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早稲田大学「山稜会」OBから届いた海外登山レポート3 日本のサラリーマンの米国登山・スイス「国際登山学校」体験レポート

更新日:2023年10月3日


 早稲田大学「山稜会」OBから届いた海外登山レポート3
 日本のサラリーマンの米国登山・スイス「国際登山学校」体験レポート



 アメリカでは山が仕事に役立った

 およそ半世紀前のこととはいえ、日本人ビジネスマンの海外での登山体験を楽しく読ん

でいれば、登山はさておき、肝心の仕事のほうは大丈夫なのかが気になる。

 もちろん、仕事は人一倍、こなしていたということだが、特にアメリカ時代は「実利が

あった」と語っている。

 たまたま紹介されたアメリカアルパインクラブ「AAC」(American Alp

ine Club)のニューヨーク支部長が、有名な保険会社の投資部長だった。山稜会

OBの小俣英毅氏が「AACに入りたい」というと、歓迎してくれただけでなく、日本経

済が勢いのある時代でもあり、彼がドーンと大量の注文をくれたのだという。

 そのときに「日本のことをわかっているのか。日本の証券界にはビッグ4があって、そ

れ以下の証券会社とはかなりのギャップがあって、わが社は5番目だ」と説明したのに対

して、彼は「会社は関係ない。お前とは山の関係だから」ということで、仕事につながっ

たのだという。事実、小俣氏はその後、ニューヨーク現地法人の社長に就任している。

 以下は、小俣氏の山稜会レポートの3回目である。



          *                 *

 米国アルパインクラブ(AAC)入会

 英国勤務の後、米国のニューヨーク勤務になった。

 仕事の関係から、偶然、アメリカアルパインクラブ「AAC」の幹部の一人で、ニュー

ヨーク支部長(添付写真参照)と知り合い、この支部長を通じて、早速AACに入会した。

 同、クラブメンバーと共に、主としてカナディアンロッキー、コロラドのロッキー山脈

でクライミング、登山を行った。

 AACはニューヨーク州北部の大きな敷地に宿泊施設を備えた大きなクラブハウスを持

ち、何とゴルフ場(ハーフコース)も有しており、年に何回か集会を催し、登山派、クラ

イミング派、ゴルフ派など自由に選択し楽しめるように運営されている。

 施設内には立派なレストランもあり、家族で来て、いろいろ楽しんだりできる。

 私はこの集会には1回しか参加できなかったが、クライミング派の方たちと、比較的易

しいクライミングを楽しんだ。

 その他、ニューヨーク市内の有名なアルピニストをゲストに呼ぶパーティ(男性は全員

ブラックタイ)等も、積極的に企画した。忘れられないのは、ラインフェルト・メスナー

(イタリア出身の登山家。1986年に人類史上初の8000m峰全14座の無酸素完全

登頂をなし遂げた)や、私が好きなダグ・スコット(イギリスの登山家。1975年にエ

ベレスト南西壁登攀に成功した)にもお会いして、結構、話しができたことだ。

 メスナーがニューヨークで講演した翌年の夏は、メスナーがオーストラリアの彼の家で

AACの参加者を全員合宿させ、近辺の山や岩登りをリードしてくれたとのことだった。

 私は仕事上、これには参加できなかったが、AACのクラブハウス等の施設を見て、日

本山岳会の運営の詳しい内容は知りませんが、日本にこのAACのような組織、企画があ

れば、もっと楽しいのではと思ったものである。


 NY時代「いまだにつくづく悔やまれること」

 ニューヨーク滞在中、突然、私は全く面識のない山稜会現役の大川君から手紙をもらっ

た。

「近々、南米のアコンカグアに単独で登ろうと思っているのですが、一人だと不安なので

、小俣さん、出来たら一緒に登りませんか?」という内容だった。

 追って、山稜会OB(同期)の近藤さんから連絡があり「寿司虎でアルバイトで手伝っ

てもらっている。アルパインクライミング指向で、いい奴だから、出来たら一緒に行って

