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梨本宮記念財団の真実 先祖の遺徳について    無名ジャーナリストの仕事


 梨本宮記念財団の真実 先祖の遺徳について    無名ジャーナリストの仕事


 「恩讐を超えて」両親による世界平和行脚を引き継ぐ(その1)


 ホテル並み刑務所「東京都同情塔」

 2024年3月、上半期の芥川賞受賞作は、九段理江氏の『東京都同情塔』である。

 東京都同情塔とは、東京オリンピックのおよそ10年後を舞台に、実際には建たなかったザハ・ハディド氏が設計した新国立競技場とともに、並び立つ刑務所である。

 芥川賞選評などを見ると、同作は「生成AI」の使用を著者が明かしたことが話題になっているが「シンパシータワー東京」というタイトルに象徴されるテーマは、作者がどこまで意図しているかはさておき、常々「ウエルネス@タイムス」が指摘している内容でもある。

 もちろん、刑務所を高級ホテル並みのタワーにするといった発想はないが、加害者と被害者を分けて考えるつもりはないからである。

 憐れみを与えられるべき人としての加害者が、なぜ犯罪者になったのか。小説では最近の科学的な研究成果などを用いながら、加害者=被害者という構図を、実に極端な形にした問題提起のようにも見えてくる。

 本当のテーマはさておき、そこの部分に目を向ければ、加害者と被害者の対立する関係が逆転する、つまりは同じものの裏表である。

 犯罪者である加害者が、実は社会や家庭、教育の犠牲者であることがわからない間は、平和はやってこない。

 先祖供養は未来への投資!という「ウエルネス@タイムス」のメッセージ、「恩讐を超えて」(あらゆる対立を超えて)との一般財団法人「梨本宮記念財団」の取り組みが、尊い理由である。

 と、そんなことを考えたのも、平和の入り口は「赦すこと」だからである。

「現代平和学の父」と言われるノルウェーの政治学者ヨハン・ガルトゥングは「平和とは何か」に関して直接的暴力である「戦争」のない状態としての平和と、構造的暴力ないしは文化的暴力である「貧困・差別・人権侵害・環境破壊など」のない状態としての平和が実現したときに、初めて「平和」といえると、平和を大小2つに分けている。

 欧米人の思考法同様、現代科学では何事も、対立的に分けることにより、分析的に捉えるためだが、平和とはあらゆる面で「抑圧された状況がないこと」と、定義できる。

 だが、ごく普通の日常生活を送っていても、不愉快なことは生じる。それが自分のせいか、他人のせいかのちがいはあるが、自分の責任ではなくても、人は自分一人では生きられないとの事情を考えれば、相手のせいでも自分のせいでも似たようなものである。

 要は、そうした抑圧、対立、争いなど、地域・社会・組織等に乱れが生じる場所には、平和などないということだ。

『東京都同情塔』の中でも「君はまだ若い。過去の遺恨は忘れなさい。忘れることも平和への第一歩なの。無理なら忘れたふりでもいいし」との会話がある。忘れるとは、赦すことである。


 不幸の手紙(チェーンメール)

 平和を求めながら、問題はほとんどの人が赦すことも、水に流すこともしないことだろ

う。大半の人たちが「できない」ためやろうとしない。そして、できなくて当たり前が、いわば正義になっている。平和が実現しない理由である。

 戦争を止めるには、どうすればいいのかは、小学生に聞くまでもない。

 まず「魁より始めよ」というように、気がついた自分から始めればいい。

 わかりやすい事例を紹介するならば、不幸の手紙(チェーンメール)が届いたときに、どうするか。なぜ不幸の手紙が成り立つかは、戦争同様、不幸の手紙を続ける人がいるためである。

 正しい選択は、本当に不幸の手紙を止めたいならば、無視して捨てることだ。

 そのとき「自分の命、家族の身に危険があるから」と考えるから、不幸の手紙は成り立っている。同時に、誰かが止めれば、簡単に終わる。

「死んだら元も子もないではないか」と言いたくなるのはわかるが、それでその後、続く多くの不幸が起きないのであれば、尊い犠牲として、良しとするしかない。それだけの徹底した覚悟と行動があれば、神も味方する。

 愛と平和を語るのは簡単だが、本当に平和を実現したいのであれば、それ相応の覚悟が必要だということだ。西暦後、2000年以上来ない平和が、中途半端な覚悟と行動で実現すると思うことが、そもそもの間違いだろう。

 かつての武士は常に死と背中合わせに生きていた。また、宗教の世界でも生死一如と指摘されている。

 そして、歴史を持ち出すならば、古き日本・縄文を見よということでもある。

 日本人のDNA

 赦すことができる人の話を見聞きすれば、そこに怒りはない。ベースにあるのは、人類への愛であり、相手を想う心、思いやりだけである。

 もちろん、実際には彼らも怒るべきときはある。そのとき、彼らは「どうするのか?」聞いてみた。

 答えは、悲しい顔をする。言葉にしないのは、自ら気がつかなければ、相手も変わらず物事は進展しないからである。

 彼らには基本的に怒りの感情はないので、怒る代わりに、悪事を働いた相手、良くないことをした者の心と行為を、相手のためを思って悲しむ。

 何よりも、怒ることは相手の感情レベルに同調するという意味で、あまり上等とはいえない。その世界に身を置くことを自らに強いるのは、雅びな世界並びに聖なる世界には不似合いな感情だからである。

