ダーツの始まりは「ラブストーリー」その後の日々 18 ダーツバーBeeのウェットティッシュ? 作家・波止蜂弥(はやみはちや)
- vegita974
- 6月8日
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更新日:6月9日
ダーツの始まりは「ラブストーリー」その後の日々 18
ダーツバーBeeのウェットティッシュ?
作家・波止蜂弥(はやみはちや)

東京駅お忘れ物承り所
2026年5月、ホテルをチェックアウト後、JRのお茶の水駅で乗り換えて、東京駅に向かった。空いていた優先席に座ると、ドア側に座っている若者の後ろポケットの下にウェットティッシュがあった。

「もしかして、誰かの忘れ物かも?」と思いながら見れば、10枚入りの宣伝用ノベルティのようで、何とダーツボードに「Bee」の文字が目立つ「ダーツバーBee」のものである。隣の若者のものとは思えないが、一応「これ、君の?」という感じで見せると、ちがいますと手を振った。
こんなところにダーツバーのノベルティグッズがポツンと置いてあるとは、単なる偶然とは思えない。早速、落とし物センター(東京駅お忘れ物承り所)に届けなければというのは嘘だが、そのまま捨てられるよりはと思ってポケットに入れた。
東京駅の忘れ物センターは中央線のホームからは、ほど近い丸の内にある。試しに「中央線の優先席にウェットティッシュの落とし物があったのですが」と持参するとどうなるのかとも思ったが、止めた。考えるまでもなく、当たり前に忙しいのに余計な仕事を増やすようなものである。ダーツの連載に使える話かどうかはさておき、貴重な掲載写真にしたほうがよっぽど有効利用になる。まさか落とし主が、落とし物センターに「ウェットティッシュ届いてませんか?」と訪ねてくるとも思えないため、そのまま持ち帰った。
東京駅は土曜日のせいか、いつも以上に人人人、日本人と外国人が入り交じっている。新潟駅では亀田製菓のハッピーターンが発売50周年ということで、通りすぎる人にティッシュを配るように、ご試食品2個を手渡していた。ありがとうございますと、とまどいながら口にしたが、外に出れば何があるかわからない。


史上初のナインダーツ
後日、元ダーツ日本代表の小熊恒久氏に「ダーツバーBeeを知っていますか?」とメールしたところ、早速、電話がかかってきた。「知っているどころか、アジアNO1のポール・リム氏をアテンドして、一緒にBeeの店を回っていた」とか。何とも意外な展開というか、さすが元ダーツ日本代表である。
日本にソフトダーツの機械が登場して、小熊氏もソフトダーツをやりだして1年ほどしてできたのが「ダーツバーBee」であった。ハードダーツに代わってソフトダーツを日本に広めることになったゲームメーカー「セガコーポレーション」(里見治紀・代表取締役会長)が、2002年に東京・渋谷に第1号店をオープンした老舗のビッグチェーンである。
ダーツバーBeeのホームページには、同グループは全国にエンターテインメントダイニングを展開。遊び・飲食・人をつなぐ新業態店舗を展開中。国内最大規模のダイニングダーツバー「Bee」、スポーツアミューズメントバー「BeeRUSH」、およびダーツバー「KABARA」「DoDARTS」全国30店舗を運営していると出ている。多少、ダーツをやる者なら誰でも知っているダーツバーであった。
小熊氏がポール・リム氏をアテンドするきっかけとなったエピソードを話してくれた。
以前にも簡単に紹介しているように、小熊氏は1977年にダーツの本場イギリスで開催された第1回ワールドカップに日本代表として参加。その後10年間、日本代表としてワールドマスターズ(イギリス)をはじめとした、数々の世界大会に出場してきた。1982年のJDA(日本ダーツ協会)の男子ランキング第1位である。
シンガポール出身のポール・リム氏は、小熊氏よりも5歳ほど若い。だが、1990年1月、ダーツの聖地・ロンドンのアレキサンドラパレスで開催されたBDOワールド・チャンピオンシップで史上初の「ナインダーツ・フィニッシュ」を達成した伝説のプレーヤーとして知られる。
ナインダーツとはゼロワンゲームの「501」を最短の3ラウンド=9投でフィニッシュすることだ。ゴルフのホールインワンはさておき、マージャンで言えば天和(テンホー)のようなものだが、たぶんもっと難しい。ちなみに天和とは親の配牌14枚の時点で上がっている(和了形)という役満で、確率はおよそ33万回に1回(約0.0003%)と言われている。
もっとも、ナインダーツを達成した大会での彼の最終的な成績は準々決勝で敗退している。ダーツの世界もまた単純ではない。

