ダーツに「人生」を賭けたダーツ界のレジェンドたちを訪ねて
紳士の国「英国」発祥の歴史と変遷 作家・波止蜂弥(はやみはちや)

ダーツとの個人的な出会い
初めてダーツをやったのは、いつのころかは忘れた。
だが、多少、勉強ができて、東京都立のそこそこ知られた高校(ナンバースクールと言われた)を卒業後、東京6大学の一つに進学した筆者の代わりに、おしゃれと遊びに熱中していた兄が、どこからかダーツボードを家に持ってきた。
オモチャなのか、本物だったのか、あまり興味のなかった筆者にはわからない。その兄はすでに亡くなっているが、遊び人の祖父の血を引いてなのか、1960年~70年代の流行に敏感だった。
筆者が中・高校生のころには、銀座に出没したみゆき族の走りで、コーヒーのずた袋を抱えて銀座に遊びに行っていた。当時、流行っていたVANやJUNなど最先端のアイビールックに身を固めて。
その銀座は父親が70歳過ぎて、仕事を兼ねてとはいえ、フラフラと仕事先のクラブを飲み歩いていた。そこそこ有名な老人だったと、銀座のクラブの勤め人に聞いたことがある。
私が勉強している日々に、酒は飲めない未成年の兄は、代わりにシンナー遊びをしながら酔っぱらっていた。突然、家に見知らぬ女友達を連れて帰ったこともある。
大学時代には自動車のA級ライセンスを取って、日産スカイライン(スカG)を改造して、富士スピードウェイを300キロで走ったり、クルマの上に大きなサーフボードを積んで、湘南の海に通っていた。
そんな訳で、まったく遊び関係は兄に任せていた私が、再びダーツを目にしたのは、大学時代。酒場にあったダーツボードを横目にしている程度のことであった。
そんなダーツを初めてまともに投げたのは、大学卒業後、何年か経ったころだ。ゼミの先生の長男が、西麻布にダーツの店を開いたというので、同期の連中と行ったことがあった。
東大卒の先生は父親も兄弟も大学の学長や大学教授という、いわば学者一家であった。
その長男が、なぜか音楽関係の仕事を始めて、ついにダーツの店を開いたのである。
お固い学者一家とのギャップにちょっと意外な思いを抱いたものだが、ダーツはそんな知的な部分と遊びとが微妙に絡み合ったゲームというか、スポーツだということなのかもしれない。

人類の発祥とダーツの起源
DARTS(ダーツ)の語源は、当たり前だが、その発祥と密接に関わっている。
14世紀初頭「手で投げる金属製の矢」という古フランス語の「dart」(投げ槍・矢)から来ているという。なるほど、単純にイギリス発祥の紳士のスポーツ・ゲームだと思っていたら、古フランス語とは意外な真実である。
公益社団法人「日本ダーツ協会」の「ダーツの歴史」には、いまから500年以上前、1455年に始まった英国の内乱、バラ戦争の戦場に駆り出されたイギリス軍兵士たちが考え出し、戦いの余暇に武器である弓矢を使って特定の的を目がけて矢を射って、腕を競い合ったのがルーツとされている。
その後、弓を使わず、矢の部分だけを素手で投げる競技へと変わり、的も初めは空になったワインの樽座を使ってゲームを楽しんだと伝えられていると書かれていた。
だが、もっと古くダーツのようなものが歴史に初めて登場したのは、6世紀のビザンティン帝国時代で、東ローマの将軍ベリサリスが盾の内側に「ファイティングダーツ」と言われる46センチ程の矢を備えて使用していた。手で投げる方法で、いまのダーツに近いとされているとか。
もっとも、長谷川洋著『英国流ダーツ入門』(ブイツーソリューション)には、英国で生まれたダーツの起源について「歴史を遡れば、有史以前の約45万年前、英国がまだ大陸と陸続きであり、人類が地球上に出現した頃、彼らが使用していたと思われる石器や矢じりが、最も古いダーツの起源ではないかと考えられています」と書かれている。
そう指摘されれば、小石やボールを壁や何かに当てることは子どもでもやる。槍や弓矢なども地球上のあらゆる民族が用いている。ダーツの起源を探っていけば、人類の発祥にまで至って当然である。
そのダーツは、単純に英語のスペルを分解すると、冗談ついでのことだが、Dは「ダイナミックな」、Aは「遊び=アミューズメント」、Rは「リラクゼーション」、Tは「対決=タイトル戦」、Sは「スポーツ」という組み合わせになる。ある意味、ダーツの要素そのものである。
つまりは、ダイナミックな遊び(アミューズメント)であり、息抜き(リラクゼーション)でもあるとともに、対決・ゲームによるタイトル戦にして、スポーツということだ。
そんなダーツに「人生を賭けていた」という言葉を聞いたのは、1881年、池袋にダーツカフェ「MOMONGA」をオープンした二木和美氏からである。
カフェ「ももんが」には、いまだ現役というダーツボードがトイレ脇の壁にかけられている。
「ダーツに人生を賭けた」と彼が語るのは彼の実兄であり、日本のダーツ草創期を盛り立てていった重要人物の一人・小山統太郎氏である。