くれないか?」ということだった。

 私自身、アコンカグアには強く引かれたが、ニューヨーク現地法人の社長になって日が

浅く、多忙を極めていた。はなはだ残念だったが、同行できなかった。

 私が一緒に行っていれば、彼にあのような残念な死に方はさせなかっただろうと思って

いる。

 いまだにつくづく悔やまれるニューヨーク時代の思い出である。



 スイスの国際登山学会

 ロンドン勤務中のある夏、10日間の夏休みを取って、国際登山学校に入学した。

 この学校の創立者は、初代校長を務めた米国人クライマーのジョン・ハーリンである。

 彼は仲間とアイガー北壁直登ルートを開拓中、ユマール(登高器)で登攀中にザイルが

切れて墜死した。

 彼の跡を継いで、二代目校長になったのが、英国人の著名クライマーのドューガル・ハ

ストン。彼はアルプス、ヒマラヤのビッグクライミングで素晴らしい記録を残していたが、プライベートでスイスのスキー中に雪崩に会い死亡した。

 三代目の校長が英国人で比較的若手ながらヒマラヤ中心に高い実績を積んでいたピータ

ー・ボードマン。甘いマスクのなかなかハンサムな男だった。私がISMに入学したとき

の校長で、学校の地下のパブでビールを一杯ご馳走になり、今度日本に行ったときに連絡

するから、是非会おうと言ってくれた。

 しかし、彼が日本に来る前に挑戦したエベレスト西稜の初登攀をジョー・タスカー(英

国山岳会初代会長)と登っていたとき、頂上近くで滑落して2人とも亡くなってしまった。

 この学校は、世界中から若手の優秀なクライマーを募り、学校のインストラクターとし

て入校生徒のレベルに合わせたクライミングの指導をしながら、将来は世界のトップクラ

イマーに育て上げることで有名だ。

 このレザン(Leysin)の学校のすぐ近くに素晴らしい岸壁(添付写真参照)があ

り、初級、中級、上級コースがあった。

 私が参加したときの予定は、ここで前半の4〜5日は初級、中級レベルの岩登りをやり、後半の4〜5日は実際にアルプスに行き、山を登るよりも、氷河の上の歩き方・ザイルの

結び方、クレバスの見分け方、及びクレバスに落ちたときの救出方法等さまざまなレスキ

ュー方法を指導してくれた。



 忘れてはならないこと「天野秀男君の遭難救助隊」

 1970年2月27日、このときの山稜会のリーダーは天野秀男君で、中央アルプス縦

走の冬合宿中だった。

 この日、チームは宝剣岳を越えて、さらに縦走を続ける予定であった。宝剣岳頂上まで

は、岩稜沿いの結構、長い細道をトラバースする必要がある。無雪期は壁のところどころ

に鎖がついているから、慎重に行けば、特段問題はないが、厳冬期には壁は凍りつき、鎖

も場所によっては雪に埋まっている。天候が悪く、見通しが悪いと、リスクはさらに高ま

る。

 そこでまず、リーダーの天野君が壁の状態をチェックしに行った。ところが、彼がなか

なか戻らないため、仲間が行ってみると、彼の姿がない。いくら呼んでも返事がないので、そこで滑落したと判断した。生憎、天候状態が悪く、岸壁の下部が見通せなかった。

 このとき、私の会社の机上の電話が鳴り「天野が遭難した」と連絡を受けた(当時、私

は証券会社に入って3年目で、前年末に大阪勤務から本社の外国部に転勤していた)。

 その後、直ちに私・小俣を隊長とした「救助隊」を組織し、人数をかき集め、翌早朝、

新宿を発ち、最寄りの駒ヶ根に向かった。

 まず、駒ヶ根駅前にある駒ヶ根警察署を訪問して、署長さんに挨拶し、今回のご迷惑を

深謝すると共に、救助隊の活動に対するお礼を述べた。

 そこで「我々は我々の救助隊を組成しているが、行動に関する注意事項をお聞かせ下さ

い」というと、署長から「地元の救助隊を立ち上げているので、貴兄たちが遭難救助に参

加するならば、必ずこちらの指示に従っていただきたい。また、天候状態によって救援活

動を早めに切り上げる時があります。そのときは、貴方がたもそれに従っていただきたい。約束は厳守ですので、誓約書にサインしてください。なお、地元の救援隊員には参加者全