元アジアNO1の勝負
当時、彼は世界のダーツ大会で活躍、アジアでは自分が「NO1だ」と信じていた。元日本代表を10年間続けた小熊氏も、密かに「アジアNO1は自分だ」との自信を持っていた。
そんな2人が最初に対戦することになったのが、カナダで行われたアジア・パシフィックカップの予選であった。相手は、若くして「ナインダーツ」を達成した伝説のプレーヤーである。「我こそはアジアNO1!」と優勝するつもりで出場した大会で、まさかの予選敗退。ポール・リムをコテンパンにやっつけた小熊氏が優勝した。
その後すぐ、小熊氏は日本からタイオープンに参加。彼はシンガポールからタイに来て合流。タイオープンでの二度目の対決となった。カナダでは彼の鼻の骨をへし折った形の小熊氏であったが、決勝での対戦となったタイではポール・リム氏が優勝。「コロッと負けてしまった」と語る小熊氏は準優勝に甘んじた。
ちなみにカナダで行われたパシフィックカップは優勝賞金はナシだったそうだが、タイオープンは優勝賞金が50万円、準優勝は25万円であった。お金が絡むと普段の実力とは異なる力が発揮されるのか、ポール・リム氏に雪辱を許している。
だが、2人は同じ世界で戦うアジア人同士である。優勝を争ったこと、しかも一勝一敗の結果をきっかけにして仲良くなった。その後は同じアジアの友人として、ダーツバーBeeを一緒に回ったように、彼が来日した際には日本各地を案内するだけでなく、良く一緒に遊んでいたそうだ。



「アジアミックス」チーム
タイオープンで優勝したポール・リム氏と準優勝の小熊氏は、なぜかタイでは大人気でというか、古い資料によれば、仲良くなった2人はタイオープンでは7年連続、決勝で対戦したということだ。タイオープンのいわば表の“顔”となった、そんな実力者2人だけに、タイの連主に愛されたのも当然だが、それだけではない。地元のダーツチームに誘われて、チームの一員になっていたこともある。
それが「アジアミックス」チームで、タイでのダーツ大会にも出場を続けていた。タイでの試合では、通常、日本から参加すればエントリーフィが必要になるが、ゲスト待遇のため、小熊氏の分はタイ側が持ってくれた。もっとも、その代わり「勝ったら賞金はみんなで山分けする」という決まりになっている。
そのため「タイに行って3回試合に勝ったとしても、損はしなくても、チョロッと儲かる程度でね」と、冗談交じりに振り返えていた。「タイにはずいぶん通った」と以前から聞いてはいたが、そんな事情があるとは知らなかった。まだハードダーツの時代のことである。

ダーツの国際交流イベント
ダーツを通じて友人となった2人だが、小熊氏がほとんど趣味の延長の形で現役復帰。いまは「アムズバランス」チームに所属。夏に行われるダーツ大会「チームバトル」の出場メンバーになっている他、東京・板橋のダーツの聖地「Palms」で毎週行われる試合にチームの一員として出場したりしている。
一方、5歳年下とはいえ「ポール・リム選手の存在なしに、ソフトダーツは語れない」と言われている彼は、その後もソフトダーツのワールドチャンピオンシップシリーズ「THE JAPAN」(ダーツライブ主催)の「THE WORLD2016」の年間ランキング1位を獲得。しかも、2022年にシンガポールから日本に拠点を移して「TARGET DARTS JAPAN」に参戦。2024年に70歳で優勝して、ニュースを耳にした小熊氏を驚かせている。
いまだ現役の彼は、最近も2025年11月に、東京・渋谷区立代々木中学校で「言語の壁を越えた笑顔でつながるスポーツダーツの可能性」との触れ込みで、株式会社ダーツライブの協力で、大規模なダーツ交流会が開催されたとき、そのイベントにゲストとして登場している。
同イベントは世界的な教育プログラム「デザイン・フォー・チャレンジ(DFC)」の国際イベントの一環として企画されたもので、世界10カ国から訪れた子どもたちと日本の中学生など、合わせて100組(200名)がダーツを通じた国際交流を行ったもの。イベントでは予選を勝ち抜いた3組が、最後にポール・リム選手とともにステージ上で決勝戦を行って、子どもから大人まで、言語・性別・年齢・障がいの有無を問わず、誰もが同じ条件で楽しめるダーツの特性が生かされた国際交流イベントになったという。
ダーツライブも参加している「ダーツを誰もが楽しめるスポーツに」とのスローガンを掲げる「スポーツダーツプロジェクト」の活動の一環でもある。
その活動に一役買った、いまも現役のポール・リム氏だが、2026年3月12日、地方での大会を最後に、Xで「皆さまにお伝えしたいことがあります」との書き出しで「日本を去る」との報告を行っている。
友情に終わりはないとはいえ、多くの伝説を残したダーツのレジェンドの最新情報は、何と「JAPAN」からの退場という意外なものであった。その幕切れはどこかラブストーリーの別れに似ているようにも思えてくる。



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