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反目する日本と韓国を結ぶ李王家と梨本宮家     無名ジャーナリストの仕事  閔妃暗殺事件後、李垠殿下に嫁いだ梨本宮方子女王

vegita974

更新日:2024年11月4日

反目する日本と韓国を結ぶ李王家と梨本宮家     無名ジャーナリストの仕事

 閔妃暗殺事件後、李垠殿下に嫁いだ梨本宮方子女王 


兄弟ゲンカと「合掌」の意味

 あらゆる機会に「恩讐を超えて」とのメッセージを発してきた一般財団法人「梨本宮記念財団」梨本隆夫代表理事が、2024年9月26日に開催された「第2回平和大使サミット」(文京シビックセンター)で、戦争をはじめ兄弟ゲンカに明け暮れる世界に対して祈り、つまりは手を合わせて「合掌」することの意味を説いていた。

 左右2つの手、両掌を合わせることによって、初めて親子同様、兄弟同士が「腹」を合わせることができる。

 片手の親指は他の4つの指と腹を合わせることができる。それが親子の関係である。一方、4本の指は兄弟同士、腹を合わせることができない。そこで、両掌を合わせることに

より、兄弟同士腹を合わせることができる。親兄弟みんな仲良くという、それが合掌の持つ意味である。

 とはいえ、世界の現実は戦争をはじめ兄弟ゲンカだらけであり、人災に加えて、近年の地球温暖化・異常気象もあって、天変地異による災害が絶えない。その様子はまるで、自分勝手な人間たちの振る舞いを天(自然=神)が怒っているようにも思えてくる。

 そうした時代だからこそ、合掌の教えとともに、李王家(李垠殿下)と梨本宮家(梨本宮方子女王)との結婚が大きな意味を持ってくる。

 李王家の次男・李玖殿下が日本の赤坂プリンスホテル旧館で、寂しい死を迎えることになったのも、日本と朝鮮・韓国のいわば歴史の犠牲となった李王家と梨本宮家の“政略結婚”があったためである。

 人生上の不幸も政略結婚も、その事実のみに焦点を当てれば、当事者の意思を無視した結果にも思える。

 だが、どのような事情があれ、2人が結婚し子どもを育て、銀婚式、そして金婚式を迎えた後、亡くなっている。すでに寝たきりの状態だったとはいえ、最後まで添い遂げていること自体、単純な不幸でも政略結婚でもないはずである。

 いまになって明らかなことは、当時の2人の結婚は日本と朝鮮・韓国間のあらゆる対立を解消し、恩讐を超えるための道を示すものとして、歴史に刻まれている。

 同時に、恩讐を超えるための尊い犠牲者としての運命を受け入れた稀なケースとして、李王家と梨本宮家がお互いに反目する世界に対して、日朝・日韓を和合させる新たな歴史となる理想型・モデルを提供している。

李王家婚約解消事件の教訓

 世界の王侯貴族、日本の皇族の結婚など、常に政略がつきものだが、そこでは、基本的に国同士、親同士が決めた運命に従うしかない。

 朝鮮王朝・最後の皇太子である李垠殿下と梨本宮方子女王との結婚も、同様である。2人は、日本と朝鮮・韓国が対ロシア・中国との微妙な関係にある時代の、いわば犠牲者であった。

 梨本宮方子女王が、李垠殿下の婚約者になったのは、1916年(大正5年)の夏、15歳のときである。その2年後の11月、学習院女子部中等科(高校)を中退した彼女は1920年(大正9年)4月、李垠殿下と結婚した。

 二人の結婚が国家間の対立を解消し、恩讐を超えるためのケーススタディになるのは、李垠殿下には韓国にれっきとした婚約者・閔甲完がいたためだ。

 当時は日本が大韓帝国を併合した時代である。日本は李垠殿下を、いわば人質として日本に留学させた上に、彼の本来の婚約者を無視する形で、皇族・梨本宮方子女王と結婚させた。

 背景にあるのは、閔妃暗殺が起き、伊藤博文がテロに倒れた時代の趨勢である。

 李垠殿下の父・高宗(国王)と結婚した閔妃は、後に舅である大院君(高宗の父・李是応)と対立した。大院君とは、外籍から立った王の父親の尊称である。その大院君は、閔妃一派の謀略によって没落したと、歴史書には書いてある。

 李垠殿下の婚約者・閔甲完は、その閔妃の一族である。

 1895年(明治28年)10月に起きた閔妃暗殺の背景には、なおわからない面もあり、日本でも小説やドラマになっている。

 閔妃暗殺自体は日本の歴史的な汚点であるが、晩年は王妃の振る舞いが、その立場を逸脱していたとの事情もある。1909年10月には伊藤博文首相が、韓国の義士とされる安重根により、大連で暗殺された。その安重根は韓国の英雄とされており、反日の象徴的な存在になっている。

 一方の日本では、閔妃の暗殺者(首謀者・日本公使の三浦梧樓)を恥ずべき人物として英雄視どころか、歴史上から抹殺しようとしている印象がある。両者の対照的な対処の仕方は、いまなお日朝・日韓を隔てる大きな要因となっている。

