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相模原 常福寺ライブ 「死を想え・メメントモリ!」講演会に行ってきた


 相模原 常福寺ライブ

 「死を想え・メメントモリ!」講演会に行ってきた




 コロナ下、開催されずにきた「常福寺ライブ」が、今年は2022年4月2日に開催さ

れました。下北沢「レディジェーン」の店主・大木雄高氏(株式会社ビグトリー代表取締

役)がプロデュースしてきたイベントです。

 レディジェーンはジャズとお酒を売り物にした店で、かつて俳優の松田優作や原田義雄

などに愛されたことで知られる伝説の店です。

 当日、新潟から駆けつけた「ビーガン&ベジタリアン」の英知GEN米(えいちげんま

い)氏から、報告レポートが届いたので転載します。



           *               *



 第1部「講演会」メンバー

 2022年2月、久しぶりに東京・下北沢の「レディジェーン」に行ってきた。その際

に店主の大木雄高氏から、彼が長年プロデュースしてきたイベントのチラシを渡された。

 相模原の臨済宗常福寺(原和彦住職)でのライブ&講演会「死を想え・メメントモリ」

である。

 長年の大木氏の取り組みに敬意を表するため、新宿から電車とバスを乗り継いで「常福

寺ライブ」に出かけてきた。

 同ライブは舞台がお寺であり「死」がテーマでもあることから、高齢者の参加が多い。

 1部の講演会は13時から昆虫科学教育館長・久留飛克明氏。2時からは看護師の宮子

あずささん。3時から元毎日新聞出身のジャーナリスト・仁科邦男氏という構成である。

 住職のあいさつの後、始まった講演のトップバッターの久留飛氏は1951年生、大阪

府保健所で環境衛生を担当し、2001年から17年にかけて大阪府箕面公園昆虫館館長

を務め、時々NHKラジオの子ども科学電話相談に出ているという。

 普段の講演に使っているという昆虫の模型を取り出して、楽しい雰囲気を演出。子ども

になった気分も味わえる。

 昔と比べて、昆虫に接する機会はどんどん減っているが、家の中には1部屋に20万匹

の虫がいる。自然や虫の世界は多様性が特徴で、きれい好きも度が過ぎると、逆にアトピ

ーなどアレルギーの原因となる。要は、自然界のことを、人間の好き嫌いで操作しても、

うまくは行かないということだ。

 コロナ対策など、中国のゼロ・コロナ政策ではないが、日本の科学者・医療界も、一生

懸命操作しようと無駄な努力をしている。その無駄が、実はビジネスを生み、医者の仕事

が増えていると、そんなことを考えさせられた。


 いい人と悪い人を変える死

 宮子あずささんは1963年生。評論家・吉武輝子の娘で、1987年から看護師とし

て、東京厚生年金病院(現JCHO東京新宿メディカルセンター)に22年間勤務。著書

多数。話が上手で聞きやすい。博士論文がボーボワールの著書を用いた実存主義について

と言っていた。

 実際の体験談のため、高齢者には身につまされる話でもある。

 最近、よく話題になる孤独死について、特定の価値観を押しつけないでと言っていた。

というのも、訪問介護に従事していたころ一人暮らしの老人がいて、毎日確認のため訪ね

ていくのだが、いつも無反応で鍵をかけたまま出てこない。毎日のように「○○さーん」

と訪ねていくと、あるとき「うるさいんだよ。どうせお前たちはオレが生きているか、死

んでいるか、毎日確認に来るだけだろ」と言われて、勝手に自分たちの価値観を押しつけ

ていたのではないかと考えさせられたという。

 30代のころ、ある肺がん患者が毎日脚をマッサージしろとナースコールをしてくる。

たぶん真面目に生きてきて、病院での入院生活が長く続いて、嫌な人になってしまった。

最後には家族からも見放されて、亡くなっていった。

 一方、いい加減な白血病患者の人は、最後に家族旅行に行きたいと言って、担当医が止

めるを振り切る形で、旅行に行って、結局、救急病棟に帰ってきて、その日のうちに亡く

なった。

 2人の愛人がいて、入院中、うまい具合に時間をずらして、代わり番こにやってくると

いうような人物だったので「家族旅行って言っているけど、どうせ愛人と一緒よ」と噂し

ていたら、本当に家族と一緒だったとわかって、いい加減な人だった彼が、最後に意外と

いいことやるという展開になった。

 奥さんは遺体にすがって泣いて、子どもたちからも「お父さんありがとう」と言われて

死んでいったという。

 なるほど、世の中の真実とはそんなものである。


 団塊世代の代表的ジャーナリスト

 ジャーナリスト・仁科邦男氏は1948年生。引退後、犬などの話をいろいろ本にして

きて、代表作が『犬たちの明治維新』、『生類憐れみの令の真実』(いずれも草思社)な

ど。講演内容も生類憐れみの令に関するもので、要は文献史料を元に、世間での綱吉のイ

メージを覆したと話していた。

 綱吉は生まれ育ちもあり、もともと潔癖症で汚れを嫌ったことに加えて、僧・隆光に頼

り、世継ぎを得るための験担ぎを行った。その熱心さのあまり、庶民の生活が犠牲になっ

た。その典型が生類憐れみの令というわけである。

 ベジタリアンの私としては、天武天皇の「肉食禁止令」のほうが重要だが、なぜか『生

類憐れみの令の真実』には、天武天皇の「肉食禁止令」の話は出てこない。

