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日本のダーツ 始まりは「ラブ・ストーリー」  紳士の国「英国」発祥は、大嘘!?      作家・波止蜂弥(はやみはちや)

日本のダーツ 始まりは「ラブ・ストーリー」

 紳士の国「英国」発祥は、大嘘!?      作家・波止蜂弥(はやみはちや)


 港湾労働者が始めたダーツ

 英国から始まった現代のダーツは「紳士のスポーツ」「紳士の国のゲーム」として、常に「紳士の国イギリス」というキャッチフレーズとともに語られる。

「嘘です」と、正統派ダーツを深く愛する人物から告げられた。

「エッ、そうなの!?」と、思わず口にしたのも、日本のダーツのレジェンドたちの話からも、最初のダーツのチーム戦が大使館などを舞台に行われていたからである。

 だが「紳士の国イギリス」発祥のイメージ、キャッチコピーは日本に上陸したダーツ製品の輸入業者がセールス文句にしたものだとか。

「紳士の国『イギリス』発祥の歴史と変遷」のタイトルでスタートしたダーツの旅は、確かに歴史を逆上れば、原始時代の弓と矢にたどり着く。基本的な人間の営みである。

 戦争に駆り出された兵士たちの暇つぶし、そしてイギリスの寒い冬の間の退屈しのぎだったのだ。そんな近年におけるダーツの発祥は、イギリスのロンドンやリバプールなど港町にあるパブで船員や港湾労働者たちが酒やビールを賭けて、始めたという一面もある。

 そこではダーツはパブ・ゲームであり、常にアルコールとともにあって、人々の射幸心をあおる好ましくないゲームとして、パブから締め出されそうになったこともあると、長谷川洋著『英国流ダーツ入門』には書いてある。

 ダーツ界のレジェンドたちがダーツに人生を賭けたことは事実だが、ビジネスに限らず何事も大事なのはイメージである。ダーツに限らず、多くのスポーツでは、そこにスーパースターがいるならば、アッという間に世界を席巻できる可能性が生じる。

 二人のラブストーリー

 日本のダーツの始まりは、日本に初来日したイギリス人が、神戸にダーツパブがあると知ったところから、思いがけない展開を遂げていく。

 神戸で、日本で初めてダーツと出会ったときのことを、彼は次のように記している。

「驚いたことに、1キロも歩かない所で、イギリス警察のヘルメットと同じくらいイギリスを象徴する“もの”の看板を見つけたのだ。“ザ・キングスアームズ”と書かれたその看板は、私を歓迎するように舗道の上に掲げられていた。『パブか? パブだ!』私の故郷、イギリスのマンチェスターを離れて2年。1万マイル彼方のこの日本にパブがあるとは! 舞い上がるような気持ちで、硬い樫の床に足を踏み入れた」

 その店内の一角に使い込まれた「ノドア」(ダーツメーカー)のダーツボードが掛かっていた。

「日本人もダーツをやるなんて」と驚いた、偶然に足を踏み入れたそこは、恐らく当時、日本でただ一つのダーツパブだった。

 そう語る人物こそ、アイヴァン・ブラッキン氏である。

 1963年夏、東京オリンピックの前年、「オーストラリアで一旗上げる」べく故郷を出てきた彼は、故郷からの送金がないまま、何とか東京駅までたどり着いた。

 一銭なしで、約2週間、東京駅のベンチをホテル代わりにしていて、お巡りさんに助けられたりしたというが、無事、お金が届くと、オリンピック前の英会話ブームもあり、彼もアルバイトで英語を教えていた。

 そんなある日、まともな仕事を探そうと、ジャパンタイムズの「英国人募集」広告に飛びついた。それが森瑶子さんとの出会いとなった。結果、彼は「東京のポッチャリ娘」に恋をして、一度もどった香港から盛んにラブレターを送った。

 日本にもどるか、当初の予定通り、オーストラリアに向かうか。逃げるなら今だと、思い悩んだとあるが、たぶん嘘だ。あっさり、日本にもどって、アッという間に結婚。3人の娘の父になっている。

 ブラッキン氏は1976年にアメリカで『オール・アバウト・ダーツ』をウイリアム・フィッツジェラルド氏と共著で出版。日本では、1977年『英国流ダーツの本』として翻訳出版されている。翻訳者は伊藤雅代。ブラッキン氏の妻の本名で、1978年に「夏が終わろうとしていた」で始まる小説『情事』で、第2回すばる文学賞を受賞した作家・森瑶子さんである。

