知床ウトロで『悼む人』(天童荒太著)の持つ意味を考える  「無名ジャーナリストの仕事」7


 知床ウトロで『悼む人』(天童荒太著)の持つ意味を考える 

 「無名ジャーナリストの仕事」7




 知床斜里町役場の献花台

 先日「ふるさと納税寄付金受領証明書在中」と書かれた封書が届いた。差出人を見ると

熊本市にある「株式会社さとふる サポートセンター」となっている。

「記憶にないな」と、不審に思いながら、開封すると「斜里町へのふるさと納税寄付に対

する御礼」とある。で、以下「拝啓」とあり、寄付金に対する謝礼の言葉と一緒に「寄付

金受領証明書」が、斜里町長・馬場隆名義で添えられている。

 他に「ワンストップ特例」の申請用紙が同封されている。

 確かに、6月9日、知床斜里町役場を訪れた。とはいえ、斜里町のふるさと納税を利用

したつもりはない。

 行政のやる仕事は、手続き上面倒臭いものだが、要は北海道・知床半島沖で沈没事故を

起こした観光船「KAZU I(カズワン)」の犠牲者を悼むため、知床ウトロ港を訪ね

た帰り、斜里町役場に設けられた献花台に花代として、2600円を置いていった。寄付

金扱いとなる、その領収書代わりである。

 あまりにも痛ましい惨事だが、3・11東日本大震災、福島原発事故に比べれば、事故

の内容も大きさも背景も異なる。

 2つの事故を比べること自体、ナンセンスであるが、問題はいかに慰霊鎮魂を行い、尊

い命を失った人たちへの供養を尽くすことができるかである。



 先祖供養の先にあるもの

 世の中は、どんどん死にまつわる葬儀や法要などの行事が廃れて、多くの宗教施設は歴

史と伝統を物語る観光資源とされ、あるいは近年のスピリチュアルな世界がブームになる

中で、貴重なパワースポットとして脚光を浴びることはあっても、世間では神棚も仏壇も

ない家庭が増え続けている。

「ウエルネス@タイムス」の重要なメッセージの一つは「先祖供養は未来への投資」とい

うもの。もう一つは「過去はただ悼むだけでいい」というメッセージである。先祖に限ら

ず、人を悼むことの重要性を伝えてきたつもりである。

 というのも、先祖供養の先にあるものを想定しているためである。

「ウエルネス@タイムス」の前号(第10号)の「相模原・常福寺ライブ(死を想え・メ

メントモリ!)」で書かれているように、講演会の冒頭、進行役である住職が語った死の

話を、最後の最後に団塊の世代のジャーナリストが見事に否定していた。

 住職は仏教上の考え方とあえて言うほどのことではないが、人間、嫌でも死は訪れる。

医療の力を借りても、死は避けられない。自分でどうこうできるものではないのが、死と

いうものである。その死に対して、生前、どう足掻くかはその人の勝手だが、自分で操作

できない死後のことは、残されたものに任せろというのが、住職の主張であった。

 ところが、団塊の世代をはじめとした、いわゆる進歩的文化人の多くは、戦後、西洋的

個人主義を身につけ、自分にこだわるため、抹香臭い宗教行事は進歩的ではないとして、

否定する傾向にある。

 2021年1月に亡くなった半藤一利氏もそんな一人で、生前「私が死んだときも大げ

さなことは一切しないでください」と言っていた。その1年半後、コロナ下でもあり、遅

くなったが、生前の半藤氏の言葉を無視して、メディア関係者らが東京で「思い出を語り

合う会」を開催した。

 自分の死後のことは、自分で決められない典型的な例である。

 そこには葬儀が誰のためにあるのかを、進歩的な文化人である当の死者たちが、さほど

考えていないという現実があり、死者の言葉を無視する側には、その言葉に背いても、な

お「思い出を語り合う会」あるいは「お別れの会」を開きたいという悼む気持ちを、漠然

と共有している現実がある。

 つまり、先祖供養の先にあるものとは、自分の係累だけではなく、彼らが生きてきた生

