天皇家の神事を司ってきた伯家神道・継承者の死 無名ジャーナリストの仕事
御家断絶の危機を救った出羽三山・神林茂丸師と旧皇族
天皇の「宮中祭祀」とは
世界のあらゆる戦争は、いまを生きるわれわれ自身の責任である。それは今が過去につながり、未来へと続くからである。
前回、紹介した天皇陛下の「大御心」は、そのことを教えている。そして、日本古来の神道・古神道である伯家神道「白川神道」につながる思いでもある。
『伯家神道・伝承の系譜』を書いた松濤広徳氏は「白川神祇伯家に伝わった御道は、神々と一体になって舞い、神々の声なき言葉を聞く方法であった」と記している。
神道とは文字通り「神」の「道」である。かんながら(惟神・随神)の道とされる日本古来の敬神崇祖の信仰であり、古神道は自然を神とする「教え」ならぬ「御道」である。
天皇陛下の一番の仕事は、宮中祭祀である。それは日々、神の道を歩むことによって、
「神と一体となって舞い、神の声なき言葉を聞く」ことである。
竹田恒泰著『語られなかった皇族たちの真実』にも、日本の皇族が他国の王族とは根本的に異なる在り方を伝えている。
同書には「皇室が2000年続いた理由」の副題が付いている。男系がその理由だが、外国の王室は断絶しないようにと考えて女系を導入したが、現実には争いが生じて、長くは続かず、その度に王朝・王室名が変わっている。唯一、男系の天皇家だけが、世界に例のない2000年の歴史を実現しているというものだ。
天皇に関するエピソードとして、天皇の行事が神の意に添っている限り、晴れるということは、実際に天皇陛下が行幸する神社などでも、よく知られている。
竹田氏も、1964年の東京オリンピックが開会式の前日まで雨だったが、当日は快晴となって、当時「天皇晴れ」と呼ばれたと書いている。
1972年の札幌冬季オリンピックの場合も同様で、以下のように書かれている。
「当日の朝、雪が降っていたが、開会式直前に会場の上だけが、窓を開けたように明るくなり、昭和天皇が到着するころには、太陽がカンカン照りはじめ、眩しいほどになったが開会式が終わると雪が降り始めた。外国人の間にも『エンペラー・ウェザー』という言葉が有名になった」
国民のため、日々豊穣を祈り、自然の恵みに感謝しつつ、国の安寧を祈願する。晴れを祈り、雨を降らすのも、古来、天皇の重要な仕事だったからである。
そんな中で、天皇晴れとは真逆のケースとして忘れられないのが、1943年10月、学徒動員のため、神宮外苑で行われた出陣式である。その日は、激しい雨が降る天皇の行事の中では異例の行進となった。「もう戦争は止めよ、若き命を無駄にするな」という天の声を無視して、敗戦に至る。
期待した「神風」が吹かなかったというが、むしろ神風が吹いた結果の敗戦であろう。
天皇も伊勢に出向いた際、平和の神様(天照大御神)に戦勝を祈願する愚を詫びている。
天皇が天災を含めて、あらゆる不幸は自らの責任であると語るのは、日々、国民のために祈っているからである。
伯家神道の継承者・梨本宮と七沢賢治氏
戦後、日米安保闘争の名残りを引きずった、いわば左翼の時代を生きてきた筆者が、最初に「白川神道」に関して知ることになるのは、埼玉県秩父市にある今宮神社との縁である。龍神に深い関わりがある同神社は、民間にありながら、なぜか宮中八神(御巫八神)を祀っていた。当時の塩谷治子宮司から紹介されて、梨本宮徳彦王の後を継いだ梨本宮六代目祭祀継承の梨本隆夫・現「梨本宮記念財団」代表理事に会ったのが、今日につながる縁である。
その深い意味はわからない面もあるが、やがて昭和天皇の戦後処理を行う代表理事と、重要な時に行動を共にすることになった。代表理事の出身地である出羽三山・月山頂上には、三度登っているが、内一回は今宮神社前宮司と一緒であった。
