真ん中に命中すればいいわけではない、不思議なゲーム
ラブストーリーも人生も「ダーツ」である? 作家・波止蜂弥(はやみはちや)

二君に仕えず、二夫を並べず
「ダーツと関係ないと思うけど、君の彼女との関係はどうなったの?」と、再び知人に尋ねられた。別れたつもりが、再会して「運命なのね」と彼女が呟いた2人の件である。
ダーツ同様、ゴルフやマージャンが仕事や人生上の知恵として役立つこともある。無駄としか思えない寄り道が、意外な人生行路を切り開いていく。
人生、何が無駄で、何が無駄ではなかったかは、大げさなことのようだが、たぶん死を迎えるまではわからない。
東京とはいえ、都下の旧家に入った彼女は、自らの意思で家の犠牲になったとはいえ、実質“人身御供”の我が身を嘆いて、ついに泣きながら電話をかけてきた。
永遠の別れは、運命の出会いの後、呆気なく元の恋人同士の関係にもどってしまった。
とはいえ、逢い引きを続けていても、彼女は夜には婚家に帰っていく。
そこでの生活が辛いからか、彼女は「10年待って、10年経ったら、両親への義理も果たせるから。そのとき、あなたの元に帰って来るわ」と、どこかで聞いたようなことを涙ながらに語っていた。
その言葉は彼女の真意だとは思うが、結局のところ「史記」にある「二君に仕えず、二夫を並べず」である。関係が深まれば、それは、世に言う「不倫」である。
人目を気にすることはなくとも、やがて心苦しいものとなる。
事実、砂を噛むような味気なさから、ついにすべての関係を断った。それこそ、お互いが決めた永遠の別れであった。
「日本のダーツ、始まりはラブストーリー」のブラッキン氏と森瑶子さんとの関係から、
ついでに書いただけのことだが、なぜか書くつもりなどなくても、ものごとはそのように進行していく。
作家・森瑶子さんもまた、ブラッキン氏との結婚生活とは別に、昔の婚約者との関係を生涯続けたと言われている。彼女の本の装丁は、いつも彼が手がけていた。
ダーツ草創期における団体分裂の余波ではないが、ラブストーリーとともに始まった日本のダーツ業界も、ブラッキン・森家が荒れた展開になるのも、不思議な人生の巡り合わせである。

3つのハードダーツ団体
日本のダーツ草創期、日本ダーツ協会と日本ダーツ連盟の2つの団体があって、さらに小山統太郎氏が設立したJPDO(ジャパン・プロ・ダーツ・オーガニゼーション)が発足するなど、当時の動きをブラッキン氏がクーデターと称したことは、すでに紹介した通りである。
もともと、手本にすべき英国のダーツ業界自体、ブラッキン氏とフィッツジェラルド氏との共著『英国流ダーツの本』を開けば、リーグ戦に関して「英国にはBDO(ブリティッシュ・ダーツ・オーガニゼーション)とNDAGB(ナショナル・ダーツ・アソシエーション・オブ・グレートブリテン)の二大ダーツ組織があり、それぞれに大きなトーナメントを後援している」とあるように、本家本元からして、分裂しているわけである。
日本のダーツ団体を整理すると“クーデター”後のハードダーツ団体は3つに分かれている。
一つは1975年に発足、1989年に社団法人化した「日本ダーツ協会」である。日本のダーツ団体で唯一、文部科学省の認可を受けている。日本のダーツプロ資格の認定団体でもある。
もう一つは、1997年に設立された日本におけるWDF(世界ダーツ連盟)の加盟団体「JSFD」(ジャパン・スポーツ・フェデレーション・オブ・ダーツ)である。2008年に一般社団法人化している。もともとは、日本ダーツ協会が1977年に世界ダーツ連盟に加盟していたが、1997年にJSFDが引き継いでいる。
そして三つ目が1986年に、全国のダーツ支部(DO)をまとめる団体として発足したJDO(ジャパン・ダーツ・オーガニゼーション)である。
その図式は、プロボクシングの世界がWBA、WBC、IBF、WBOの4団体に分かれているのと似たようなものなのか。何かが盛んになって、組織ができてくれば、主導権争いが起こるのは、世の常である。

賞金総額5000万円のダーツ大会
ダーツ草創期、特筆すべきことの一つは、1988年6月24日~26日に、日本ダーツ協会が主催した「ワールド・ダーツ・グランプリ1988」(シェラトンホテル)であろう。世界のトッププロ、ベストプレーヤーがこぞって来日した。
驚くべきは、その賞金総額が5000万円だったことである。後援は世界ダーツ連盟、ニッポン放送、フジテレビ。そして、スポンサーがそごうグループ、共同石油という豪華メンバーである。
多くの日本人プロも参加したが、優勝したのは決勝戦でロシアのラッセル・スチュワート選手を破ったイギリスのエリック・ブリストゥ選手である。優勝賞金2000万円を手にして、大いに盛り上がった大会として、いまに語り継がれている。
テレビがダーツの特集を行ったのも、そんな流れからだった。それは日本のダーツが、世界と肩を並べる存在になる、そんな予感を感じさせるものであった。
そして、特筆すべきもう一つが、日本のダーツの歴史からほとんど抜け落ちている、小山統太郎氏が1984年に立ち上げたJPDOの存在である。
「ダーツに人生を賭けた」彼は、自宅を担保にして組織運営の金をつくり、プロのダーツプレイヤーを育成するための賞金を確保した。
最後は自宅マンションを手放し、手持ちの資金が尽きるころ、何人かのダーツ仲間から資金提供を受けながら奮闘していた。しかし、ダーツに賭けた彼の人生は、実生活では彼一人のものではない。彼の妻・小山陽子さんはダーツの女子プロ選手として、1987年に日本人として初めて世界ランキング1位に輝いたダーツ史に残る最強のプロである。
JPDOの選手会副会長であった元日本代表の小熊恒久氏は「陽子さんは本当に強かった」とコメントしている。
その意味では、夫婦揃ってダーツに人生を賭けたわけだが、最終的に離婚するのも、夢を追いかけて、結果的に実生活を犠牲にした夫についていけなかったためだろう。
そんな、当時の小山氏の取り組みを振り返って、小熊氏は「マスコミがついてこなかった。それが誤算だったんじゃないかな」と残念がる。
それでも、ダーツをオリンピック競技に相応しいスポーツ、ゲームにするために小山氏
が日本に賞金の出るプロリーグをつくり、プロには賞金、アマチュアには賞品の出るトーナメントを開催したからこそ、結果的に日本での「ワールド・ダーツ・グランプリ1988年」開催につながるわけである。