 そのため「聖書」にも書いてあるが、徹底的に赦す。

 しかし、恩讐を超えるためには、報復や怒り、恨みが醜いということがわからないうちは不可能である。

 そんな世界で、日本が最初に「終戦」を宣言し、まがりなりにも「平和憲法」を持って戦後80年近く戦争のない時代を実現している。それが世界の中の日本の真実である。

 歴史を逆上れば、日本の原点は1万年以上続いた平和な縄文時代にある。神話の時代から続く天皇制も、世界のロイヤルファミリーの成立・在り方とは異なる。

 西洋文明の洗礼を受けて、日本も変わりつつあるが、日本では争いごとはあっても、勝敗の捉え方は単純ではない。国譲り神話、喧嘩両成敗、負けるが勝ち、あるいは村八分といった対立を解消する知恵や和の伝統が、いまなお日本人のDNAとなっている。

 恩讐を超えること、徹底的に赦すことは、実際には江戸っ子や食が「三代」と言われるのと同様、一朝一夕に身につくものではない。


 あらゆる対立・恩讐を超えて

 梨本代表理事は、1938年3月、山形県鶴岡市羽黒町に生まれた。代々続く出羽三山の修験の霊統に連なる。

 戦後、民主主義の洗礼を受けた若者の多くが、日本の古い伝統を重荷に感じる中で、血統もまた煩わしいように思える。実際に反発もするが、育った環境、体にしみ込んだ教えが、結局は先祖の教え、遺徳のありがたさを実感させる様々な体験を重ねることによって、彼らは気がついてみれば、自ら歩むべき道にもどっていく。

 霊統が、そのようにして継承されていくのは、梨本代表理事の場合も同様である。

「ウエルネス@タイムス」第12号の「安倍元首相の死で語られないこと」で紹介しているように、プロボクシング界の道を歩み、大学の後輩のケンカの仲裁に入ったことで逆恨みされ、日本刀を持った山口組の返り討ちにあい、3日3晩、生死の境をさまよっている。

 後日、その敵であったはずの山口組三代目・田岡一雄親分の長男を、恩讐を超えて助けることにもなった。

「親から何度も勘当された」という梨本代表理事だが、修験の地に生まれ、神主の家系からはおよそ考えられない人生を送ることになったのも、今になってみれば“お役目”があってのことだとわかる。

「神は偉大なるプログラマー」であると、梨本代表は語るが、何度も死にかけては生かされてきたのも、自分なりの使命があるからだと、何か事ある度に思い知らされる。

 2002年9月に、梨本代表理事は旧皇族の梨本宮家に入籍した。2009年6月には「梨本宮記念財団」を設立する。原点は両親から続く「世界平和」への思いである。

 30数年間、愚直とも言える頑固さで出羽三山の他、毎月15日の靖国神社参拝、23日の白川伯王家墓前での祭典を続けるなど、天皇家・宮内庁・厚生労働省に代わって、日本の戦後処理を執り行ってきた。

 そして、86歳の今日、日本国内ばかりではなく、フィリピンをはじめ台湾、中国、韓国へと忙しく戦後処理の旅を行っている。それは昭和天皇をはじめ、時には明治天皇、安倍元首相・安倍洋子氏、そして外交評論家・加瀬英明氏など、縁ある人々のやり残したことを、代わりに彼らの遺志を受けて、やらされているようでもある。

 とても一人では背負いきれない使命・お役目だが「戦後処理はいまだ終わっていない」

「霊界を鎮めずして、この世のできごとは解決しない」との信念のもと、世界平和のため

の行脚をひたすら続けている。それは彼の両親がやってきた活動の集大成である。

 戦後初の民間日中有効の旅

 戦後間もない1949年12月8日、梨本代表理事の実父・神林茂丸師(三山大愛教会本山管長)は、私財を投げ打って、出羽三山・羽黒山境内に世界平和塔を建立している。

 実父・神林師の足跡は、1980年9月に発行された母・みさを氏による「出羽三山友好訪中団慰霊行の記」に記されている。

 同小冊子は団長・神林一行23名が、その年の6月、北京からハルピン、長春、吉林等各地を歴訪して慰霊の目的を達し、無事帰山した12日間の記録である。

 実父・神林師に関して、もっとも身近で見てきた妻・みさを氏は「つとに神霊の実在、霊魂の不滅を信じて、これを行動によって示された稀にみる宗教人であります」と紹介している。

