元不動産王とコメディアンが始めた世界の「殺人と戦争」ゲーム 誰でもやりたくなる「殺人」そして「戦争」の真実?
- vegita974
- 6月8日
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元不動産王とコメディアンが始めた世界の「殺人と戦争」ゲーム
誰でもやりたくなる「殺人」そして「戦争」の真実?
ジャーナリストT氏

人間の家畜=自己奴隷化
当たり前に、日々のできごとを見聞きすれば、世界も日本も狂っている。世界のあちこちで戦争が行われて、毎日のニュースにもなっている。異常気象が様々な分野に波及して、その異常がいまや当たり前という状況である。しかも、それは文明が高度に発達したはずの21世紀の話である。
同時に、そこで暮らす“大人”のわれわれは、表向き「おかしい」とはわかっていても「狂っていない」との前提の下で生きている。たぶん、誰もそんな狂った世界で生きたいとは思わないからだ。そのため、少しでも明るい話、希望を見出そうとするのだが、しょせん世界の現実を前にすれば無理がある。何しろ、試しにネットを開けば、一個人のメールに届くものの大半は余計な情報なのはさておき、大量の詐欺・インチキメールである。そんな世の中を生きていて、狂わないほうが難しい。
では、どうするのか。「おかしい!」とか「異常だ!」とか、目の前にある現実を、無意識のうちにではあるが、一生懸命に否定して、自分をだますといった生きる術、生活の知恵を身につけるようになるとしか思えない。後は思考停止、自らを戦争の続くフェイク満載の文明社会のエリートとして、自己家畜化=文明の奴隷としての毎日を送り続けるしかないのだろうか。
結果、どんなインチキメールが来て、その被害者がいて、悲惨な戦争が続いても、その悲惨な戦争をドラマやゲームとして、とりあえず同情の眼差しを向けながら、一日も早い平和を願う。だからこそ、善良な一市民として、世界を舞台にした大々的な殺人ゲームを横目に、どんなに悲惨なニュースや映像でも見ることができる。つまりは、他人ごとなのである。そして、殺人・戦争は終わることはない。
改めて、人はどういうときに人を殺すのか、考えてみた。

殺しのメカニズム?
そんなことを考えたのは、世界ではアメリカの元不動産王、実業家として成功した人物として、テレビのレギュラー番組を持っていた人気司会者が、あるいはウクライナでは国民的コメディアンが、どんな事情があったにしろ、大規模な人殺しの典型である戦争を始めたり、他国をミサイル攻撃し、一国の指導者を拉致・監禁したり、殺害し合っているからだ。まさに世界は狂っている。
「よくできるな!?」とはいつも思うことだが、自分ができないことをやること自体、筆者にとっては「スゴイ!」ことである。ついでに、殺人=戦争を認めるつもりはないので、殺人=戦争を始めてしまった彼らに、その理由を聞くつもりもない。聞けば、そこには「盗人にも三分の理」という世界がある。今日の世界でいうところのファクト(真実)とフェイク(虚偽)が、シロもクロも一緒という同じ「F情報」になるだけのことである。
そこには、理由を聞くから戦争が正義になるとの現実がある。細かい理屈を重ねていくと「命が大事」とか言いながら、「平等」といわれる命などを無視した殺人が正当化されていく。わかりやすい初めの一歩は、正当防衛である。自分を守るために当然の権利とされているが、人殺しは人殺しである。
命は平等とか、命に軽重はないとか言いながら、例外を認めていくと、良く言われることだが、一人を殺せば状況によっては死刑になる。ところが、大量に殺せば殺すほど、戦争では英雄として崇められる。理屈はいくらでもつけられるとはいえ、当たり前の正義が逆転するのだから、無理があるのは小学生に聞くまでもない。
とはいえ、なぜ元不動産王や元コメディアンという本来は普通の人であり、その中の成功者並びに頭角を表した人物が、大々的な殺人=戦争をすることができるのか。誰も自分のこととして考えようとしないのも、しょせん他人ごとだからであろう。