残念なことの一つは、両国間に横たわるいくつもの歴史上の不幸が、後世への教訓として生かされることなく、両国の関係がいまも近くて遠い国として、相変わらず友好と反目とを繰り返していることだろう。

 李王家と梨本宮家間の結婚が、たとえ政略結婚だったとしても、梨本代表理事はその本来の在り方・使命を日朝・日韓の歴史の理想型として、未来につなげる使命を引き継いで

きた。

 それが両者の結婚を日本と朝鮮・韓国間の対立を解消、恩讐を超えるための尊い犠牲、歴史的な使命と位置づけることにより、ひたすら先祖供養を親の代(神林茂丸師、白川資長王)から現在に至るまで続けてきた理由である。

 婚約者・閔甲完の死と『百年恨』

 一方、対照的な生き方を選んだのは、婚約者・閔甲完である。彼女は婚約解消後、周囲が薦める縁談を断って、生涯独身の道を全うした。

 恋愛、結婚という男女の営みに対して、純愛を貫くことは美しいことのようにも思えるが、あくまでそれは個人レベルの思いでしかない。彼女が自らの思いに忠実に生きた結果どうなったのか。

 その実状は彼女の書いた本『百年恨』(閔甲完人生手記)というタイトルに象徴されている。

「一生を孤独と悲しみの中で生きてきた」という彼女は、晩年、食道ガンを患い、1968年2月、71歳でその生涯を終えた。

 1963年11月、65年ぶりに韓国に帰った李垠殿下との再会を望んでいたともいう彼女の本当の思いは想像するしかない。

 だが、その死に意味があるとすれば、安重根を英雄にする韓国では『百年恨』の修羅、つまりは闘う鬼神としての反日のための称賛か、未来を志向した平和のための反面教師として教訓にするかである。

 残念なこととはいえ、彼女が自らの意思を貫いたことは、反日の立場からは称賛されても、国と国、長い歴史の舞台から見れば、逆効果であったというしかない。

 世界平和ないしは自らを犠牲にする尊い決断から遠く、報復や恨みの感情は自らの健康・人生を害するばかりではなく、国と国との関係にもいい影響を及ぼさないからである。

 事実、その後の人生は、孤独のうちに食道ガンを病むなど、彼女が思い描いた未来とは大きく異なったのではないのだろうか。

 婚約解消という、その時の不運・不幸がどんなに大きく、たとえ長い年月、辛い別れの悲しみを引きずることがあっても、家族のため、相手のためを思えば婚約解消もまた人生の一つの通過点でしかない。ましてや、国と国が関わるとなれば、なおさらである。

 婚約解消の男女の場合、相手が恨みを抱くことは、一見当たり前の反応である。そして閔甲完の場合は、本田節子著『朝鮮王朝最後の皇太子妃』(文芸春秋社)に目を通した限りでは、報復を望むことはなくとも、恨みの感情とともに生涯独身を貫く、その後の人生は、まさに『百年恨』の典型として、朝鮮・韓国を象徴するものとなっている。

 平和のための人生の選択

 婚約相手であった李垠殿下とは異なり、理想的な別れと、その後の新たな人生を送ることはできなかった彼女だが、家の事情の他、権力の都合などが絡んでの婚約解消は、日本の皇族の歴史にも、よく見られることである。

 歴史同様、彼女の人生に「if(もし)」はないが、筆者の身近にも立場は異なるが、誰もが結婚すると見られていた男女が、運命に引き裂かれたケースがある。

 複雑な家庭の事情から、女性は親同士が決めた相手の元に嫁いだ。そのとき、彼女は自分の幸せを捨てて、家の犠牲になる道を選んだ。

 その決意を明かした日、彼女は愛した男性に「10年待って。10年、相手の家に尽くせば、自分の親に対しても育ててくれた恩を返せるから。そのとき、あなたの元に帰ってくるわ。だから、10年待って!」と涙した。

 まるで小説か映画のような話だが、世間知らずな彼女の、相手を思う気持ちと親への思いの深さが「10年」という表現になったわけである。

 その10年が、やがて現実的ではないとわかったとき、彼女は「あなたは私に似た可愛い人と結婚して。私の分まで幸せになって」と口にした。それが永遠の別れとなる言葉であった。

 そこには自らの運命とともに、人生の皮肉を嘆きながらも、なお相手を思う気持ちがあふれていた。

 彼女の言葉通り、男性もまさに10年間、彼女への思いを引きずったまま生きた。そして、まるで彼女の代わりであるかのように、一回り下の女性と結婚して、その後、幸せな人生を送っている。

 そこにあるのは、典型的な過去の不幸を、変えられない過去としてではなく、将来を見据えた幸せに転じて、昇華させる知恵・方法としての犠牲、愛そして感謝である。

 国と家族、そして世界平和という未来を見ることによって、現実には、なお辛い思いがあったとしても、それは国と国、長い世界の歴史の中では、点のようなものでしかない。

 閔甲完との婚約解消事件とともにある李垠殿下と梨本宮方子女王の結婚が、知られざる人生の悲劇、運命の皮肉などという陳腐な表現では語れないのは、国家間の歴史とともにあり、報復の止まない現在、世界平和のための人生の選択となっているからである。

