ

ィ)に取り組んだ。


 「四方よし」のモノづくり

 先に「三方よし」が100年企業の条件の一つだと記したが、実は三方よしには肝心な

一つが欠けている。三方よしの先には「四方よし」があるというのが「ウエルネス@タイ

ムス」の視点である。

 具体的にはつくり手、買い手、世間とともに「商品」そのものを入れるべきだというも

のだ。もし商品に意思があれば、どう考えるのか。単純に安かろう悪かろうでは、情けな

いはずだ。長くビジネスを続けるには、品質その他、すべてに良いものを目指したいと思

うのではないか。

 事実、昔は靴に合わせて、人間の足を合わせるといった靴づくりだったそうで、要は企

業の都合が優先されていた。だが、いまやそんな時代ではない。技術革新とともに、人間

工学・機械工学などの視点から、足にやさしい履物づくりが基本となっている。

 地下足袋以外にも、万年手袋、安全靴(シューズ)、さらには祭りたびなど、多くのシ

リーズがある。一連の商品にはグッドデザイン賞を受賞したものもある。

 そうした時代に、昔からもっとも足にやさしく健康にも良い理想的な履物としての地下

足袋を、さらに現代生活にマッチしたモノにしようと、チャレンジしてきたのが「丸五」

である。

 その成果が、例えば新しいブランドとして開発された「たびりら」「hitoe」など

の一連の商品である。





「たびりら」は 地中海地方で誕生し、愛用されてきたエスパドリーユがヒントになって

いる。エスパドリーユは底に丈夫な麻を使い、上部もキャンパス地を使用した履きやすい

靴である。「シャネル」がファッショナブルなエスパドリーユを発表したことで、おしゃ

れアイテムとして脚光を浴びている。

 今では夏のカジュアルシューズとして定番化。色や素材を含めて、様々なバリエーショ

ンを生んでいる。「丸五」が、このエスパドリーユと地下足袋の良さを融合させて、20

15年に発売したのがリゾートサンダルたびりらである。

 たびりらでは、倉敷産の帆布を採用。倉敷帆布の老舗「タケヤリ」とのコラボレーショ

ンによって誕生している。さらに、徳島の伝統企業「藍布屋(らんぷや)」とのコラボで

ある阿波しじら織を用いたシリーズなど。常に最高のものを追求していることがわかる。

 世界で唯一ホールガーメント製法によるシューズとして、2016年に発売された「h

itoe」のアッパーの布は、世界的なニット編み機メーカーである和歌山の島精機製作

所とのコラボによって開発されている。

 いずれも、労働現場から完全に離れた現代生活にマッチしたおしゃれな新感覚シューズ

として、そこにすでに地下足袋のイメージはない。





 「丸五」の社名に込められた思い

「丸五」のシンプルなブランドマークは、いまなお古びることのないかなり斬新なデザイ

ンである。

 そして、社名の由来こそ「丸五」の原点でもある。

 社名は、もともと創業者が「真摯な気性で円満で勢いよく、さらに世界五大陸へ飛躍し

よう」との思いが込められたものだという。改めてその進取の気性、チャレンジ精神には

驚かされる。

 創業以来、継承してきた伝統と新たな価値を創造する革新の姿勢を大切にしてきた「丸

五」では「未来につながる価値共創を」とのメッセージをホームページに掲載している。

「1919年、私たちは繊維と加硫ゴムの融合として地下足袋をつくりました。以来、人

々の安全と安心のために、その技術を発展させてきました。そして、いま私たちはより豊

かな未来へつなげるべく、様々なパートナーや地域社会と価値共創の取り組みをはじめて

います」

 価値共創の取り組みが目指すところは、すでに創業者が社名に込めて示している。それ

は「地方から世界へ」という外務省のプロジェクトと同じものである。

「町づくりが趣味」という藤木会長は、大学で都市計画と町づくりを学んだ。そんな地域

との関わりは、ますます深くなっている。

 地域とともにある「丸五」の新たな100年に向けたチャレンジは、すでに始まってい

る。これからの「丸五」が、どのような成長を遂げ、変化していくのか興味深く見ていき

たいと思う。



 
 
 

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