我が家の怖いもの話?
当たり前だが、戦争も人殺しも、多くの人と同様、いまのところやったことはない。だが、ジャーナリストだからというわけでもないが、経験者には聞いたことがある。
もともと、戦後、満州から引き揚げてきた父親は、法務省関係の仕事を手伝ったことがあって、戦後も多少の関わりがあったようで、よく死刑の様子などを話していた。「エーッ!」と、子どもが思わず声を上げるような話である。ここでは書かないが、聞きたくもない厳粛なはずの死の現実である。いま思えば、親がよく怖い話をして子どもを驚かせる怪談の別バージョン、我が家の怪談話のつもりだったのかもしれない。
法務省の関係では、矯正局の関係者に頼まれたのか、身寄りのない複雑な家庭の少年がお盆や正月に我が家に泊まりに来ていたこともある。あるいは、カトリックのシスターをしていた叔母さんも、やはりそんな彼らに普通の家庭の温かさ、彼らから失われた家庭の当たり前を経験させるために、やはり我が家に連れてきていた。その中には、当人の責任だけではなく、犯罪者や殺人者の子弟もいたはずである。
死は割と身近にあったせいもあってか、たまたまジャーナリストになってからは、機会があれば、なぜ罪を犯したのか、率率に疑問をぶつけてきた。別に記事にする予定はなかったので取材ではない。単純に自分には到底できそうもない殺人などを、どうやったらできるのか。実際に人を殺すということが、どんなものなのかを知りたかったためである。

殺人者の体験談
殺人については一人から戦争まで、いろんなケースがあるが、まずは相手が一人の場合である。
どういうきっかけだったか忘れたが、あるとき「世間にはワルが多い」という話の中で、自分の手で始末してあげたという人物がいた。詐欺師が、見た目には詐欺師に見えないのと同様、彼も殺人者には見えない。実直そうな印象で、そう悪い人ではないから、そうと知らずに付き合ってきたわけである。彼は単純な正義感から「あんな男はいないほうがいいから、代わりにオレが始末してやった」と話していた。
「殺すって、凶器は何ですか?」というと、両手で首を締めるようにして、グッグッグッグと力を込めていく様子を再現して「人はなかなか死なないけど、最後に首がカクッとなる」と話していた。
そんなことまでして人を殺すのか?と思っていたら、まるでこちらの疑問を読み取ったかのように、相手のワルの手口を説いて、最後に「殺せるものなら、殺してみろ!」と、暗にそんな勇気はないだろうというように言ったため「だったら、やってやろうじゃねえか」と、望み通りに殺してやったということだ。
その首を締めていく様子を聞きながら、もしかしたら筆者も似たような経験をしたことがあると気がついた。
子どものころから昆虫採集をしていて、中学時代には昆虫採集を本格的にしている仲間もいた。そのうちの一人は親がチョウ類やカブトムシ、鮮やかなオサムシなどを採るのを商売にしていた。プロの昆虫採集家の息子は、いろんな虫の殺し方を教えてくれた。青酸カリが一番理想的なのだが、手に入らないため、当時は酢酸エチルを使ったりしていた。とはいえ、大型のチョウは三角紙に入れて、その上からチョウの胸元を押さえて殺すしかない。
30年後のある日、甥っ子にその方法を伝授すべく「こうやって胸元を押さえてグッグッグーとやるんだ」と、殺し方の見本を示したときに、何とも嫌な気分に襲われたことがあった。殺人者の体験談を聞いたとき、ふと自分も殺人をしたことがあったような気分になったものである。