グランプリでの「ナインダーツ」
意外なことに、イギリスのエリック・ブリストゥ選手が優勝した「グランプリ」について、賞金総額5000万円という画期的なイベントにもかかわらず、数々の世界大会に出場してきた小熊氏は「忘れたというか、ほとんど記憶がない」という。
そして、小熊氏の記憶にないのは、単純に37年前のことだからではなく、もしかしたら「日本ダーツ協会の主催する大会には、青柳さんと一緒に出場できなかった期間があったためかもしれない」と呟いていた。
いわゆるクーデターの首謀者の一員とみなされていたためだが、不愉快な出来事は、往々にして記憶から抜け落ちていくものである。
そんな中で、わずかにジョン・ロウ選手(イギリス)がダーツプロの間で話題を呼んだことだけは覚えているようであった。
というのも、優勝を逃したジョン・ロウ選手だったが、彼はテレビで放映された大会で「ナインダーツ」を達成。当時、世界で初の快挙と話題になっていたためである。
ナインダーツとは、ゼロワンの「501」のゲームで、最短の3R(ラウンド)9投でフィニッシュすることで、ダーツの「完全試合」と言われている。
ダーツを知らない向きに解説するならば「ゼロワン」とは301、501、701、901、1101などの種類があるゲームで、それぞれの数字が最初の持ち点で、それを先に0(ゼロ)にした者が勝利する。
ダーツボードの点数は、中心(ブル)に入れば50点だが、真ん中に当てていれば単純に勝利するわけではない。ダーツボードの「ダブル」リングに入れば2倍、「トリプル」リングに入れば、3倍になる。つまり、20点のエリアのトリプルの場合、20点×3=60点になるため、真ん中のブルよりも高い得点になる。
ブル(50点)に9回入れても450点である。まだ51点足りない。ナインダーツはダブル、トリプルにいれて初めて9投でフィニッシュする。
野球の「完全試合」になぞらえるのも、そのためである。
同時に、そのルールは、ダーツという競技が、誰もが最初に思う「真ん中」に当てることが、すべてだとの思い込みを解く興味深い事実を証明するものであろう。
ダーツボードは1から20までの扇状の面と、ダブル・トリプルと称する細い枠(リング)、中心のブル(インブル・アウターブル)まで、実に62通りの得点になる。
そして、通常のゲームとは異なり、中心(ブル=50点)に入れば、勝利するわけではなく、減算方式を取っていることもあって、とっさの計算力・暗算能力が必要とされる。
しかも、ゼロワンでは残りの点数をオーバーすると、スタート時にもどってしまう。
単純なゲームではないあたりに、ダーツの面白さがあるのかもしれない。

テレビ放映されていたダーツの試合
単純ではないダーツのルールは、テレビ放映のカメラマン泣かせのようで、池袋「モモンガ」の二木和美氏は、実戦で次にどこに矢が飛んで行くか、ダーツボードを時計に見立てて「1時方向」「次は4時」などと、指示を出していたという。
ルールを知らず、次はどこを狙うのか、先を読めないと、選手の投げるダーツのスピードについて行けないためである。真ん中のブルなら対応できるが、ダーツボードの縁やダブルリングを狙った場合、刺さってから、ようやくアップになる。ピント外れで間の抜けた対応になるため、二木氏などダーツ関係者が協力して、テレビ放映が実現していた。
特に、青柳さんは選手の癖をつかむのが得意で、彼らが次にどこを狙うかがわかるようで、投げる前にダブルの16か18かを読んで「8時」とか「2時」という指示を出すと、カメラがその場所をアップにする。と、そこに矢がストンと突き刺さる。
テレビ放映時の、知られざるエピソードである。
日本ダーツ協会のホームページには、ダーツ競技について「21世紀のスポーツとして注目されている」と書かれている。文部科学省の認定団体になったのも、そのためだが、当時のダーツがテレビ放映されていたことを思うと、隔世の感もある。
現代はYouTubeの時代だが、地上波テレビでは日本テレビの「24時間テレビ」での「日本列島ダーツの旅」シリーズがあるように、当時とは異なる盛り上がりがあるということか。
単純なゲームではないダーツだが、もう一つ、ユニークなのはゴルフなどとちがって、老若男女、障害者を含めてハンデがなく、同じステージに立つことである。
生涯スポーツ、教育スポーツとして「スポーツダーツ」が盛んな理由である。
その反面、かつてオリンピック競技に採用されることを目指していた時代があったことを思うと、日本のプロを世界に通用するレベルに育てたいとの小山氏の理想と奮闘が、その後の日本のダーツ界に、どこまで生かされたのかという疑問が残る。
そんな思いに捕らわれるのも、ゴルフもマージャンも、ある意味「人生の縮図だ」と、よく言われるからである。
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