ダーツに人生を賭ける
今回の筆者のダーツのレジェンドたちを巡る“旅”は、2024年2月、アスリートたちに人気の酸素補給水「WOX」の製造販売で知られる「メディサイエンス・エスポア株式会社」(松本高明社長)で出会った元・ダーツ日本代表として活躍した往年のレジェンド・小熊恒久氏を案内人にスタートした。
1949年6月に生まれた彼のダーツ並びに人生については、次の機会に譲るが、いまはダーツのレジェンドとして、第二の人生をダーツ界の様々な可能性を追求するため、新たな挑戦を続けている。
その小熊氏とともに「モモンガ」を訪ねて、草創期の貴重な資料を借りてきた。
二木氏の話とともに、そこから見えてくるのは、まさにダーツに人生を賭けてきた小山統太郎氏と、レジェンドたちの姿である。
小山氏はイギリス発祥のダーツを、人生に賭けるに相応しいゲーム・スポーツとして、本来であれば「オリンピックの一競技」になっても不思議ではないとの認識のもと、たぶん人生をかけてダーツに向き合ったのではないか。
元シャンソン歌手兼モデルの夫人とは海外のダーツの場で出会ったというエピソードからは、草創期の日本のダーツの行われるシーンと奥行きが、少し浮き彫りになってくる。
小山氏はダーツ草創期に、六本木・麻布でダーツの店を経営し、自らダーツを楽しめる場をつくって、ダーツの魅力、競技としての正しいダーツのやり方を伝えることに努めたのである。
1986年には、日本初のプロフェショナルダーツ組織「JPDO」を自ら会長として発足させ、その後、日本における賞金付きトーナメントの第一弾をスタートさせている。
小山氏が「人生を賭けた」というのは、自分の店や不動産を売ってまで、JPDOの存続のために尽力したためである。
当時、発行されていたJPDOの機関誌「ダーツ・マガジン」には、小山会長のあいさつなども掲載されているが、表向きのダーツの歴史には、どこにもそんなことは記されていない。

今日のダーツ協会並びに業界の変遷・存続には、小山氏をはじめとしたその熱い思い、情熱がベースになっていたのである。
晩年は横須賀に焼肉店や逗子にイタリアンレストランを経営していたという。
小山氏とともに二木氏もダーツがブームになる一方、お酒が入ることによって、本来のダーツのルールだけではなく、マナーを重視した正しいダーツのやり方を教育し、啓蒙に努めた。
ダーツはもともと紳士の国イギリス発祥という紳士のスポーツである。当時を知る二木氏はその後、アメリカからダーツマシンとともに上陸し、現在の主流となっている「ソフトダーツは性に合わない」と明言する。
ちなみにハードダーツはスチールダーツと言われるように、矢(バレル)の先がステール製のピンになっている。取り扱いに注意が必要であるだけでなく、ソフトダーツ(ピンはプラスチック製)のようにマシンが自動的に点数を計算してくれるわけでもない。競技者が自分で計算して、いかに勝利に導くかを素早く判断する計算能力と集中力が必要とされる。
そんな知的要素があるのに対して、ソフトダーツはゲームに単純に熱中できる遊びの要素が強いといった違いがある。
マージャンが機械化されるのと同様、何事も機械化され簡便になる時代の流れの中で、多くのダーツファンが知らない日本のダーツの歴史があるということである。

