人はなぜベジタリアンになるのか?
「絶対得するビーガン&ベジタリアン」8
マクロビオティックセミナー
ベジタリアンになったきっかけって、何ですか?
直接のきっかけは、マクロビオティックの指導者・久司道夫氏をアメリカのボストンに
訪ねていったことですね。
いつごろですか?
1980年です。当時、たまに訪ねていっていた東京・四谷の「真成院」(真言宗)の
先代住職・織田隆弘師に「アメリカに行く」と伝えたところ「ボストンに行くなら、久司
さんを訪ねたら」と言われたためです。
当時は、すでに狂牛病が問題になっていて、その実態を聞いたりしているうちに、肉食
に対する違和感を抱いたものです。
当時、1月半ほど海外旅行をして日本に帰ってくると、帰国後、刺し身や寿司が食べら
れずに、しばらく苦労をするなど、不思議な違和感もありました。寿司ブーム前、海外で
は寿司は高級品のため、生魚を食べる機会がなかったためです。
決定的だったのが、久司さんが日本に指導に来るようになって『地球と人類を救うマク
ロビオティック』(文芸社)を出すに当たって、彼のマクロビオティックセミナーに参加
したことです。
万座温泉のホテルで1週間ほど、講義と料理セミナーなどを行う合宿方式の勉強会で、
講義(理論)を聞いた上で、自分たちで料理をつくって食べるのですが、そのときの玄米
あるいは野菜を一口食べて、その玄米と野菜の力、エネルギーを実感したのが、最初のベ
ジタリアン体験です。
玄米と野菜の力ですか?
食事のとき、同じグループの医師から「ゆっくり噛まないとお腹壊しますよ」と注意さ
れましたけど、すぐに玄米も有機無農薬野菜も、普段食べているものとは明らかにちがっ
ていると実感しました。
早速、デパートでドイツ製の圧力鍋を買って、玄米菜食に取り組んだわけです。
初めてみた「肉の夢」の内容
奥さんが料理をするんじゃないんですか?
いや、男性のベジタリアンがすぐに挫折するケースが多いのは、自分で料理をしないた
めです。ベジタリアンライフを続ける人物は、基本的に自分で料理をしています。
へぇー、そうなんだ。
実際に、玄米はこうやって研いで炊くのだと実例を見せて、なおかつ、なぜ玄米菜食な
のか、理論的に説明できないと家庭内で孤立しますし、続けることはできません。
確かに、ビジネスパーソンには難しいかもしれないですね。
せいぜいダイエットのためとか大病を経験したケースがほとんどで、すぐにリバウンド
が問題になり、病気が治れば元にもどりがちです。
しかし、よく肉を食べずにいられますよね。
ベジタリアンもいろいろですけど、私の場合は例外だとは思います。
肉の夢って見たりしないんですか?
ああ、一度だけ、ずいぶん昔に見たことがありましたけど。「食べたい」という夢では
なくて、とっくに亡くなっている母親が台所で料理をしていたのですが、まな板の上に大
きな肉のかたまりがあるのを見て「まだ、そんなものを食っているのか!」と呆れたとい
う夢です。
アハハハ。そういう夢ですか。しかし、魚はどうですか?
だいぶ前に、一人で寿司屋のカウンターで寿司を食べている夢を見たことがあります。
そこには離れたところに2人づれの客がいて、盛んに高いネタを頼んでいるわけです。
こちらはかっぱ巻きに梅しそ、納豆、おしんこなど巻物主体で、安物ばかりです。回転寿
司ならともかく、これではお店に申し訳ないなと思って、カウンターの客が頼んでいたタ
ラバガニとか高いエビを頼んで、食べていたら「あれ、カニもエビも食べなかったよな」
と思って「ウェー、変なもの食べちゃった!」という夢です。
アハハハハ。でも、昔は食べていたわけですよね。
ええ。おいしいと思って食べてました。
それがなぜ、魚も食べないベジタリアンになったんですか?
実は肉も魚も嫌いだった!
マクロビオティックを知って、久司さんの話などを聞いていて「何だ、肉も魚も食べな
くてもいいんだ」とわかったからです。昔のことを思い起こすと、食にまつわるいろんな
記憶が蘇ってきて、実は肉も魚も牛乳もタマゴも嫌いだったんだと気がついたわけです。
というと?
例えば、牛乳などは、特に日本人は分解酵素を持っていないため、お腹を壊すことが知
られています。実際、いつも下痢をしていました。そのため、飲み方などを工夫しながら
何とか飲めるように慣れさせていくわけです。
でも、体に合わないものは無理して飲んだり食べたりしないに限りますよ。
昔はよくしめサバなんかを食べて蕁麻疹ができて、学校を休んでいました。おいしいと
思って食べていましたけど、体が拒否していたわけです。あるいは遠足というと、ゆで玉
子がつきものでしたけど、いま思えばいつも吐き気をもよおしながら、無理やりジュース
や牛乳で流し込んでました。
他にも、生がきとか伊勢海老やズワイガニの刺し身など、戻しそうになりながら、それ
でもおいしいと思って食べていたわけです。一事が万事、そんな調子です。
アハハハハ。肉はどうなんですか?
