死を胸に生きる国士「アフガンのサムライ」 ウエルネス情報
「あるがまま なすがまま」 田中光四郎短歌集
「この人は強い」と思った武術家
2021年12月、アジア新聞社から「あるがまま なすがまま」(アフガンのサムラ
イ)と題する田中光四郎短歌集が発刊されました。
著者の田中光四郎氏(武術家・日子流体術宗家)は知る人ぞ知る希有な日本人として、
いまでは死語になっている典型的な「国士」です。
本来、ペンや茶碗より重いものの苦手な「ウエルネス@タイムス」編集子には、空手や
武術など肉体を駆使する相手とは住む世界が異なります。通常は接点などありませんが、
縁とは不思議なもので、いくつもの接点が生じてきます。
もともと当編集子が、最初に田中師範の名を耳にしたのは、ハワイ「ジュジュベ・クリ
ニック」の亀井士門院長からです。
ハワイの地で東洋医学を学んだ亀井院長は、医学による治療を行う傍ら、空手の他、ハ
ワイの伝統武術を学び、治療にも役立てています。ハワイ先住民の警備担当を経て、現在
は安全保障や武術の指導組織「志統館」を主宰、現地の子どもたちに武術の指導を行って
います。
亀井院長は30代のころ、来日した際に、いわゆる道場破りではありませんが、全国各
地の武術道場、武道家などを訪ねて、指示を仰ぎ、教えを受けながら武者修行をしていた
ということです。
「ハワイから来た」というと会ってもらえたそうで、有名な武術家、強いと言われる武道
家と手合わせしたそうですが、そんな中「この人は強いと思ったのが、田中師範だった」
という話が印象に残っています。
死線を潜り抜けてきた強さ
亀井院長が言う田中師範の強さは、おそらく現代の武術の多くが、スポーツ化するか、
試合上のルールに縛られているためです。本来の武術が持つ命と隣り合わせといった緊張
感が薄れ、いつの間にか実戦には役立たなくなっているということのようです。
空手にしても、顔を突いてはいけないといったルールがあるため、不意にちょこんとお
でこを突くと、呆気なく当たってしまうといったようなことになります。
ルール違反には弱いのです。それは、通常は「卑怯」とされるのですが、ルール通りで
は実戦には役立ちません。その点、田中師範の強さの秘訣は「喧嘩屋」と公言しているよ
うに、戦場ではどんな手段を使っても勝つことが使命だからです。
ボクシングの他、武道界にも詳しい梨本宮記念財団・梨本隆夫代表理事と、そんな話を
していたところ、田中師範は「何度も死線を潜り抜け、実際に戦闘の場を経験してきた、
本物です」と、亀井院長の言葉が間違いではないと教えてくれました。
平和な日本では想像もできない世界を歩いてきたのです。
その田中師範とは直接、名刺交換をすることはありませんが、梨本宮が行っている毎月
15日の靖国参拝時の他、2017年9月、明治記念館で行われた「天明の会」など意外
な場所ですれ違っています。
武士として死に場所を求めて
古い日本人同様、短歌は「辞世」には欠かせない武士のたしなみです。
同短歌集は「あとがき」によれば、アフガニスタンを死に場所に選んだ彼が「最期にな
るであろう人生を記録しておこう」と書き始めた日記とともに、書き記した和歌1000
首の中から編んだ170余首に、写真と詩、文章を添えた歌集です。
1940年、福岡県田川市に生まれた彼は、幼少時から武道に親しみ、やがて柔道・剣
道・空手等の武道体験をベースにした独自の体術を編み出しました。
そして、常に武士でありたいと、長年研鑽を重ねてきた彼は、1982年、初めてアフ
ガン難民に出会ったことにより、1984年「此処なら死ねる」と確信し、武術家として
最後の舞台である彼の地で「如何に死ぬか」との思いを胸に、半年かけて身辺整理をした
後、アフガニスタンに赴きます。
「侵略者ソ連軍と戦ってアフガニスタンの国、領土を取り返し、難民となった人々を救う
という『大義』を旗幟に1985年2月から戦場に入り、ふたたび生きて日本の土を踏む