その間、いくつもの神秘的・奇跡的な体験もあったが、当時はいわば現役のジャーナリストとして、忙しく仕事をしていた。そのため、昭和天皇の戦後処理は、実際の仕事に結びつくわけではないこともあり、梨本代表理事に任せる形でしかなかった。
とはいえ、不思議なことに、後になってみれば、西武グループの問題、山口組関連の問題(山健組3代目の共同正犯裁判)、阿含宗・幸福の科学問題など、梨本代表理事とは何かと接点が多い。
1990年代から月刊誌でベンチャー企業を紹介する連載を始めていたが、100社目の記念に、ハワイのジュジュベ・クリニックを紹介したことで、やがて代表理事と一緒にハワイにヤタガラス像を持っていくことになるのだから、不思議な縁である。
そんな中で、具体的な伯家神道「白川神道」との関わりが生じてきたというのが、一連の流れである。
アーティストのH氏から「注目すべきベンチャーがある」と、山梨県甲府市にある七沢研究所の七沢賢治氏を紹介されたのが、2007年11月のことである。
実際に会いに行ったのは、翌年1月末。彼が伯家神道の最後の学頭と言われた高濱清七郎の系統の継承者だと知ったのも、いま思えば不思議な展開である。
筆者が訪ねていったのは、あくまで当時連載していた「ベンチャー企業」の取材のためであり、同研究所で開発していた言霊エネルギーを用いたクイント・エッセンス・システム(QES)の内容並びに、その開発した経緯などを聞くためである。
まさか彼が伯家神道の後継者の一人だとは知らなかったが、七沢氏としても、ベンチャーの取材と聞いていても、なぜ筆者がわざわざ甲府まで来たのか、不思議に思っていたと明かしている。
七沢氏は徳川の将軍家に仕えた七沢家の出ということで、当時も天皇のご意見番とされる人物とはつきあいがあると話していた。白川学館を主宰しているのも「白川神道を継いだ高濱清七郎の曾孫である高濱浩氏から頼まれてやっているだけで、先日も竹田宮が来たので『譲りたい』と伝えたところ、相手も何かと忙しいため、白川神道にまで手が回らないと、逃げられました」ということであった。
そんな会話があり、筆者が梨本代表理事と親しいことがわかると「ぜひ譲りたい」と話していた。本人は、何となく皇族の関係のしかるべき人物が現れるまで、預かっていたつもりのようで「いまある白川家関係の資料をお返ししたい」と話していた。そうすれば、自分としても一安心という印象であった。
筆者の訪問の意味も納得できたようで「そういうことだったのか、ようやくわかりました」と語っていた。
そのうち、梨本代表理事を紹介する機会があればと考えていたのだが、肝心のベンチャーの取材も頓挫する形のまま、白川神道の件は意外な展開を辿ることになった。
伯家神道の継承者・七沢賢治の死
2008年11月、梨本代表理事から七沢氏が同年10月に出版した『天皇祭祀を司っていた伯家神道』を読んだと連絡があった。「七沢氏と会う前に、彼が白川神道を引き継いだ事情が分かった」と話していた。
もっとも、改めて七沢氏との会話を思い出した筆者は、竹田宮にも断られ、梨本代表理事にもつなげられないまま、結局は自分で白川神道の教えを引き継ぐしかないと判断したのだろうかと、考えていた。
事実、2010年7月には、白川神道に関する2冊目の本「伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界」と冠した『言霊はこうして実現する』(大野靖志著/文芸社)を出版している。
会った際には「秘伝は家に譲らず、人に譲る。宗教にしない、公にする」というのが、高濱浩氏の遺言だと語っていたが、同書にも、高濱浩氏が七沢氏に「決して宗教団体は作らぬこと。そして、この甲府の地で100年でも200年でも『おみち』(伯家神道)を守って下さい。私は死んでからも、向こうからいつもあなたを助けます」と、言い残したと書かれている。
