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る日本のダーツ、始まりは「ラブストーリー」 その結末  ダーツ界のレジェンドたちを巡る“旅”は続く  作家・波止蜂弥(はやみはちや)

日本のダーツ、始まりは「ラブストーリー」 その結末

 ダーツ界のレジェンドたちを巡る“旅”は続く  作家・波止蜂弥(はやみはちや)


フランス女性に負けた後の日本代表

 ダーツのレジェンドたちを巡る“旅”の案内役である元・ダーツ日本代表の小熊久恒氏は、大学2年のときにダーツに出会った。

 大学に通う傍ら、六本木のイギリス風パブでアルバイトをしていた2年先輩の「青柳運輸」青柳保之社長に誘われたためだ。店に出入りしていると、半年もしないうちに、日本人のためのダーツリーグ戦が始まることになった。

 青柳先輩から一緒にやろうと誘われて、彼の「白山」チームの一員として「ユニコーン・ビジネスマンズ・ダーツ・リーグ」戦に出場した。日本のダーツの草創期、当時のメンバーは海外大使館員、在留外国人、日本人との混在チームが大半である。その中で、青柳チームは日本で初めて、唯一の日本人だけのチームだった。

 リーグ戦の晴れの舞台、小熊氏の相手はフランス大使館に勤務する30歳前後の女性だった。フランス女性相手に若い小熊氏は、運動神経もいいし、負けるはずはないとゲームに臨んだ。

 体力勝負のスポーツとはちがって、ダーツは女性にとって、さほどのハンデはない。対等にゲームが楽しめる貴重なゲームである。だが、それは勝負の場所と相手にもよる。

 フランス女性は意外にも強敵だった。日本男児代表としての気負いがあったのか、まさかの敗戦という屈辱を味わった。

 勝つつもりでいただけに「女の人に負けた!」というショック。その悔しさが彼を「日本で一番、練習した」と自負するほど、ダーツに一生懸命になるキッカケとなった。

 日本のダーツ、始まりは「ラブストーリー」というのは、ダーツを日本に広めたイギリス人アイヴァン・ブラッキン氏と妻である作家・森瑶子さんとの出会いの延長線上の出来事だが、男性と女性の関係も人それぞれである。

 小熊氏と彼に勝ったフランス人女性との間に、特にラブストーリーは生まれなかった。

 ダーツ草創期に起きた権力争い?

 多くの人が集まり、派閥ができて、何事かがブームになれば、そこにビジネス的な対立等、利害関係、勢力図など、多くの問題が生じるのは、世の常である。

 日本のダーツが、現在、第3か第4か、何度目のブームを迎えているのかはさておき、第1次ダーツブームの渦中に日本ダーツ協会が発足して、会員数はかなりの数に上った。

 立派な機関紙や、様々なダーツ製品、グッズができて、一見、華やかな盛り上がりを見せていたのが、当時の日本のダーツシーンでもある。

 ブラッキン氏は、当時の混乱、つまりはダーツがブームの様相を呈してきた中で起きたあるグループの動きに関して「ニューダーツライフ」(2009年3月)に「独自のリーグを立ち上げた」と騒動を「ある意味クーデターだった」と記している。

 秘密裏のうちに協会を設立したことにより、そのニュースが、ある日突然、日本のダーツ界を直撃したからである。

 そして「すべてのダーツプレイヤーは自分たちのところにやって来て、どのチームも参加するだろうと、彼らは考えていた。しかし、この団体は純粋に利益を上げるために作ら

れたものだったように、私は思う」と、自らの立場を明かしている。

 ブラッキン氏は「これに端を発し“ボードの戦い”とも呼べる争いが起き、日本ダーツの歴史は混乱の時代へと向かった」と書いて、混乱に嫌気がさした多くのダーツプレイヤーが、ダーツというスポーツに幻滅。特に、ダーツ草創期を盛り上げた外国人プレイヤーは、ダーツを楽しみたいだけで、権力争いには興味がなかったため、その多くが離れていったと書いている。