ことはないであろう覚悟をもってイスラム聖戦士ムシャヒディンとなりました」
死に場所を求めて渡ったアフガニスタンは、まさに死と隣り合わせの戦場で、彼自身多
くの人たちの死に直面しています。
「アフガンのサムライ」
短歌集の冒頭には、アフガニスタン周辺の地図に続いて、カブールの日本大使館(閉鎖
中)の写真が3枚掲載されています。
1989年11月、長らく続いたソ連軍(当時)によるカブール市制圧の終わった後、
閉鎖中の大使館に掲げられた日の丸は、彼が掲げたものです。
「慎重に地雷の有無を確認しながら、日本大使館の敷地に入った。朝顔に似た花が豊かに
繁っていたのが印象的だった」と、写真の説明には書かれています。
特に、アフガニスタンでの6年余りの戦いの中で「この日の丸の掲揚は私の人生の誇り
の一つである」とあるのも、一人の日本人として、命をかけてアフガニスタンの人たちの
ために戦ったという思いがあってのことだと思います。
同歌集冒頭の歌は次のようなものです。
「天を仰ぎ 地を踏みしめて 観る光(さき)は 横一文字に 天とも地とも」
「今此処に 我身思えば 父母の恩 遠く見つるに 山のまた山」
「やはらかに 草木繁らす ガンダーラ 郷の灯りや 大空御佛」
「現生(うつせみ)と 永劫の郷を 仰ぎ見て 白き佛の 形なす見ゆ」
日本の文化伝統を守る者として、死と生の狭間に生きる国士の歌は、自然の中にも先祖
供養から慰霊鎮魂、仏教誕生の地ガンダーラなど宗教的な要素が色濃く反映しています。
妻を詠んだ歌の他、「勝手に弟子入り」をして年に4回墓掃除を行っているという江戸
期「文化・文政の三蔵」の一人と称された、偉人にして希代の武術家・平山行蔵先生を詠
んだ歌が、わずかな慰めとなるのも、生きていればこそだと思います。
アフガンの友と報道写真家の死
厳しい戦場での歌は、同じ人間同士、国と国が戦う無情さとともに、平和の尊さを思い
知らされます。
「死に顔の 白きに哭(な)けて 草枕 抱き起こす身の 未だ温かきに」
この歌について、以下のように書かれています。
「ふと、気づくと隣りの岩陰で撃っていた友が死んでいた。『おい』と抱き起こした身体
には温みがあったが、目玉はガラス玉の様だった。
彼は岩の脇で伏射(腹這い姿勢で撃つ)、私は立射(立った姿勢で撃つ)だった。
私は運を天にまかせ常に立射をつらぬいていたが、不思議なことでもあるな」
戦場での彼の思いを詠んだ歌もあります。
「人のため 戦止めよと 君がため 火の中走る 神の意のまま」
死はいつも隣りにあります。1988年10月には、報道写真家(ジャーナリスト)の
南條直子氏がソ連軍の撒いた地雷を踏んで亡くなりました。
享年33歳。若すぎる死に、彼は彼女の名誉を守るため、死力を尽くします。武士の情
けということでしょうか。
彼女を日本の遺族の元に返そうと、墓を掘り起こして、遺品を届けたのも、本来は日本
大使館がやるべきことです。
2年後には「どんな姿になってもいいから晴れ着を着せてやりたい」という彼女の母親
の言葉に胸を打たれ、苦労の末、両親他9名の若者を同行してジグダラクへ入って遺体を
掘り起こし、晴れ着を被せて荼毘に付したと言います。
「アフガンの 荒野に眠る娘を思ふ ススキ穂抱く 老いし母かな」
田中師範の尽力により、国交のないアフガニスタンで埋葬された彼女の遺体は、199
0年、ようやく日本に帰ることができたのです。
誰にもできることではありません。
同郷の中村哲医師への思い
多民族国家のアフガニスタンは、東西文明の十字路として、昔から栄えた一方、常に異
民族に攻められ続けてきました。
ソ連(ロシア)が去って、代わりに登場したアメリカ軍も撤退して、いまなおアフガニ
スタンは東西の狭間で揺れ続けています。
そのアフガニスタンに深く関わった日本人として、1983年に「ペシャワールの会」
を結成した中村哲医師が有名です。
田中師範がアフガンで戦っていた当時、バックパッカーを除けば、現地にいる日本人は