 彼女も自らキャプテンを務めるダーツチーム「嗚呼 女たち」を結成、リーグ戦に参加していた。

 まさに、日本のダーツの始まりは「ラブストーリー」というわけである。

 日本人のためのダーツリーグ

 日本のダーツについて『英国流ダーツ入門』では「戦後、神戸や横浜等の港を持つ都市や横須賀、沖縄等をはじめとする米軍の各基地の中では、ダーツも一緒に日本に持ち込まれ、古くから英国スタイルのダーツが行われていたものと思われます」と書かれている程度である。

 そんな中で、1969年ニューズ・オブ・ザ・ワールドチャンピオンのバリー・トゥモローは、ダーツ普及のため、日本を何度か訪れたことのある英国紳士で、世界にダーツを広め「ダーツの親善大使」とも言われたということである。

 当時からビリヤードは、銀座などでもお洒落な紳士がたしなむものとして、上流社会の当たり前の遊びになっていた。その延長線上にダーツもあったわけである。

 ブラッキン氏は、日本にダーツを広めるためには、ダーツボードとその設置場所が必要なことから、まずは「ユニコーンダーツ」と「ノドアダーツ」の2社とエージェント契約を交わし、プロモーションキャンペーンを始めた。

 彼がダーツビジネスを始めたころ、作家デビュー前の森瑶子さんは子育ての傍ら、六本木にあった店の手伝いをしていた。

 ブラッキン氏の仕事ぶりについて、森さんは6年間の六本木時代を振り返って「夫は毎晩のようにパブで飲み、ダーツを投げて遊び、適当に女にもて(まだ髪の毛がフサフサであったからね)真夜中過ぎないと帰って来なかった」とか。

 70年代初め、8つほどのダーツチームがあり、その中でもっとも成功していたのが、ブラッキン氏が主将を務めていた六本木のエリスキャビンチームであった。

 当時は、特にまとまった組織はなく、1975年1月、任意団体としての日本ダーツ協会が東京・六本木に誕生した。会員の多くは日本駐在の外交官、在留外国人であり、日本人との国際色豊かな集まりだった。

 その延長線上に、1976年3月、日本で最初の、日本人のためのダーツリーグが、東京六本木界隈のビジネスマンを中心に開催された。

 この日本人のためのダーツリーグをつくったのが、ブラッキン氏である。名前は「ユニコーン・ビジネスマンズ・ダーツリーグ」(UBDL)である。

 彼の狙いはアフター5に飲みに行く以外にやることのない日本の若いサラリーマンたちをターゲットにして、企業にダーツを持ち込むというアイデアだった。

 企業には広々としたカフェや娯楽室があるからだが、実際にいくつかの企業にダーツを設置して、ダーツの啓蒙に務めた。

 もっとも、社員のためにダーツボードを設置することは問題なかったのだが、そこにライバル企業の社員がやってきて、チーム戦をやるとなると、いわゆる企業文化の壁があって、UBDLの活動はなかなかうまくは行かなかったようだ。

 第一回ワールドカップ日本代表

 1970年代は、日本のダーツが「第一次ブーム」を迎えていた時期である。

 そんな中、1976年に世界ダーツ連盟(WDF)が設立され、翌77年12月には、日本も参加している。

 その背景には、ダーツを単なるパブゲームではなく、スポーツとしてオリンピックを視野に入れたものにしていくとの狙いがあった。

 リーグ戦に勝ち抜くと、六本木ロアビルにあった会員制の「プレイボーイクラブ」に行けるというのが、若い男性陣のモチベーションになっていた。そこには、本物(?)のバニーガールがいたからである。

 ダーツがブームになる中で、ブラッキン氏は当時できたばかりの英国式パブレストラン「バーニーイン」の協力を得て、困難に直面していたUBDLはパブなどから派生したチームとともに、バーニーインリーグとして生まれ変わった。バーニーインにはダーツが置いてあったためだ。

 1976年4月にはダーツの世界チャンピオンであるバリー・トゥモロー氏が来日し、東京・大阪などでデモンストレーションを行い、テレビ出演するなど「ダーツ大使」の役割をこなして、ダーツブームに拍車をかけている。