おいしいと思って食べてましたけど、パーティやホテルでよく出てくるローストビーフ
にしても、どこがおいしいんだと思って食べていました。ユッケとかレバ刺しなんかも最
悪ですけど、霜降りの牛肉なんか、どうしたらおいしく食べられるか苦労して、結局しょ
う油にタバスコが一番飽きずに食べられるとか、ずいぶん余計なことまでして食べていま
した。
そんなですから、大げさにいうと「よくも、いままでだましてくれたな」と、親の仇に
でも出会ったような気分になるわけです。
みんな肉食文化にだまされている!
前号で「肉食」について取り上げていますが、肉食を止めるべき理由は、いくらでもあ
ります。
山田孝之氏は俳優業の傍ら、最近は「生きるスキルを身につけたい」と言ってコミュニ
ティ「原点回帰」と称する活動を始め、日本各地の畑で野菜づくりを実践しているという
ことです。
その彼がインタビューで、よく息子と釣りをすると語ってました。息子も喜んでいるそ
うですが、釣った後「帰って食うぞ」と言うと「僕いらないとか言うんです」と話してい
ました。
そこで彼は「もう死んじゃっているからダメ、食べなきゃいけない」「俺が捌いて調理
するから食べなさい」と、いわば食育の一環として「感謝していただきなさい」と話して
いるそうです。
それはわれわれ人間が、なぜ肉や魚を食べるようになったかの経緯を、よく物語ってい
ます。つまり、第一印象では「食べたくない」という反応ですけど、慣習的に、また「何
でもおいしく食べなければいけない」と言われて、嫌だと思いながらも、だんだん慣れて
いく過程そのものですよ。
外国人が生魚を食べられなかったのに、寿司にトライして、やがて刺し身が食べられる
ようなものです。
一時期、映画「ブタがいる教室」が問題になったこともあります。原作モデルとは微妙
にちがうそうですが、ある日、教室にブタがやってきて、若い教師は生徒に命の大切さ、
食べて生きることの尊さを学んでほしいと頑張るのですが、最後にどうするかを子どもた
ちが話し合って、最終的には食肉処理施設に行くという悲しい物語です。
あるいは、先日ネット(デイリー新潮)に「土用の丑の日」には日本ではウナギを食べ
るように、韓国では犬肉を食べるという記事が載っていました。スタミナをつけて暑い夏
を乗り切るというわけですが、最近の若者はさすがにペットとして犬を飼っている家庭も
多く、動物愛護の観点からも敬遠され「犬食を嫌い、滅多に食べない」と言います。
それでも例外は病人と妊婦で、病気になったら犬食が効くとか、妊娠したら犬肉を食べ
て体力をつけるようにと高齢者が勧めるため「専門店でテイクアウトして、家でこっそり
食べているという感じです」と書いてあります。
日本でも馬肉を食べる文化が残っていますが、韓国の犬食も徐々に消えていく食文化だ
ということのようです。
以前、ガールフレンドから「肉食やめました。いくら手を合わせてもダメです」という
メールが届いたことがあります。
一体、何があったのかと思ったら「朝日新聞」に鹿をワナで仕留めて殺すという冒険談
のコラムに添えられていたイラストを見て、かわいそうで涙が出たというのです。
以上のエピソードには共通した印象があります。それは人間、誰もが基本的に動物を殺
して食べたいとは思わないということ。そして、様々な知識を得て、精神的にも生活的に
も満たされるようになれば、ますますその傾向は強くなるということです。
そのことの意味と肉食の正当化の過程を追求した本が、メラニー・ジョイ著『私たちは
なぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか』(青土社)です。
絶対「徳する」ビーガン&ベジタリアン
「ウエルネス@タイムス」の連載のタイトルは「絶対得する」となってますが、実際
に得したことはありますか?
いい質問です。損得でやっているわけではないですし「得する」にしたのは、何事もお
金に反応する時代のため、少しは一般受けするのではないかと思っただけのことです。
実際には、これまでも指摘してきたように、マクロビオティックその他、病気など何ご
とも「得する」と考えると、不具合を生じるものです。
本当はビーガン&ベジタリアンライフを続けると、自然に「徳する(徳が身につく)」
というのが、本当のメッセージのつもりです。
徳するですか? アハハハハ。
嘘じゃないですよ。禅宗の修行僧が玄米菜食を基本にするのは、食べる修行ですから。
肉食を断って、いわゆる玄米菜食を続けていると、自然に身体の汚れが落ちて、心が透明
になってくるような感覚を味わうことができます。いわゆる霊性が向上するということで
す。
ベジタリアンの食事は、特にビーガンなど、現代栄養学の観点からはまったくナンセン
スですが、ベジタリアン要するに玄米菜食では、体(肉)をつくるのが栄養、精神(霊)
をつくるのがエネルギーという考え方です。
エネルギーですか。目には見えないですよね?
見えないと言えば見えないですが、現在の科学がどんなに肉体のあらゆる要素と、それ
に必要な栄養分とを集めたところで、人間にはならないのは、見えないはずのものが、実
はあるという証明のようなものです。
玄米菜食では、なぜ玄米なのか、白米とは何がちがうのかを説明するために、単なる栄
養だけではなく、エネルギーの重要性を問題にしています。
どういうことですか?
簡単な実験ですが、例えばお米(白米)を水につけて、太陽に当てても、芽は出てきま
せん。
玄米は種ですから、やがて発芽して稲になります。玄米は生きているわけです。同じベ
ジタリアンでも、マクロビオティック(玄米菜食)は栄養ではなく、生きているエネルギ
ー(命)を問題にしているということです。
白米を一文字にすれば「粕」となるのも、そのためです。
あー、なるほど。
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