それぞれの人生とダーツ
ダーツは人生そのものである。マージャンやゴルフ、ギャンブル同様、人生を賭ける人がたくさんいる。だが、人生とはちがって、あまり哲学するとか、小説にするといったことはないようである。
作家・森瑶子氏がダーツを小説に登場させたのも、日本で最初にダーツを広める役割を担ったイギリス人の夫アイバン・ブラッキン氏が、日本で本格的なダーツの店を始めた関係からである。
その彼は1976年にアメリカで初のダーツ本『オール・アバウト・ダーツ(ダーツの全て)』をウィリアム・フィッツジェラルド氏との共著で出版。翌年、作家デビュー前の彼女が本名で、日本では『英国流ダーツの本』として翻訳出版している。

森瑶子氏の小説にも、ダーツをする青年として登場しているという小熊氏が、学生時代
にダーツに夢中になるのは、2年先輩の青柳保之氏(青柳運送代表取締役)から誘われた
ためである。
1978年、東京・五反田の外れにダーツができるパブリックバー「ザ・ウィーパブ」
ができた。その後、六本木に「エリズキャビン」が誕生した。そして初めての日本人オー
ナーの店「ライジングサン」というアイリッシュダーツパブができていく。
そうしたバーを拠点に、小熊氏は青柳氏から誘われて、一緒にリーグ戦に出るためのチ
ームを組んだという。
当時のダーツの世界は、各国大使館やYMCA、航空会社スタッフなど、大半が外国人
であり、実際に各国大使館で試合が行われていた。そこでの日本人の中心にいたのが、青
柳氏だった。
家業を継いだ青柳氏は、いわば実業の世界での成功者として、ダーツの現場から離れた今
も、ダーツ草創期を知る者の一人として、日本各地にダーツ仲間がいて、交流がある。二木氏の消息を伝えてくれたのも、青柳氏である。
家業の運送業の他、一般社団法人「東京都トラック協会」に深く関わってきて、いまも
文京支部の顧問として、変わり目にある業界を支えている。

東京にある「ダーツの聖地!」
東京の「ダーツの聖地」は、中板橋にある。ダーツのトッププロとして、いまなお語り継がれる実績を積んできた浅野眞弥・ゆかり夫妻が始めたダーツバー「Palms」である。
特に、ゆかり夫人は最強の女子プロとして語り継がれているという。そんな二人の店は
「ダーツをやっている者なら、一度は訪れたい店だ」と言われている。
後進にトップの道を譲った後、競技から身を引いたわけではないが、ダーツを第二の人生として、二人はダーツバー「Palms」を持つことによって、ダーツは人生そのものになったのだ。
初めて店を訪ねた際、初心者の筆者にダーツの投げ方を教えてくれたのも、浅野眞弥氏だった。
「こうやって投げるんだ」と、見本として3本の矢を続けて投げた。
真ん中に当たると、大当たりのハデな音が鳴ってボードが光る。
一投目がど真ん中のブル(中心)、二投目も同じ、三投目も周りのブルで、お見事というほかない。
さすが、伝説の元トッププロである。
だが、ダーツに「人生を賭ける」という表現が、必ずしも大げさではないのは、レジェンドの一人で、いまなおプロとして全国各地のダーツ大会に参加している佐藤敬治プロである。
最初に「メディサイエンス・エスポア」で会ったときに、なぜか持ち運び式の酸素ボンベを携えていた。肺気腫か気胸か詳しいことは聞かなかったが、昔、肋膜炎を患ったことがある筆者は、肺の吸う機能が多少劣るため、今もたまに知らず知らずに深呼吸する形で酸素を取り入れている。
ダーツは他のスポーツに比べれば、集中力はともかく、体力の勝負ということはない。
とはいえ、酸素ボンベを携行してのダーツなど、想像がつかない。まるでエベレスト登山のようではないか。
まさかのダーツプロの姿に、思わず筆者の愛用品である「酸素ミスト吸引スティック」を胸のポケットから取り出して「これ、いいですよ」と薦めている。
事実、佐藤プロとは、その後、浅野氏の店の他、郡山や池袋のダーツ大会などで会っているが、WOXを愛用して以来、彼はプロとして参加している試合の場でも、酸素ボンベなしで戦っていた。
まさに人生、つまりは命を賭けて、いまなおプロとして試合に出場している。全国各地の会場では「けいポン」と、レジェンドらしからぬ愛称で、よく声をかけられていた。
いつも一緒にいる夫人のほうは、郡山や池袋会場で大会主催者のスタッフとして、ゲーム進行などを任されていた。夫婦揃って、ダーツに人生を賭けているのである。
ダーツにはそんな不思議な縁と濃密な人生のエッセンスがある。
ダーツに人生を賭ける人たちが、イキイキとしている理由でもある。

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