若くして死ぬこと「井田英夫遺作展」へのオマージュ!? 詩人・H氏
「広島・音戸町に住んだ画家との接点など」
天に還っていった44歳
「人間五十年、下天のうち」云々と「敦盛」を謡い舞った信長の例を引くまでもないが、少子高齢化の日本で、生死、幸不幸とともに、実は始めも終わりもあいまいなものというのが、改めて思う人生の不可思議にも思えてくる。
その昔、突っ張って生きていたロッカーや詩人も、あるいは時代を切り開くように駆け抜けた英雄や革命家、テロリストなどは若くして散るのが宿命のようなものであった。
そういえば、私の活字デビューは詩人であった。
知人からの誘いで、絵などを見に行けば、絵を買う代わり、感想など語る代わりに、印象を詩にして、感謝というか、勝手なエールのつもりで持っていった。額装などすれば少しは立派な作品に思える。
「これがあなたの絵の真実です」「これがあなたのテーマの本質です」などというつもりはないが、剥き出しの言葉ではなく、詩に印象を記していた。「押し売り詩人」などと言っていたころのことである。
当たり前だが、どんなに稚拙な詩であっても、基本、わざわざ書いてくれるのだから、相手から感謝されるのが普通である。とはいえ、例外もある。
若い画家に期待して、まだ海外に行った経験がないと知って、昔の自分を顧みて、彼にはまずフランスに行くことを薦めた。行けば「なぜフランスに画家が多いのか」がわかるからだ。
次にニューヨークに行けば、フランスとは異なる刺激的な日常に接することもできる。
そこには画家に限らず、エネルギッシュなアーティストが凌ぎを削っている世界がある。
欧米を見て、近隣アジアなどを訪ねる機会があれば、なお理想的である。
日本に帰れば、当たり前だが、絵に限らず、自分の人生の糧になる。そんなお節介な思いは、若者には鬱陶しいだけかもしれない。
詩「海に還える」は人に上げたものなので、どこかに散逸したが、いま思えば、案外、井田英夫氏へのオマージュだと嘯くこともできそうである。
井田英夫氏とは、特に語りあうことはなかったが、彼は新潟に唯一あった新潟デザイン専門学校の3年生だった1997年、留学制度を使って、米ボストンの大学に2年間ほど留学している。その後も、ボストンに在住して、2001年8月に帰国している。
ボストンには、その昔、何度か訪れている。1980年のボストンでの意外な体験は、当時JCBカードが提携していた関係で、海外に行くときに、特別に2~3カ月程度通用するアメックスのカードが使えた。
いまもアメックス専用のデスクがあるところは少なくないが、当時のアメックスの威力は絶大であった。30歳過ぎても、未成年に見える日本人が、突然VIP扱いされるのだから、お金次第のアメリカ社会の格差を如実に実感した。懐かしい思い出である。
そんなことはどうでもいい話だが、画家に限らず、自分のオリジナリティ、人とは明らかにちがう何かがなければ、プロとしては通用しない。
彼はアメリカに行くことで、本能的にそのことを知ったわけである。その後もボストンを訪れて、プロの画家として通用する様々なモノを身につけて帰ってきたのである。
個展会場に置かれたベッド
井田氏が表紙と挿絵を描いた田代猫草の『猫』(新潟絵屋)という句集の中、秋の句には、こんな一句があった。
秋の虹生きて尿のあたたかし
コロナ前、2018年の個展で、ガンの病状の進行していた彼は「絵屋」の個展会場に設えられたベッドに横たわっていた。それでも、いろんなあたたかさを感じていたのは、生きていればこそである。
だが、死ねば、たぶん違う景色が見えてくる。
ふらここや天に治虫も不二雄もゐ
句集には、句会の案内が出ていて、俳句の会「みんな違って、みんなヘン」とある。
金子みすずの詩の一節「みんなちがって、みんないい」を、確かにいいと認めながら、
彼女はなお「それでいいのか」という思いから「みんなヘン」とする。事実、すべてのアートはみんないい、そしてみんなヘンである。
句集の装画は、井田氏の生来持つ優しさと相手(田代草猫)への思いがあふれているようで、見ているうちに、彼はもういないと知るとちょっと切ない気持ちになる。
うつくしき真白き寒波来たりけり
記憶では、いつも盂蘭盆の最中、8月に開かれる回顧展だが、新潟は芭蕉の句、夏前の荒れる日本海を句にした「荒海や佐渡によこたふ」の季節さえ、冬の景色と取られる。冬がもっとも新潟らしいということを証明するように、田代氏の句も素直になる。
ベッドに横たわる井田氏に、音戸町の山本造船を「一度、訪ねていって下さい」と伝えたのは、すぐに良くなって、音戸町にもどると思っていたからである。
『井田英夫画集』に寄せた美術評論家・大倉宏氏の「思い出すこと」を読めば、個展の14日間で500人もの人が来て、ほとんどの人が彼と話していたと書いてある。
筆者もその一人であったわけだが、井田氏がアトリエを構えた広島の音戸町には何度も訪ねている。
呉の「大和ミュージアム」にある戦艦大和の20分の1模型を製造した山本造船の山本一洋社長は、なぜかサザンオールスターズとの親交があり、新潟出身のベーシストなどがよく訪れていて、呉で音楽フェスに来てもらったこともあると話していた。
その社長には、毘沙門天の「毘」を筆で書いた色紙代わりの一枚と一緒に、戯れの詩を贈っている。長く生きていると人生にはいろいろぼやきたくなることがある。そんな彼を励ますために、ちょうどいいと思ってのことだ。
* *
詩「人生の収支決算」
人生プラスマイナス・ゼロ
あらゆる人生のバランスシートは
足しても引いても
収支決算はゼロ
死んでわかる帳尻の合い方が
アンナマリアの洗礼名を持つシスターが
気に入っていた色紙に書いてあった
「人生はプラスマイナス・ゼロ」と
活気ある文字が踊っていて
マイナスでもマイナスでもその人生を
強引にプラスに持っていく迫力に満ちていて
そう言われれば誰も文句は言えない
マイナスの人生にマイナスを足しても
ゼロにもならず
マイナスを掛ければプラスになる
普遍的な人生の真理を会得するために
おまえもすべての苦悩と挫折
貧困からなる逆境を掛けよ
「ひとは死なない」という一例
井田氏の44歳での死は意外であったとはいえ、それもまた未完のようでいて、人生に無駄はないことを思えば、そのまま完成なのではないか。そして、残された親や姉など親族らによって、毎年、回顧展が開催されている。
そこでは死はただの通過点でしかない。
『人は死なない』という本もある。肉体は滅びても、魂は残る。それが古来、言い伝えられ、信じられてきた人の営みだということのようである。読んでいないため、はっきりとは言えないが、身近な人の死をいくつも体験すれば、あるいは多くの先人の話を聞けば、そのようなものとわかってくる。
そこでは、死は必ずしも不幸とは限らない。お役御免と、現世でのそれまでの使命が失われることは確かだが、死して後、なお画家も絵も第二の人生を生きていくからである。
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