員に日当を払っている。その日当を負担していただく」と言われた。

 そのことを、我々の救助隊員にしっかり伝えた。

 我々の救助メンバーは、OBの精鋭が揃ったのに加え、彼らの友人で経験、技量の高い

人間が何人か加わってくれた強力チームである。

 翌日から共同で遭難場所をチェックし、天野君を捜索するため、地元救助隊に続いて行

動した。この日も冬山としては普通のことだが、小雪交じりだった。

 当然、稜線に出れば風も吹く。

(私は常時、警察署に滞在し、署長の隣の部屋で仲間からの連絡を待っているのと、東京

の留守部隊との連絡のために、実際の救助活動に参加せず、地元の救助隊の実態は知らな

かったが)我々のメンバーによると、地元のメンバーの大半は農閑期の農民たちであると

のこと。その捜索活動の二日目が終わった午後、ついに我々の救助隊のリーダー浅賀から

強い苦情が私にあった。

 それは「小俣さん、地元の救助隊のメンバーのほとんどは農家の人たちで、ほとんど冬

山の経験はないド素人集団ですよ。ちょっと風が吹くと、危険だと言って下山してしまう。彼らの判断で、こうも簡単に救助活動を中断していたら、まだ生存しているかもしれない

天野をむざむざ死なせてしまうかもしれません。小俣さん、申し訳ないけど、署長との約

束を破ってでも、我々に救助活動をやらせてほしい」と、強い要望があった。

 ちょっと困ったが、とにかく天野君の状態を早く確認することが最優先なので「後は俺

の責任で」と腹をくくり、翌日から、もちろん安全第一だが、山稜会の力量の範囲で思い

切り行動することを許した。

 翌日(捜索3日目)も小雪交じりの天候だった。例によって、地元救助隊は昼過ぎに天

候が悪いと活動を止めたが、我々のメンバーは残り、滑落現場付近からザイルで一番下ま

で降りたとき、残念ながら天野君の死体を確認した。

 滑落した直後に頭を打って、脳震盪を起こし、岩に激突しながら落下したようで、遺体

はかなり損傷していた。

 それからは警察署の指示に素直に従った。警察署長から我々の行動にお咎めはなかった。

 この日の夕方、天野君のお母さんとお姉さんが東京から到着した。私は「こんなことに

なって、大変申し訳ありません」と言ったきり、後は、本当に何の言葉もかけられなかっ

た。

 この遭難は山稜会がスタートして以来、正式な合宿での初めての遭難事故である。

 その後は、現在に至るまで事故はないが。

 私も弟をヨットの遭難で亡くしているので、ご両親、ご兄弟の悔しさ、無念さ、悲しさ

は痛いほど理解できた。それだけに、何も言えなかった。

 山でも何でも「行ってきます」と玄関を出たら、絶対に元気に「ただいま」と帰るまで

が、行動責任だ。

 このことは、常に肝に銘じていなければならない。

 私は弟の事故を契機に、やたらと「安全に、慎重に」というので、一部の現役メンバー

から「too muchに慎重すぎる」と非難された。だが、命の危険のあるところ、慎

重すぎるということはない。





 日本の山を楽しむ

 早稲田大学山稜会での活動、海外での登山経験を経て、その後、私が密かに決断したの

は、自分自身が素晴らしい日本の山でもっと多くの冬山とクライミングを安全に楽しみな

がら、自分の実力を確実に伸ばすことだった。

 そこで私はフリークライミング、岩登り、冬山ルートも含めて、最新の登攀技術、安全

確保技術等を学ぶために、その価値のあるルートには信頼できるプロのガイドにつくこと

にした。

 いままでに、2人のプロガイドさんのお世話になった。

 一人は松井登さん(基本的にはソロクライマー。多くのルートを単独登攀しているが、