 お金にルーズな「協会」運営

 日本のダーツ界の混乱について、ブラッキン氏は立場上、慎重に言葉を選んでいる。そのため、あいまいもこ(曖昧模糊)としていて、門外漢にはよくわからない。とはいえ、言外に怒りが含まれていることが伝わってくる内容であり、たぶん彼は固有名詞を用いることで、自らのごく常識的な発言が“悪口”として捕らえられるのを恐れた、ある意味、優しさの結果だと思う。

 ダーツを愛する立場からは、その団体がもう少し、日本のダーツ界を代表する、あるいはまとめるための組織として、それに相応しい体制、運営を行ってほしかったという、ただそれだけのことである。

 ブラッキン氏が指摘する「純粋に利益を上げるために作られた」とは思わないが、利益を上げられる団体にしたいという漠然とした思いはあったはずである。

 唯一の救いは、ダーツを愛する者たちが他のギャンブルなどとはちがって、仮に会費を使い込まれて「エーッ!」と驚いても、腕を振り上げて、新たな諍いが起こるわけでもなく、呆れて「彼らならやっても不思議はない」とノンキに見ている余裕があったことだろう。

 当時を知るあるレジェンドが、協会事務所を訪ねているとき「頼んだ出前の寿司が届くと、たったいま収めた会費から払っているのを見て、驚きました」と、信じがたいエピソードを語ってくれた。

 その女性会長について、別の知人が「気のいいおばちゃんです」と話していた。

 本人に悪気はないとしても、協会の会費と家計とが一緒というのは、論外である。薄々そんな内情がわかってきて、同協会は発展的解消をする形で、現在の日本ダーツ協会という組織となっているわけだ。

 意外なラブストーリーの結末

 ブラッキン氏と森瑶子さんとのラブストーリーの結末は、彼女の死によって、表向き幕を閉じた。

 ガンで入院していた彼女は、1993年7月6日に息を引き取った。まだ女盛りといってもいい52歳だった。

 その死を3姉妹の3女であるマリア・ブラッキンさんは、作家・森瑶子さんのデビュー作『情事』の書き出し「夏が始まろうとしていた」をなぞるように、著書『小さな貝殻』(新潮文庫)で「彼女の長い夏が終わりを告げた」と書いている。マリアさんが22歳のときである。

 だが、ブラッキン家にも、ラブストーリーの意外な結末があって、それは作家・森瑶子さんとブラッキン氏の共著の形である『マイ・ファミリー』(中央公論社)などからもうかがい知ることができる。二人の表面からはわからない真相の一端は、彼女の死後、娘たちがさらにはっきりした形で描いている。

 ブラッキン氏の本職はコピーライターだったそうだが、その傍らジャパンダーツの取締役として、ダーツ製品を輸入。日本にダーツを広めるために、大いに尽力した。

 六本木時代は、森瑶子さんがその仕事を手伝っていたが、作家デビューして売れっ子になるに従って、貧乏を絵に描いたような一家は、一転して華やかな、森瑶子さんのイメージ通りの生活になった。

 作家になって「ママは成功した」とマリアさんは記しているが、成功やお金が本当の幸せにつながるとは限らない。

 男女間、特に夫婦の関係は他人にはわからないものだが、それは娘にしても似たようなもののようで、著書には何で2人はケンカばかりして、娘たちを困らせるのか。厳格で融通の効かないイギリス紳士である父親に悩まされた母親の姿が書かれている。

「母が作家になり、お金を稼ぐようになって、そして何よりも、素敵な男友達が増えるようになって、父はどんどん嫉妬深くなった」と書いて、夫婦間の会話も少なく、ベッドも別々になるなど「家の中はいつも緊張した重い空気がどんよりと澱んでいた」という。

 下北沢時代には、嫉妬の結果、父親が娘たちの目の前で、妻を殴ったこともある。このとき、彼女は家出をして、1カ月後に帰ってきた。

 マリアさんにとっての疑問は「彼女がなぜ父と別れなかったのか」ということだ。何度も離婚の危機はあった。いまだにわからないというマリアさんだが、案外、正解は「アイヴァン・ブラッキンは彼女を突き動かすエネルギーだったのかもしれない」ということかもしれない。