 個人間の婚約解消と、国家間での政略では事情が異なるとはいえ、『百年恨』の思いが国をも動かすものとなるとき、過去の因縁としか思えない様々なことが起きてくる。

 まるで閔甲完との婚約破棄の結果であるかのように、当初、予定されていた李垠殿下と梨本宮方子女王の結婚式は、延期になった。

 予定されていた1919年1月25日のわずか4日前、父である李大王(高宗)が急死したためである。「暗殺」との噂もある、その死によって、二人の結婚は翌年の4月に延期された。

 結婚後には、長男・晉が8カ月で急逝した。表向き、死因は急性消化不良とされたが、

こちらも「毒殺」と信じられている。

 李王家並びに梨本宮家の不幸な歴史が、梨本宮家を継いだ梨本代表理事の活動の原点となるとともに、いまなお彼が先祖供養を続け、様々な過去の因縁解消に勤しんでいる理由でもある。

 そのお役目・使命は「恩讐を超えて」という合掌の世界、日本の「和」の実現にある。

それこそ神は偉大なるプログラマーであり、霊界を鎮めることなく、国家間の争いごと、

もめごとは解決しないことを知っているためである。

 以下は蛇足のようなものである。

 自らの運不運、幸不幸は、個人のみならず、国家レベルでも似たようなものだが、相変わらず、戦争と報復に明け暮れる世間が、案外知らないことのようなので、あえて記す次第である。

 人生の不運と不幸について

 対立、報復が基本の二元論の世界に日本人も巻き込まれつつある現在、不幸な事件が起きると、被害者側がいつも「犯人を死刑に!」と語って、メディアもその主張を後押ししている。

 殺人事件の被害者の親が「犯人を死刑にしたい」と語って「犯人にも同じ苦しみを味合わせてやりたい」と言葉にする。言いたい気持ちはわかるが、それで恨みが晴れるならともかく、必ずしもそうならないのは、その後、長く生きていれば、わかってくることだ。

 象徴的な例が、例えばクルマの車庫入れの際、わが子をひき殺してしまったり、孫を轢いてしまったといったケースである。悪意などあるはずもなく、まったくの偶然としか言えない不運であり事故だが、そこではわが子を殺したのは自分であり両親である。

 そのとき「犯人を死刑に、自分の手で同じような苦しみに合わせたい」という被害者と同じ親の立場になった彼は、どうするのか。加害者となった自分を殺す、あるいは自分の親を殺して、わが子の無念を晴らすのか。

 そんなことは「ナンセンスなことだ」ということは、少し冷静になればわかるはずだ。

 子どもの死といった自分にとっての不幸な事件を、将来への祈り、被害者の供養に費やすのではなく、報復・復讐に費やすことがいかにナンセンスかは、天災その他の大災害が教えている。

 地震、台風などの天変地異で、多くの人が犠牲になる。そのとき、残された人たちは誰を責めるのか。誰を死刑にするのか。しかも、家族の報復のため「殺したやつを死刑にしろ!」という声が出てこないのはなぜなのか。

 天(自然=神)に報復などできないためだが、そのベースにあるのは先祖供養が足りない現実があるというのが、無名ジャーナリストの立場である。

 生前、渋沢栄一の「最後のかたり部」と言われた関誠三郎氏(栄養食株式会社会長)と人生における運命と幸不幸について語ったことがある。彼は海軍の二等水兵として戦争に赴くのだが、同級生、あるいは仲間がみんな亡くなっていく中、生きて帰ってきた。

 両者を分けたのは、運でしかなかったわけだが、運良く生き延びたことが幸せだったのかと言えば、自分一人生き残った辛さは、生きて帰ってきた者にしかわからない。そんな彼の結論は「自分の力ではどうすることもできない人間の運が、その人の一生を大きく左右する」ということだ。

 彼は、松の大木を例に、運不運について語った。美保の松原など、海岸線に並ぶ松の大木とは対照的に、断崖絶壁に苦しげに根を張る松がある。両者のちがいは、その日の風の吹き回しによる。運が悪ければ、松の種は海の藻屑となり、運が良ければ大木になる。

 自然の世界では運のいい松が生き残る。彼らは運の悪い松の思いを成長剤に、彼らの分まで生きる。運のいい松は、彼らの代表選手だからである。

 人も同様に、運が悪いと言って、他人を恨んだり、妬んだりせず、運不運は自分の運命なのだと静かに受け止めるしかない。そう悟って、自ら運を拓いて本当の人生を生きる。

 そのとき、初めて人は自分で納得できる生き方をすることができるからだ。

 人生の名言として、よく引用されるカトリックのシスター渡辺和子著『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎文庫)の中で、著者が述べていることでもある。



 
 
 

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