「その遺志を継いだ七沢氏は、毎朝自宅の神殿で祓いを行い、縁のあった人に『ご修行』(伯家の行法)を授けている。また、2010年6月には一般の人にも門戸を開放するため、『一般社団法人白川学館』を設立した」「宮中に秘された神道の精髄は甲府の地においてその命脈を保ち続けているのだ」とある。
白川学館がどのような内容か直接には知らないが、もしかしたらそれは高濱氏が残した
警告に反するものだったのではないのか。つまり、宗教団体ではなかったとしても、設立と同時に本を出版して、いわばビジネスのごとき展開を図っている。
おみち(御道=伯家神道)を守るためとあるが、彼がビジネス展開してきたクイント・エッセンス・システムと関連づけているため、結果的に神事が疎かになった面があっても不思議ではない。
本の末尾には「一般社団法人白川学館設立のご案内」として「ご挨拶」「設立趣旨」とともに事業目標などが掲載されているが、その冒頭にある文面が「本書の出版に先駆け、2010年6月2日に白川学館が一般社団法人として認可されました」とある。
公益社団法人として認可されたのであればともかく、一般社団法人は誰でも簡単に設立できる。そんな一連の行動、タイミング自体がビジネス優先の事実を暴露している。
改めて、御道(伯家神道)の在り方は天皇の宮中祭祀のためであることを思えば、その変わらない前提・原則とは、順徳天皇が著した『禁秘御抄』にある「およそ宮中の作法、神事を先にして他事を後にす」ということだ。また、後水尾天皇は『辰翰訓誠書』に「御短慮深く慎むべき事、敬神は第一にあそばし候ふ事」と記している。
明治天皇の御製「あさなあさな みおやの神にいのるかな わが国民を守りたまへと」
とあるように、天皇の仕事は「おおみたから」(大御宝)と称する国民の安寧を祈ることである。
七沢氏がそのことを知らないわけがない。その意味からも、当時、筆者が七沢氏から聞いていた話とは異なる展開でもある。
今回、白川神道について書くに当たって、改めて七沢氏を訪ねて行ければと思い、現在の消息を検索したところ、2021年8月29日、「白川伯家神道の正式な継承者・七沢賢治先生が逝去されました」と出ていた。
享年73歳。高齢化の時代、まだ十分に若い。しかも、大きな使命を持っていたことを思えば、死は“お役御免”の宣告である。
前号で紹介した伯家神道・高濱清七郎の後継者とされた娘婿・宮内忠政の若すぎる死と高濱浩氏の遺志を継いだ継承者・七沢賢治氏の死を重ねるとき、改めて白川神道の血統並びに霊統をたどるならば、大きくクローズアップされるのが、白川神道最後の血統である白川資長につながる霊統である。
「世界宗教」としての神道
皇居には神殿(八神殿)が建ち、宮中八神を祀っているように、伯家神道の大きな役目は、宮中祭祀を共に担うことによって、天皇を補い助けるとともに、時に天に代わって、その先導役をも担う尊い役目である。
伯家神道「白川神道」は、平安時代後期に、後一条天皇の勅命により、白川家が創設されたことから始まる。
具体的には奈良時代に制定された律令制の神祇官長官(神祇伯)は、それまで大中臣、忌部、橘などの諸氏が任じられてきたが、平安時代後期に、後一条天皇の勅命により、白川家が創設されて、第65代花山天皇の末裔(花山源氏)である白川家が世襲するようになった。す
白川家の初代・延信(のぶざね)王は、花山天皇の第一皇子・清仁親王の第一皇子である。以来、明治維新の第31代資訓(すけのり)王まで、約800年間にわたり、白川家が宮中祭祀を一手に司ってきた。その他の神道と区別するため、伯家神道と呼ばれるようになった。
その重要な役割と今日的な意義は、一つは皇位継承に関わる「祝(はふり)之神事」。