活の営みの場としての土地、さらには地球への感謝と労りが、無意識のうちに含まれてい

る。

 その先祖供養への情熱が現実的に廃れて、人間社会のみならず地球環境までが悲鳴を上

げているのが21世紀の今日である。



 小説『悼む人』の持つ意味

 2008年に出版された天童荒太の直木賞受賞作『悼む人』(文芸春秋社)は、主人公

・静人が事件や事故などで亡くなった人がいる場所を、新聞やニュースで確認して、その

現場を訪れ死者たちを悼んで歩くというストーリーだ。周囲からはなかなか理解されない

彼の生き方を通して、読者に「人の命に軽重はあるのか」との問いを投げかける話題作で

ある。

 当時、普段は控えめな作家が「この作品は一つの到達点」と語っていたのが、印象的で

あった。

「人の死に軽重をつけることは、ひいては今を生きる人の命に軽重をつけることになると

思うんです。ならば、誰の死も差別、区別せず、ただ悼むという人がいたらどうだろうか

と。そこに希望のようなものを感じたんです」

 完成までに、7年を要したという作品は、多くの不思議な力で完成に至ったようだが、

その主人公は他人のために祈る生き方を徹底させた人物である。小説という形で、このよ

うなテーマと作品ができあがるのは不思議にも思うが「他人のために祈る」というのは、

「ウエルネス@タイムス」の日頃のメッセージであり、一般的な幸せの条件でもある。

 第一、古来、天皇家、あるいは神道の多くの神社で連綿と行われていることである。




 犬も歩けば棒に当たる

 戦場をはじめ危険地帯での取材は、通常、無名ジャーナリストの仕事である。彼らはペ

ンを持ち、カメラを手にすると、命の危険を忘れて対象に向き合うという習性を持ってい

る。

 命の危険はなくとも、有名ジャーナリストが手がけない、すぐに日の目を見るとは限ら

ない取材も、多くの無名ジャーナリストの仕事である。

 ことわざ「犬も歩けば棒に当たる」は、本来、犬も出歩くから棒で打たれる。お節介な

ことをするから、災いにあうとの例えだとされる。それが、現在では反対に意外な幸福に

出合うことに用いられるという。

 犬は歩けば棒に当たるが、そこそこ仕事のできるジャーナリストの場合は、歩けばネタ

にぶつかり、事件が起きることになる。

 九州・熊本の幤立神宮では、知りたくもない事実に遭遇することになる。



 幤立神宮・分水嶺の水が枯れる

 5月、日本熊森協会・福岡支部に行った際、幣立神宮を訪れる機会があった。

 正式参拝の後、旧知の人物の案内ということもあってか、春木伸哉前宮司は日本の保守

(右翼)の立場を代表する形で、戦後、アメリカによって日本社会が分断され、侵略思想

を植えつけられ、自虐史観が戦後教育の方針になったこと。その背景には、命を恐れぬ日

本人に対する連合国側の強烈な恐れがあり、その団結力・精神文化を無力化することを戦

後の方針にした。

 戦後の左翼的な教育を受けた世代には、極端な右翼の主張として無視されそうな論調だ

が、嘘ではない。そうした戦後秘話を天皇周辺から聞く立場にあったせいもある。

 いまも2月に1回ほど旧皇族・伏見宮と会って、酒を飲むと話していた。つい先日も伊

豆の三島でゴルフをしてきたという。

 高天原神話発祥の神社として、我が国最古と言われる幤立神宮は、伊勢神宮の隠れ宮と

されるなど、神社界の主流ではなくとも、不思議なパワースポットして、近年、脚光を浴

びてきた。

「神殿に落ちる雨が東と西に分水し、東西の御手洗池の湧水となり、其々が大海に注ぐ分

水嶺である」と、幣立神宮の由来には書いてある。

 かつては、参拝客が水を汲みに来たという、肝心の涌水が枯れている。そのため、脇に

ある八大龍王の鎮まる池にはオタマジャクシがたくさんいたが、水は淀んでいる。

 空を見上げれば、微かな光彩が現れていたのだから、歓迎されている証だろうが「地球