 教育上の観点から考えれば、綱吉が名君であるほうが望ましいのではないのかというの

が、正直な感想だ。

 明らかに行き過ぎた面はあっても、今日のSDGsや動物愛護その他、ついでに殺生、

戦争禁止もある。その綱吉をいまさら名君ではなかったと証明したところで、学問上の実

績にはなっても、一般には「だからどうなの?」ということでしかない。

 正しい歴史、正義などいろんな見方があるだけに、個別の問題に注力すると、あまりい

いことはない。

 団塊の世代のジャーナリストの多くは、左翼的発想の時代を生きた、進歩的文化人の代

表でもある。唯物史観並びに個人主義が基本で、その結果、死後については「周りの迷惑

にならないように、骨を砕いて、どこかに散骨して欲しい」と語ることになる。


 就活ブームに思うこと

 仁科氏の最後の話は、原和彦住職の法話の内容を、最後の最後で見事に否定していた。

「常福寺ライブ」のパンフレットには「修行は“日常底にあり”と言う。僧堂の内外にあ

る人分け隔てなく、生は“生死”、死も“生死”の理わり分ち難く、自性を失わず、日々

日常を実践して行く。その後の身は、桜に委ねよ!」と書いてある。

 常福寺ライブは「死を想え、メメントモリ」がテーマでもあり、イベントを死を考える

きっかけにしようと、様々な試みを続けてきたものである。

 原住職が冒頭のあいさつで話したことは、最近は自分の死後のことを事前に準備してお

く、いわゆる終活がブームになっている。そんな風潮に対して、仏教の立場から住職は死

は本来、自分で決められないことである。

 そのため、自分の死後のことは「後の者に任せろ。精一杯、今を生きることが大事で、

その結果の死が満足できるものであれば、それでいい」と話していた。

 最近は「葬式無用」とか、海に「散骨」してとか、死後のことにまでこだわる文化人が

多いことに呆れていたので、住職の話に「その通りだ」と思っていたら、最後の最後に住

職の話を無視していた。さすが唯物史観世代である。

 まあ、住職もその後「ここで聞いたことは鵜呑みにしないで、家に持ちかえって、改め

て考える材料に」と言っていた。そして、自分で考えることが大事。この世には善も悪も

ない。みなさん、お行儀のいい生き方が世間一般の傾向とされているが、もっとわがまま

に生きていいのではないかというわけである。



 質問「幸せって何ですか?」

 興味深かったのは、参加者からの質問である。

 住職並びに講演者4人の考える「幸せとは何か」を尋ねていた。

 その質問に、それぞれの立場から当たり障りのない答えをしていた。

「ありがとうございました」と質問者は、大いに感謝しているようであったが、本当に納

得したのだろうか?

 人それぞれ、どんな幸せを思い描くかによって、答えがちがってくるのは、4人の答え

がそれぞれちがうことからもよくわかる。

 小さな幸せもあれば、大きな幸せもある。そこに欲が絡んでくることによって、ある人

の幸せは、別の人にはささやかで、とても幸せとはほど遠いものに見えたりして、答えは

ついつい回りくどくなって、結局よくわからなくなる。

 古今東西「幸福論」なる本が何冊も書かれてきたことを思えば、答えは人それぞれ、あ

ってないようなものである。

 参考までに、その質問に対する答えは、いまは亡き「生命エネルギー研究所」の杉原俊

雄氏が『現代の論語』(早河策毘頼著/三和書籍)の中に説かれている。

「幸せになるには、どうしたらいいのか?」に対する答えだが、幸せとは何か?について

「周りのために何かをする。あるいは、他人を幸せにすること」だという。

「自分だけ幸せになろうとしても、幸せは手に入りそうで入ってこない。それは例えてい

えば、お金持ちがお金を貯めれば貯めるほど、今度は盗まれないように鍵をかけ、セキュ

リティを完全にしないとオチオチ眠れなくなるのと似たようなものである。自分だけの幸

せには、そんな滑稽な哀しみがついて回る」

 なぜ、人のために何かをすることが幸せに通じるのかは、実際にやってみればわかるこ

とだ。といっても、本当は日常生活の中で、誰でも少しはしていることである。ただ、そ

れに気がつかない。

 周りのために何かをする。他人を幸せにすると、どうなるのか。「ありがとう」という

言葉が返ってくる。それは、逆に自分が何かをしてもらったら「ありがとう」というのと

同じである。何気なく使っている「ありがとう」だが、実はお礼を言われるほど、また言

いたくなるほど、価値のある行為だということである。

 それがただの上辺の言葉にしか聞こえないのは、その先にみんなが求めている幸せが、

ほとんどの人に見えていないからである。とはいえ、そこにしか幸せがないことは「あり

がとう」という言葉の意味をよく噛みしめればわかるはずである。

 自分一人だけ、あるいは家族だけ、あるいは自分たちだけが幸せになっても、誰も「あ

りがとう」とは言ってくれない。納税者番付にも登場する、あるお金持ちが「金持ちだと

わかった途端、石が飛んでくる。そんな時代が来ますよ」と言っていたことがあった。

 それは他人の不幸を見ると「ざまあみろ」と言いたくなるような人には、とてもわから

ないことかもしれないが、幸せを手に入れる鍵はいつも、目の前にあるということなので

ある。


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