 そのブラッキン氏は再婚して、いまは別荘のある与論島に暮らしていると小熊氏が教えてくれた。そこに森瑶子さんの墓もあるという、意外なラブストーリーの結末である。

 小熊氏とは「そのうち、ブラッキンに会いに行きたいね」という話になった。

 山口瞳の小説「結婚しません」

 ついでに「君の彼女はどうしたの?」と、知人に聞かれた筆者の恋の結末は、たぶんご想像のように、よくある決別となった。彼女は私と別れて、その土地の有力者のどら息子に嫁いだからである。

 だが、それは我が身に起きたことながら、まるで陳腐なメロドラマのような、まさかの展開となった。

 複雑な家に育ったとはいえ彼女は、表向き、何不自由のない会社社長の娘として、東京都心の高校・大学に通ったセレブのお嬢さんだった。レコード会社の受付嬢をしていたのも、一時期、由緒ある親会社に花嫁授業の一環として勤めたためである。

 複雑というのは、彼女は先妻が亡くなった後、後妻として家に入ったためである。早い話、彼女の母親は父親の愛人として、彼女を生んだ。元は不義の子として、いつもはいない男性を、自分の父として育った。

 後妻となったことから、ずっと年上である先妻の兄弟姉妹や、母娘の生活の面倒を見てくれた父親には、言葉にできない負い目とともに感謝の思いが常にあったわけである。

 結婚適齢期になった彼女は、そのころは父親の会社で事務などの手伝いをしていた。

 そんな彼女を父親と親しい地域の有力者が見そめて「ウチの嫁に」と請われて、結納金代わりの4000万円のエメラルドの指輪が届いたと、後日、彼女が見せてくれた。

 付き合っているとき、彼女はそんな話があることなど言わなかったが、後日、一族の代表的な立場にあった、いわば彼女の後見人の伯父から「誰か好きな人がいるなら、その人と結婚すればいい」と言われたというが、そうした伯父の言葉に従うことはなかった。

 当時の彼女には、父親の決めた縁談を自分の都合で無視できないとともに、無視してまで自分の思いを貫くだけの自信がなかったためである。

 そこには同年代である筆者の「まだ結婚には早い」という、よくある男性側の心理もあった。いまだ「何者でもない」我が身の現実を直視すれば、結婚への迷いがあって当然である。

 実際にはそんな未熟さは2人になれば何の問題もないことも、結婚してみればわかることだが、当時の2人には十分に結婚をためらう決め手にもなった。

 そのころのことだ。いつもバッグに本を入れていた。『若い人』『青い山脈』などで知られる国民作家・石坂洋次郎の青春物を読破した後、サラリーマンもののエッセイや小説を得意としていた作家・山口瞳の新潮文庫を一冊ずつ読んでいた。

 山口瞳はいまではほとんど語られることはないが「週刊新潮」に連載された『男性自身シリーズ』などで人気の作家だった。

 ある日のデートのとき、結婚の話が出ていたわけではないが、たまたまそのとき持っていた新潮文庫が『結婚します』の後の『結婚しません』だった。

 その本を手に取った彼女は、私が彼女との結婚に迷っていることを、小説のタイトルから察知したかのように、パタッと表紙を閉じた。見てはいけない、2人の結婚に対する答えと思ったのかもしれない。事実、二人の仲はその通りの展開を遂げていった。

 その結果、伯父の力添えを断って、高価なエメラルドの指輪を受け取った。まるで、貫一お宮の熱海の一幕のようではないかと、そのとき思ったものである。尾崎紅葉の『金色夜叉』は読んではいないが、ストーリーだけはよく知っている。

 最近は聞かないが「ダイヤモンドに目が眩み」と、昔はよく語られることがあった。

 もしも彼女が見たのが『結婚します』だったら、事態はどう展開していたのか。時間は巻き戻すことはできない。

 ダーツとは無縁の意外なラブストーリーの結末である。


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