に未来はない」と、前宮司が語っていた、その一つの現れのようでもある。

 だが、およそ神域で起こる事象に偶然はない。参拝客の便宜を図ってということのよう

だが、神社の下ではなく、上のほうに駐車場をつくってから、水脈が断たれたということ

である。

 幤立神宮にかかわらず、神に関することは、実にわかりやすい。やった通りの答えが返

ってくる。




 伝説の超能力カフェ長崎「アンデルセン」

 幤立神宮に行った翌日、30年近く超能力を売り物にしてきた伝説の喫茶店・長崎「ア

ンデルセン」に行ってきた。

 ハウステンボスに近い川棚駅前にある。「4次元パーラー」と言われている。

 コロナ下、席数も制限され、時間も短縮されたりしているというが、相変わらず予約が

取りにくいことで知られる。

 1時開店。店の壁には所狭しと、来店した芸能人、有名人の写真が貼られている。その

雑然とした様は昭和の雰囲気満載である。

 しかし、どんなに人気になっても、テレビ等の取材は一切受け付けない。確かに、TV

に出ていいことなど、マスターにとってはないはずである。

 入店後、番号の確認から始まり、参加料1500円を払ってから、カウンターは5〜6

人しか座れないため、後は立ち見である。ただし25人全員、マスターの手元が見られる

ように並んで、残りの人は後ろの椅子の上に立って見るようになっている。

 長年続けてきて、マスターの話術とスキル、パフォーマンスに磨きがかかっているとい

うことか。飽きさせない工夫が凝らされている。

 その昔、ユリ・ゲラーが来日して、日本でもスプーン曲げがブームになったころ、彼が

盛んに、自分に向けて「念を送って下さい」とやっていた。つまり「曲がれ!」という思

いが1つになると、スプーンは曲がりやすくなる。

「何をバカな」という人物はスプーン曲げには縁がない。彼らはユリ・ゲラーの願いとは

逆に「曲がるな!」という念を送ることになる。

 彼ら自分でやったことのない人、見たことのない人、見えない世界に縁のない人たちに

はナンセンスな状況を前にして、頑に自らの知性と科学知識を頼りに、スプーン曲げを否

定することによって、自分の常識を守ろうと一生懸命になる。

 パフォーマンスの合間には「先祖供養してますか?」と「ウエルネス@タイムス」が常

々伝えてきた同様のメッセージを、マスターが言葉にしていた。人間の先祖は地球さらに

は宇宙である。

 そして、アンデルセンでマスターが行っている様々なパフォーマンスも、特殊ではあっ

ても、要は天から伝わってきたものを素直に受け止めて、形にしているわけである。

 そのパフォーマンスはマジックの世界を超えている。

 特にビックリしたのが、生玉子と客が提供した千円札のパフォーマンスである。

 ジッパー付きの透明の入れ物に、玉子と千円札を入れて、サッと振ったところ、一瞬で

千円札が消えている。生玉子を割ると、黄身に塗れた千円札が入っている。

 開くと、内側はまだ乾いたままの状態で、入って間もないとわかる。カウンターの若者

が、その生玉子を「おいしい」と言って飲み干していた。

 あるいは、マジックの定番でもある、客が選んだカードをトランプの束から引き当てる

だけでなく、一瞬にして壁の額縁の中に飛ばすなど、パフォーマンスの内容は多岐にわた

り、一々紹介していてもキリがない。

 お土産に飴細工のようになったサイン入りのスプーンとフォーク(各300円)を買っ

てきた。

 団塊の世代に生まれたマスターは70歳を越えているが、見た目は50代と若い。天と

つながれば、死も生も超越した世界が展開するということか。

 自分の目で確かめるため、あるいは話のタネに一度は見に行く価値はある。

 ただし、予約ができるかどうかが、その人物がアンデルセンの世界に縁があるかどうが

の別れ道となる。






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