 そんな中、団塊の世代のダーツのレジェンドである小熊恒久氏は、2歳上の先輩・青柳保之氏(青柳運送社長)に連れられて、六本木界隈に繰り出し、チームの一員としてダーツに熱中していた。

 大学卒業後、父親の経営する会計コンサルタント事務所の手伝いをしていた関係で、時間に余裕があったこともあり、仕事をこなしながらも、1日の大半をダーツの練習に当てていたとか。

「当時、自分が一番、ダーツの練習をしていましたから、それだけ練習すればダーツがうまくなるのは当然だと思ってました」と語る言葉が、嘘ではないことを証明するように、1977年、イギリスで開催された第一回ワールドカップに日本代表として出場した。彼を紹介した記事によれば、小熊氏のレジェンドぶりを「その後、10年連続日本代表として、ワールドマスターズ(イギリス)、タイオープン、香港大会(4~5回)、フィリピン大会、ラスベガス大会、台湾大会、パシフィックカップ(カナダ)など、数々の世界大会に出場し、小熊恒久の名を世界に広めました」と書いてある。

 最盛期には、日本のトップブランド「トリプレイト」と共同で、小熊ブランドの様々なダーツ用品を開発。ダーツ入門書にも、多くのアドバイスを行っている。

 そうした指導の一環として、いまも各地の大会で、試合前、調子が上がらない選手に、的確なアドバイスをする姿を目にすることもある。さすが、現役のレジェンドである。

 初めての彼女「東京のポッチャリ娘」

 ダーツのレジェンドたちが六本木界隈でダーツに熱中していた、その六本木は家業である印刷業界周辺で仕事を始めた筆者の遊び場の一つであった。

 バブル当時、流行っていたサパークラブに、よく出かけるようになった。会員制といっても、実質、誰でも入れる「最後の20セント」を大学の先輩が経営していて、当時「六本木の帝王」などとメディアで持て囃されていた。

 いまも、筆者のデスクの引き出しには会員証代わりのキーホルダーが入っている。くすんで文字が読みにくいシルバーの合金製で、英国王室か何かの盾をかたどっている。大事に取っておいたわけではないが、40数年後のある日、突然引き出し奥のガラクタの中から出てきたものだ。

 懐かしいーッ!

 それは筆者に初めてできた彼女を連れていった思い出の「カケラ」だ。

 作家・森瑶子さんとは、ダーツ同様、特別な接点はなかったが、初めての彼女はブラッキン氏が書いていた森さんの「東京のポッチャリ娘」の面影もあった。若いのに日舞と華道のお師匠さんだったため、森さんとは微妙にちがう生粋の大和なでしこだったが。

 その彼女は森さんと生まれが同じ、情の深い「さそり座の女」であった。

 そのころ、遊び人の兄は幼いころから知っていた従姉妹と恋仲になり、教育者の両親から「大学も出ていない男に嫁には出せない」と言われて、発奮。東京のキリスト教系の大学に通いだした。

 もっとも、恋の結末はせっかく大学を出たのに、相手に「いい人」が現れて、残念な結果に終わった。その後は富士スピードウェイ、サーフィン、オーディオなど、金のかかる遊びを続けながら、日々荒れていた。

 バクチの代わりに競馬に熱中して、たまに万馬券を的中。その度に高いオーディオ製品を買い足していた。意外な才能の持ち主でもあった。

 対照的に、自分から女性に声をかけることなど、想像もできなかった筆者は、彼女などできるはずがないと決めていた。

 そんなある日、仕事の関係でよく通っていたレコード会社で、いつもとはちがう受付嬢を見て、目が点になった。

 ブラッキン氏とはちがって、ラブレターこそ送らなかったが、毎日のように会社に通って彼女に会えるだけで心をトキめかせていた。

 人気の彼女はいろんな男性に言い寄られ、妻帯者のおじさんまでが「今度、食事に行こうよ」と、しつこく誘っている。ライバルの多さと、彼らの厚顔さに呆れていたある日、受付前には誰もいなかった。

「こんにちわ」とあいさつして、何かを話しかけたい気持ちをそのままに、2階への階段を上りながら、彼女を振り返って、なぜか手を振っていた!

 その様子を見て、彼女が弾けるような笑顔になったことは覚えている。手を振ったつもりなどなかった筆者は「エッ、いま手を振った!?」と驚きながら、階段で、コケそうになった。

 ダーツとは無縁のラブストーリーである。失礼!


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