もう一つは、現代における重要な役割となる伯家神道の世界的な意味である。
伯家に伝わった神道の伝承のうち、長らく秘密の行とされてきたのが、祝之神事(十種神宝御法、あるいは単に御道・御行・御修行)と呼ばれる伯家の門外不出・一子相伝の口伝、つまりは皇位継承に関わるものである。
伯家が担う祝之神事とは皇位を受け継ぐ皇太子に面授口伝され、それを終えて皇太子は天皇になる。新天皇は改めて伯家の継承者を指名し、さらに次の皇太子に伝えていく。
その伝承の在り方から生まれる取り組み(神事)こそが、およそ2000年、天皇家が続いてきた秘奥の真実である。
もう一つの点に関しては、江戸時代末期、天保11年(1840年)に、国学者・平田篤胤は白川家の学頭に迎えられた。彼の協力を得て編纂された「神祇伯家学則」には「万国一般の大道である」として、以下のように記されている。
「神道は古今を通じて変わらない根本原理であって、いずれの国においても通用する大道でもあり、さらに神道と武道は一つである。おのれの道を修めて、家を整え、国を治めるという要領も、古事記、日本書紀、古語拾遺等の皇典を研鑽するうちに自ずからわかるものである」とあるように、世界に通用する大道・宗教というわけである。
出羽三山の開祖・蜂子皇子
宮内庁が基本、役人で構成される時代に、伯家神道の役割は変わらぬとも、在り方は変更を余儀なくされて当然である。
「反日」に限らず、相手を、また他国を様々な理屈をつけて、攻撃・批判し、攻めたてれば、報復は止むことはない。
怒り、怨恨・復讐が、どんなに正義のように見えても、それは一地域の一時的な出来事であり、地球の歴史まで逆上らずとも、世界の歴史のホンの一瞬である。その一瞬にこだわれば、報復の連鎖とともに戦争は続く。いつまで経っても、平和は来ない。
しかし、恩讐を超えないことには、その真実は見えてこない。
出羽三山の開祖・蜂子皇子は、悲劇の皇子と言われた。日本の天皇では唯一、弑逆された第32代天皇・崇峻天皇の第三皇子として生まれたためである。
崇峻天皇の時代、日本は仏教伝来により、国論が二分し、崇仏排仏両派の対立抗争が頂点に達した。その犠牲になったのが、崇峻天皇であった。
親王である蜂子皇子は、深い悲しみの中にあっても、報復の道を選ばず、当時の権力者・反対勢力から逃れるため、従兄弟である聖徳太子の助けを借りながら、宗教的対立を超えた平和郷の建設を目指し、丹後(京都府)の由良から、船で出羽の国・庄内(山形県)の由良の港に上陸した。
この由良から聖地・羽黒に蜂子皇子を先導したのが、三足の烏(ヤタガラス)である。
そして、羽黒山・月山・湯殿山を開くことにより、あらゆる対立を超えた王法仏法一如、正邪一体、顕幽一貫の妙理に基づく出羽三山・羽黒古修験道の平和郷を実現した。
あらゆる対立、恩讐を超えてという、その在り方こそ、白川神道の霊統を引き継ぐことになった神林茂丸師そして実子・梨本隆夫代表理事へとつながる道なのである。
終戦後の1949年12月8日、神林茂丸師が出羽三山に世界平和塔を建立することになるのも、単なる偶然ではない。
同じ臣下として、天皇陛下に仕え護る立場の者として、国そして天皇家の行く末を案じる2人は堅い絆で結ばれていた。世界平和への思いを共有する2人は、その同じ日、伯家神道の霊統が白川資長の代で途絶える前に「相伝書」を書いて、神林茂丸師に秘伝の継承を委ねている。
一連の文書・資料には地元・出羽三山でも知らない事実が書かれている。そんな歴史的な文書・資料が、いまごろ問題になるのも、混迷の時代を啓くため、平和な世界に神道の在り方・道の尊さが必要とされる、そういう時期が来たということだろう。
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