代表的な初登攀は佐梨川奥壁四スラブ上部左フェース)。

 ご一緒させていただいた主なルートとしては(厳冬期)鹿島槍天狗尾根〜北峰・南峰登

頂。「雪洞」爺が岳。

(残雪期)剣岳八つ峰縦走〜本峰等。

(無雪期)北岳バットレス第4尾根〜中央稜、Dガリー奥壁の全ルート、佐梨川奥壁第四

スラブ、前穂高岳屏風1ルンゼ、谷川岳・幽ノ沢V字岸壁右他。

 その後、松井さんは3月にお客さんを中央アルプス宝剣岳、木曽駒をガイドし、下山中、千畳敷カールで雪崩で亡くなられた。

 もう一人は、プロの登山ガイドとして経験豊富な篠原達郎さん。篠原さんには数多くガ

イドしていただく他、クライミングに関して、幅広く、極端なことを言えば、ギリギリま

でザックに余計なものを入れないことを含めたパッキングの仕方まで教わった。

 ガイドしていただいた主たるところは(厳冬期)剣岳早月尾根〜頂上ピストン、新穂高

温泉〜白出ノ小屋〜涸沢岳〜奥穂、富士山(2回)、塩見岳、甲斐駒ヶ岳黒戸尾根〜頂上

往復、八ヶ岳三叉峰、地蔵尾根、中山尾根、裏同心ルンゼ、石樽稜、谷川岳東尾根等。

(残雪期)剣岳−馬場島〜赤岳尾根〜大窓〜小窓〜小窓の頭〜池ノ谷〜馬場島、剣岳源次

郎尾根〜本峰、明神岳東稜、前穂高北尾根、槍ヶ岳北鎌尾根、利尻岳南稜他。

(無雪期)滝谷末端からの完全登攀、その他、滝谷5〜6本、小川山フリールート多数他。

 なお、篠原さんも2022年4月、事故で亡くなられた。

          *                 *

 もちろん、小俣氏の登山歴はここに記されたものだけではない。北海道から九州まで、

全国各地を訪れている。

 相変わらず中高年には人気の登山だが、近年は若い女性による「山ガール」が登場する

など、登山がある種ブームになっている。

 インバウンド需要もあり、富士弾丸登山が話題になる一方では、全国各地の山で滑落・

遭難による死亡事故が続いている。

 早大山稜会の仲間に限らず、小俣氏のレポートからも、多くの登山家が山で亡くなって

いることがわかる。

 いわば、常に死の危険がある登山ではあるが、登山にはそれ以上の魅力があるようで、

慎重派の小俣氏も、東京で会った翌日、何度も行っている奥多摩の気になる山のルートを

再度確かめるために、出かけるという。

 仕事は、中東関係など、独自の経験・人脈はいまも必要とされているようで、いまだ現

役という一面もある。

 平日は早稲田大学の公開講座に出かけるなど、いまも学ぶことを続けているなど、充実

した日々を送っているようだ。

 帰りにご子息が書いた本だと言って、小俣直彦著『アフリカの難民キャンプで暮らす』

(こぶな書店)を贈呈された。



 オックスフォード大学「国際開発学部」准教授の小俣直彦氏は東大卒業後、8年間の邦

銀勤務を経て、アメリカ・タフツ大学大学院修了。国連機関、NGOで実務家としてアフ

リカの開発・難民支援に携わった後、オックスフォード大学・国際開発学部「難民研究セ

ンター」主任研究員として、現在は主に東アフリカで難民の経済生活等の調査などに携わ

っている。

 著書は祖国リベリアを追われた難民が住むガーナの難民キャンプで401日間、暮らし

た体験をまとめたもので、2019年6月20日「世界難民の日」に刊行した話題の本で

ある。

 現地に行って、実際に暮らしてみないと分からないことは多い。著書の体験は、表向き

平和な日本人が知らないことばかりである。ぜひ、手に取って読んでもらいたい一冊であ

る。


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