フォトギャラリー 岡山県倉敷の「良寛」さま
新潟にはない国民宿舎「良寛荘」を訪ねる
写真
1.倉敷「良寛荘」
2.円通寺の良寛
3.新倉敷駅「良寛と童」像
4.玉島の良寛通り
幼少時、絵本やマンガで童と毬をついて遊ぶ良寛の姿を覚えています。良寛に関する最
初の記憶です。
その後、良寛に興味を持ったというか、現代に通じると思ったのは、彼の幼名が知人と
同じ「山本栄蔵」と知ったことです。江戸後期に生きた良寛ですが、ちょっと調べると新
潟出身でした。
実際に、新潟にいると、どこに行っても良寛に関係するモノだらけだとわかります。
関連施設も良寛の遺墨、遺品、文献等を展示した出身地・出雲崎の「良寛記念館」の他
「燕市分水良寛史料館」、長岡市「良寛の里美術館」などがあります。
新潟美術館前の公園にも「良寛と童像(良寛さん遊ぼ)」が設置されています。
良寛の生家跡に立つ「良寛堂」の他、「良寛」ブランドは醤油の他、日本酒にもなって
いるぐらいで「良寛堂」は笹団子を売る和菓子店の屋号にもなっています。
中には、残念なニュースもあります。2023年2月、良寛の地元で長年、親しまれて
きた「良寛牛乳」が自己破産に追い込まれたというものです。
まさに“新潟の良寛”の危機、将来の不安を象徴しているようにも思えてきます。
事実、新潟にはない良寛の一つが、観光につきものの宿泊施設です。
唯一「良寛」の名を冠した国民宿舎「良寛荘」があるのは、倉敷・玉島です。すぐ上に
18歳で出家した良寛が、修行のために訪れた円通寺があります。
その倉敷では、新倉敷駅前に「倉敷の良寛」を象徴するように「良寛と童像」が設置さ
れています。駅から良寛荘に向かう途中、バスの終点(玉島中央町)の先には「良寛通り」があります。
まさに、倉敷の良寛です。
その「良寛通り」は倉敷にしかありません。新潟にあるのは、良寛と貞心尼が晩年を過
ごした長岡・和島の「はちすば(蓮の葉)通り」です。
新潟と倉敷の両方を見ると、観光面では新潟の良寛は施設等が多く、しかも分散してい
るため、散漫な印象を拭えません。対する観光都市・倉敷の良寛は、さすが観光資源の用
い方に長けています。
作家・水上勉が、名著といわれる『良寛』の著者・東郷豊治氏の言葉を引いて「わかっ
ていることは、宝暦8年(1758年)に出雲崎の名主・橘以南の子として生まれたこと、
天保2年(1831年)1月6日に、三島郡和島村島崎の木村元右衛門家で亡くなってい
ることぐらいで、他のことは傍証で想像するしかなくて、74歳の生涯はまことに曖昧で
ある」と書いています。
「えっ、ホントなの」という感じですが、図書館に並ぶ良寛本を見ると、わからないから
こそ、次から次へと良寛本が出るということなのかと、納得できるようにも思います。
そんな良寛ですが、晩年を過ごした長岡・和島の隆泉寺にある良寛の墓碑には「僧伽」
と題した詩句が刻まれています。そこには彼が、仏門に入り、修行する中で「出家した僧
に仏の道の心がない」ことに失望していく思いなど、当時の寺院、仏教界の腐敗・堕落ぶ
りが書かれています。それが良寛が定住の寺を持たなかった理由のようです。
良寛の今日的な意味を考える上では、いまの仏教界、宗教界もまた、その指摘通りの体
たらくです。良寛の今日的な意味は、いささかも衰えていないことがわかります。
掲載写真について
新潟の県民性の一つは、万事控え目で広告宣伝が苦手ということです。観光資源として
の良寛なども、その一つで、全国良寛会は新潟が中心でも、なかなか一つの大きな力にな
らない印象があります。新潟にあっても不思議ではない「良寛荘」や「良寛通り」が倉敷
にあるというのは、実に象徴的です。
「良寛荘」は1966年に「岡山勤労会館」として建造され、1976年から市営の国民
宿舎として開業、現在は倉敷国際ホテルが指定管理者となって、今日に至っています。
円通寺には良寛立像、良寛堂などの他、山頂には童と良寛像、八大龍王宮があり、観光
の目玉となっています。
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