 羽黒山頂に世界平和塔を建立して、毎年12月8日には慰霊祭を執行。1977年12月7日には、神林管長以下一行9名は、日本からハワイに飛んで、真珠湾アリゾナ号艦上で「太平洋戦争で戦死した日本人及びアメリカ人を含む英霊達の慰霊を執行、かつ日本が犯したかつての過ちを再びすることのないように心から懺悔滅罪のお祈りをしてきた。

 1979年6月にはグアム島に渡り、同8月15日、出羽三山の主峰月山頂上に鎮魂碑を建立している。碑は第二次世界大戦戦没者英霊、神潮特別攻撃隊英霊、世界平和建設犠牲者諸霊達の鎮魂のためであり、日立市在住・川上貴子氏作詩、同氏建立の「御国(おおくに)のみ楯となりて散りゆきし、影なき花よ咲け月山に」との鎮魂賦が刻まれている。

 その一部始終は、問わず語りに梨本代表理事が見てきた両親の軌跡である。


 松花江上の慰霊祭

 日中国交正常化は1972年9月、田中角栄首相の訪中によって実現したが、実際に日中平和友好条約が締結されたのは、その7年後の1979年10月である。

 大平正芳首相(当時)の訪中がきっかけになり、戦後35年を経過した1980年春、政府派遣の慰霊団60名(野呂恭一厚生大臣団長)が戦後、初の慰霊団として訪中した。

 その1月後に行われた神林団長の「出羽三山友好訪中団」の慰霊行は、民間人訪中慰霊団の第1号である。

 6月1日、成田空港から北京に着いた一行は、しばし休息の後、身を浄めて、ホテルの一室に仮に設えられた祭壇を前に、中・日両国人の諸霊のための最初のみ祭りを団長の先達のもとに執り行った。

 北京に2泊後、一行は一路、黒竜江省の省都・ハルピンを目指した。駅に着いて、そこが旧ハルピン神社跡地だと知って、広場の真ん中でみ祭りを執り行った。

 ひたすら慰霊を続ける一行に、確かな手応えがあったのが、ハルピン市街のすぐ側を流れる松花江上における慰霊祭でのことである。

「ソ連軍参戦後の混乱期に中・日両国人の夥しい遺体が遺棄されたという事実を聞きまし

たので、江上に船を浮かべて、これらの不幸な霊達のためにみ祭りを執り行わせていただきました。ところがみ祭りが終わる頃、霊達の浄化を祈ってお供えした羽黒山荒沢の浄化水を水面にお流ししたところ、遙か江上からわたくし達の船に向かって『光の帯』がヒタヒタと押し寄せてくるではありませんか。アアこの瞬間、霊達はみ祭りをお受けになられたと感じました」

 こう、みさを氏は記している。

 文中「中・日」とあるのは、常に相手のことを先に考えての行いだからである。だから

相手にも誠意が伝わる。神林師一行の慰霊行が、他とは異なる理由である。


 阿城県人民公社水路傍での慰霊祭

 阿城県はハルピンの東南約30キロ。旧日本国開拓団跡だという建物が2軒ほど残っていた。開拓団には山形県人が相当多くいたということだ。

 人民公社水路傍での慰霊祭は、事前に公社側から各家庭に知らされていたようで、大勢の老若男女が集まってきて、仮祭壇をつくるのを手伝ってくれたという。

 羽黒から持参した多くの御供物をお供えしてみ祭りを執り行った後、参列者に分けられた品々は、現地中国の人々には遙か日本からの物とあって物珍しく、また県出身者には懐かしい古里の物とあって、みな感激していたという。

 神林団長は人民公社当局者に感謝の意味を込めて「御殿毬」を平和のシンボルとして進呈し、公社側からは立派な「パンダの額」が贈られた。

 この額は、帰国後、羽黒第一(手向)小学校に寄贈されている。後年、梨本代表理事が悠仁親王のために、反中国の石原都政下、中国からパンダを来日させる橋渡し役となるのも、こうした縁があってのことである。

 ハルピンには多くの学校があるが、その中から一行は第十中学校を訪問した。

 校長先生はじめ職員の方々、生徒達の心からの歓迎を受けて、一行の面々も生徒達と一緒に「サクラサクラ」の大合唱をするなど、楽しいひとときを過ごしたという。

 神林団長が「教育上、何か欲しいものでもあれば」と尋ねたところ「日本を知るための中日語辞書」と「電気などの技術に関する参考書」が欲しいということで、帰国後、送り届けたということである。

 慰霊とともに将来へとつながる中日友好の旅ともなった。

 当時の慰霊行は、いわゆる歴史問題以後、冷え込んだ両国関係からは考えられないような展開を見せていたわけだが、そこにこそ、対立する両国の友好親善の本当の姿があるはずである。

 次回は「出羽三山友好訪中団慰霊行の記」の続きと、人間同士が「戦ってどうする」との観点から「真の人類の敵とは何か?」についてレポートする。


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