日本のトランプ?
トランプ大統領はディールつまりはビジネスができなくなるため、戦争・殺人嫌いなのかと思っていたが、TACO(トランプはいつもビビッて止める)とか言われて、オバマ元大統領とのちがい、中間選挙などとの関連からか、イラン最高指導者殺害など、想定外の展開を続けて、世界を混乱に落とし入れている。
今後の展開は、何があっても不思議ではないが、改めて元不動産王にして元人気司会者の、あるいは元コメディアンの大統領の存在を日本に当てはめてみた。とてもトランプ大統領やゼレンスキー大統領になぞらえられる人物は思いつかないが、案外、それは昔を知るトランプ大統領の関係者、ゼレンスキー大統領の側近も、似たようなものではないのか。「まさか?」が現実になると、当初の驚きと疑問は薄れていく。
事実、人はちょっとしたキッカケで変わるものだ。いろんな言い方がされるが、そこには金や欲望、地位、軍事力など権力の毒とともに、その立場になれば、地位が人をつくるという側面もある。そう考えれば、誰でも殺人者そして戦争の当事者になる可能性はある。
昔のみのもんた氏は司会業の傍ら、水道関係のビジネスをしていた。あるいは、かつて日本テレビ系の「11PM」というバラエティ番組で人気を博した大橋巨泉氏は、趣味と実益を兼ねてカナダなどでいろんな事業をしていて、案外トランプっぽいようにも思える。今なら関西出身の司会業・宮根誠司氏など、似たような存在かもしれない。実業界では、例えばホリエモンこと堀江貴文氏なども、十分にその素質はありそうでもある。
あるいは、コメディアンで日本のトップに相応しい人物はいるのだろうか。吉本興業所属の西川きよし氏は長年、参議院議員を務めている。その昔、横山ノック氏と青島幸男氏は、知事・政治家になっている。
現在の高市早苗首相は元キャスター上がりである。だが、どんな司会者や実業家、コメディアンの顔を思い浮かべても、日本では国のトップになって、殺人=戦争を始めるとは、いまのところとても思えない。


トップリーダー「聖」
平和な日本にいては、想像もできないことだが、筆者が実際に会った人物で言えば、ペルーのアルベルト・フジモリ大統領が国のトップとして、1996年12月に起きた在ペルー公邸占拠事件で、左翼ゲリラを大量に殺害・処分し、その後、罪に問われている。
2001年から2002年にかけて話を聞いたとき、その苦渋の決断について、国の指導者として、麻薬組織、ゲリラとの戦いに終止符を打つには、そうせざるを得なかったと語っていた。フジモリ氏の両親は日本からの移民である。彼の失脚の背景には、改革を嫌う反対派との政治的な対立と、会った当時、異様なまで怯えていたアメリカの存在並びに動向があったようにも思う。もちろん真相はわからない。当時も今も、ペルーと日本とは様々な面で異なるとはいえ、世界の動きを日本に当てはめれば、明日のことはわからない。
21世紀の今日、資本主義国の自由と民主主義があり、その一方にはリベラルと共産主義があるとはいえ、どちらも格差と分断の進行とともに、強権による支配が進んでいる。
特に、ヨーロッパ諸国とも対立するトランプ大統領を見ていると、彼の政治集会が宗教集会そのものであり、そのキリスト教信仰の深さはよく知っているつもりだが、当のキリスト教を紀元とした西洋文明のおよそ2000年間は、対立と争いばかりで、平和どころか、殺人=戦争ばかりやりたがる西洋文明とキリスト教の本質と限界が示されていると思う。
紀元前、日本の縄文時代には痕跡の見られなかった殺人・戦争が、世界の行く末を暗くする中、日本は縄文時代に限らず、江戸時代、そして戦後80年の平和な時代を有している。その日本では、あらゆる対立を昇華し、一つにする「和」の文化が伝統的にある。「聖」とは辞書を引けば明らかなように「天子」、トップリーダーのことである。
西洋文明が支配してきた西暦後の2000年は、人類の進化と信じられてきたが、縄文時代を振り返れば、戦った形跡がないという平和一つとっても、霊性の欠如という魂レベルでの人間の退化を示しているのではないか。そう考えれば、戦争をはじめネット上の詐欺メール、呆れた事件などが世間を騒がすのも、当たり前のように思えてくる。
縄文時代は自然崇拝、原始宗教とともに、平和のみならず、近年の研究によれば、すでに高度な科学技術を持っていたことも明らかになっている。そんな日本の原点に焦点を当てれば、国のリーダーが殺人=戦争ばかり続けている世界が「聖」とは真逆の姿であるとわかる。人類そして人間の退化そのものである。



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