彼と同郷の中村医師だけだったと言います。
彼自身、現地で治療を受けたこともあり、親しく交わった2人でしたが、やがて疎遠に
なったということです。
きっかけは、30年前、同じ飛行機に乗り合わせたときのことです。
当時は、アフガニスタンの難民が世界的な問題になっていました。中村医師の貢献の大
きさを知るからこそ、つい厳しい言葉が飛び出したのです。
ビジネスクラスに乗る中村医師に「『お前も偉くなったもんだな』と怒鳴って叱りつけ
て以来、二度と彼と会わなくなりました」ということです。
アフガン復興に携わるNPO代表のビジネスクラス搭乗は、60代、70代になってな
らさておき、いささかバツが悪いエピソードというわけです。
ペシャワール会に寄せられる寄付は、確かに彼のものではありません。アフガニスタン
のための寄付だからです。
その中村医師は2019年12月に、アフガニスタン東部ジャララバードで、何者かに
襲撃されて73年の生涯を閉じました。
田中師範は「IS、タリバン、部族争い、水の利権争い等々、諸説ありますが、何れに
も可能性はあり得ます」と語っていますが、水利権など複雑な多民族の入り交じったアフ
ガニスタン特有の事情があってのことです。
アフガニスタンの日々を振り返って
生きて帰るつもりのなかった平和な日本にもどって、彼はアフガニスタンでの日々を振
り返って、複雑な心境と思いを吐露しています。
「彼(中村)やペシャワールの会の人たちには、1988年にタンギの谷で地雷を踏み死
亡し、たった独り彼地に埋められている報道カメラマン、南條直子さんの墓に一度でも線
香をあげてほしかったと思います」「平和なときに平和な事業を行うことは難しいことで
はない。大きな犠牲の上に平和が成り立っているのを忘れないでほしいのです」
アフガニスタンを離れたとはいえ、同国との関係が終わるわけではありません。
事実、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに、アフガニスタン選手を参加
させたいと、同国オリンピック委員会の前委員長と現委員長を招待しています。
関係者の好意により、大変友好的な滞在になったということですが、2人が会いたいと
望んだ中村医師の家族との面会は「ペシャワール会」関係者の理解を得られず、叶いませ
んでした。
以下省略しますが、田中師範の「国税食いのボランティア屋さんにはなって欲しくはな
い」との思いは、彼らには通じなかったようです。
「喧嘩屋」最後のご奉公
いつの時代も、国を思う真の国士は、命を捨てる覚悟の下、常に戦うことになります。
厳しい言葉は、その証でもあります。
さすがの「アフガンのサムライ」も、2018年夏、ガンが全身に転移して大変な状態
にあると、漏れ伝わってきました。そんな彼の命を救ったのが、亀井院長が送った自然薬
でした。
もちろん、日本の病院での治療と並行してのものですが、その驚異的な快復ぶりに「担
当医師が驚いている」ということでした。
後日、すっかり元気になった田中師範は、梨本宮記念財団が主宰する靖国参拝の日に姿
を見せて、関係者を安心させていました。
しかも、同年12月には、武術指導と治療のため、ハワイに滞在。体調もすっかり良く
なって、現在に至っています。
そんなハワイとの縁から、2020年には、米ハワイ州の先住民らによる「ランド・オ
ブ・アロハ」の国際平和安全保障特別顧問に就任しています。
「ランド・オブ・アロハ」は1993年、当時の米国政府から、一部返還された土地にで
きたハワイ独立主権国(バンピー・カナヘレ元首)の別名です。
特別顧問就任の仕事は「現地の人の身の安全と、子供たちの道徳教育担当。喧嘩屋の、
最後のご奉公です」と、雑誌「宗教問題」(2020年夏季号)で語っています。
不思議な縁の賜物です。
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