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戦争の狂気「蟻の兵隊」の舞台 激戦地・山西省で戦った歌人  フォトギャラリー 越後堀之内「宮柊二記念館」を訪ねる


 戦争の狂気「蟻の兵隊」の舞台 激戦地・山西省で戦った歌人
  フォトギャラリー 越後堀之内「宮柊二記念館」を訪ねる


 写真

1.宮柊二記念館

2.堀之内小学校・歌碑

3.生家・丸末書店

4.宮柊二墓所

5.魚沼を流れる魚野川






 戦後を代表する歌人・宮柊二は、1912年(大正元年)8月、新潟県魚沼市堀之内に

生まれ、1986年(昭和61年)12月11日、74歳の生涯を閉じました。

 2023年5月の月命日、水仙が咲き乱れ、桜がほぼ満開の越後堀之内にある宮柊二の

墓所を訪れ、花と酒などをお供えしてきました。

 昨年は生誕110年に当たることから、新潟では「新潟日報」本社の「にいがた文化の

記憶館」で「宮柊二〜新潟が生んだ歌人の歌と生涯〜」が開催されています。

 今年4月には「新潟日報」一面に「文化の記憶・宮柊二」(言の葉の泉・監修コスモス

短歌会)が始まりました。日替わりで宮柊二の歌が掲載されており、第1回目の歌は「中

国に兵なりし日の五カ年をしみじみと思う戦争は悪だ」というものです。

 ロシア・ウクライナ戦争が続く今日、戦争体験を歌った宮柊二の本音が、和歌には相応

しくないような剥き出しの言葉になっています。

「ウエルネス@タイムス」記者が宮柊二を意識したのも、日中戦争での体験を歌った歌集

「山西省」の作者だったことです。

 彼が所属した部隊は、後に「日本兵2600人・山西省残留の真相」の副題がついた池

谷薫著『蟻の兵隊』(新潮社)の所属した同じ大隊。終戦後、現地に残り、3年半にわた

って、中国共産党軍と死闘を繰り広げた狂気の北支派遣軍です。

 終戦まで現地にとどまっていれば、彼の運命もどうなったかわかりません。事実『蟻の

兵隊』の映画並びに著作のきっかけとなった残留兵は新潟出身です。

 一足先に帰れたとはいえ、宮柊二もまた兵役満期の後もなかなか帰国が許されなかった

ため、師・北原白秋の死に目にも会えませんでした。悲嘆に暮れる彼のため、中国人の郡

長が慰める会を開いて、黒檀の卓を壊して位牌をつくってくれたということです。

 人の生死を分けるものが何かはさておき、白秋の死を悼む思いの深さが、死線を越えて

彼に位牌を日本に持ち帰らせたかのようです。

 夫の死後「挽歌 夫・柊二へ」を書いた妻・宮英子は、夫・柊二のお墓を建てることを

最後の仕事だと考え、宮林に墓を建てています。墓所には春分の日の花の残骸が、わずか

に残っていただけで、月命日でも、特に誰かが訪れた気配はありません。

 宮柊二は20歳で上京して、北原白秋に師事しました。やがて秘書となり、戦後、19

52年には「コスモス短歌会」を創設。宮中歌会始の選者を8回務めました。その歌人と

しては、お墓は時代の流れとはいえ、いささか寂しい印象です。

 とはいえ、コスモス短歌会は宮柊二の死後も存続。現在も約2000人の会員がいると

いうことです。堀之内の「宮柊二記念館」では宮柊二の業績を讃えるとともにコスモス短

歌会の活動を引き継ぐように、毎年「全国短歌大会」が開催されています。

 昨今の和歌ブームの中、大げさに目立つことはなくとも、越後人らしい真面目で誠実な

生き方がうかがわれる秀歌は、飽きられることなく、接する者にじんわりとその良さが感

じられるようです。



 掲載写真について

「宮柊二記念館」では、宮柊二の業績を紹介している他、書斎なども再現されています。

 母校・堀之内小学校に建立された歌碑は、冬は雪に埋もれて見えません。歌碑には「空

ひびき土ひびきして吹雪する寂しき国ぞわが生まれぐに」の歌が刻まれています。

 江戸時代に鈴木牧之の『北越雪譜』を生んだ雪国に連なる風景です。新潟県人には、よ

くわかります。

 4月半ば、雪解け水の音が町中に響く中、ようやく桜が満開になります。

 生家の「丸末書店」は、いまも地域の書店・文房具店として商店街の中にあります。

「ウエルネス@タイムス」記者は、両親が満州にいたこともあり、中国大陸には特別の思

い入れがあります。宮柊二が一兵卒として歩いた大陸を、30年前、日中合作映画「空海

」の取材ツアーで、空海修行の地・五台山(山西省)などを巡った他、2002年には山

東省の台児荘大戦記念館を訪れ、献花しています。

 個人的な宮柊二との縁を感じるゆえんです。



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