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詩人・H氏による 追悼詩「彼女はいまも生きている」 「新潟市美術館」 長谷川朝子「新潟美術学園」前園長の追悼コーナーを見て

8月9日
読了時間: 6分

詩人・H氏による 追悼詩「彼女はいまも生きている」

「新潟市美術館」 長谷川朝子「新潟美術学園」前園長の追悼コーナーを見て


「新潟の恋人」


異常な暑さの日本の夏は、広島・長崎技能そして盂蘭盆と追悼の似合う季節である。


2026年7月、葉書での案内が届いていた新潟市美術館「市民ギャラリー」で開催された「新潟美術学園生徒(一般・ジュニア・カルチャー)、OB作品展」に行ってきた。


5月26日に永眠した長谷川朝子前園長の「追悼コーナー」が併設されていた。


改めて、彼女の作品とその足跡をたどっていると、訃報が届いて、通夜に参列した日のことが蘇ってくる。


その日、形ばかりの別れを惜しんでいると、突然、詩のようなものが、悲しい思いの代わりに降りてきたからだ。


詩 彼女はいまも生きている


だんだん悲しくなる人との別れ 晩年の長いとは言えないつきあいは

長さが人との関わりの深さとは 別のものと教えてくれているようで

その出会いと別れを振り返る時 詩人と呼ばれて戯れに新潟の恋人と

彼女のいない席で語ったときに 彼女に伝えたかったと語る人もいた

その後も会えない日々が続いて 思い出も薄れてしまいそうなある日

風の便りに届いた最後の別れは 二人の関係が同じアーティストでも

確かにちがうとわかったようで 思い出のカケラなどを集めてみても

人それぞれの男と女の間柄なら それは自分と他人の距離でしかなく

どこまで行ってもわかったようでわからない

通夜振る舞いのないお通夜では親しい人から

その日私に足りない思い出のピースも知らない知識も

ついに聞けないまま私の中で彼女はいまも生きている


和歌 花咲きて惜しまれて散る春過ぎて 花はふたたび咲くと信じて


「人生二毛作」


たまに「新潟美術学園」を訪ねていったとき、デッサンなどに忙しい生徒たちに、あるいは新型コロナ前は行われていた忘年会などの席での筆者の紹介は「みなさん、この方は詩人でジャーナリストのHさんです」というものであった。


最初の出会いが、どのようなものであったのか、たぶん東京・銀座のギャラリーで個展を開いていた女流画家とのつきあいで、新潟美術学園ギャラリーに行ったときか、古町のギャラリーで親しく話をしてからだと思う。


2016年10月、彼女の「50年展」が開催されていた。その日、ギャラリーを訪ねると、片桐アユ子さん(現・副学園長)が「本日、100人目の入場者です」と声を上げていた。


当時の日記には「50年がすごいわけではなく、彼女の軌跡がいわゆる一流の世界のものだということ。その上で80歳を過ぎた現在、なお現役で後進の指導に当たり、自ら範を垂れるように新作を発表し続けていることが貴重なわけである。

商人(長谷川スポーツ店)の娘が絵の世界を目指して、県展の実態を目にして出品を止めたとか。以来、我が道を行く感じのまま今日ある、意外な強さがあってのことだとわかる」と書いてある。


世間の評価と本当の価値は往々にして、異なる。新潟県展という狭い世界ではなく、一時期、銀座に出て仕事をしていたという彼女が、新潟だけではなく、広い世界を知っていることから、貴重な話が通じる相手として、晩年、つきあいが始まったわけである。


当時は「人生三毛作」などと称して、筆者の活字の仕事の原点である“詩人”として、詩のようなものをプリントアウト。額に入れて挿絵やプリントシールを貼って「詩ごころの失われた時代に、再び詩心を!」と、自称「押し売り詩人」と称して活動していた。


ジャーナリストの友人が、当時あった『夕刊フジ』の連載コラム「人生二毛作」で、紹介してくれたこともある。



詩「木々の精霊Ⅱ」


昔の詩人や作家は、基本、名刺は持たないが、いまどきは名刺に「詩人・作家・ジャーナリスト」の肩書をつければ、誰でも望みどおりの存在になれる。その肩書が通用するかどうかは、世間の評価と本人の熱意でしかないが。


幸いにして、詩人として認められていたようで、長谷川朝子園長から「木々の聖霊」をテーマに詩をつくってほしいと言われたことがある。


それが2018年10月に、新潟美術学園ギャラリーで開催された「コラボ展」(草月流新潟県第四グループ「塩田秀山・秀と社中」/長谷川朝子のコラージュ)のパンフレット用につくった「木々の聖霊Ⅱ」である。


同パンフレットには、その前半部分が使用されている。


年輪は生きてきた証

どんなエネルギーを用いれば

この世に現れて

渦巻きを七色のスパイラルに

転換できるのか 

同じ道をたどっているようで

振り返れば渦巻きになり

年輪になっている



「木々の精霊Ⅰ」


長谷川前園長から頼まれて、最初に木をイメージした詩の原型をつくった。その「木々の精霊Ⅰ」が散逸して、改めてⅡをつくったため、第一印象の鮮やかなイメージが失われて、理屈っぽくなったと、当時「P.S」に記している。


同パンフレットに使用された「木々の聖霊Ⅱ」に続く詩は、以下のようなものである。


嘘をつかないそのあり方は

木に真摯に向き合えば木は

一本のボクだと言っているようで

天につながる枝を伸ばして

逆立ちすれば

真っ直ぐの幹が道となって

天下に根を伸ばした

見えない世界は

天地の相似象を示してくれる


一大なる天も二人の天も天は

二人でできている

二人のためのようであっても

それはみんなのもの

心は同じ日月の天

木の年輪は精霊たちを閉じ込めて

天に地に大いなる輪を

波紋のように広げて

いまここにある


和歌 流れゆく雲の道あるが如くに天駆けりたる回転木馬(メリーゴーランド)



埴谷雄高「死霊」


80歳を過ぎて、健康に自信をなくしたころ、東京で画家として活躍していた次女の佐藤やよい氏に園長を譲った。流行りの終活の一環というか、身辺整理を始めたころに、形見分けのつもりか、捨てるに忍びない愛蔵書のうち「埴谷雄高全集」の他、野坂昭如氏の作品など、何点かの書籍が宅配便で送られてきた。


「要らなければ適当に処分して」ということだったが、さすがアバンギャルドの長谷川園長である。高校時代から河出書房の月刊誌「文芸」を愛読していた筆者には、埴谷雄高氏の「死霊」や雑誌「近代文学」は、身近な存在でもあった。


とはいえ、私が親しんでいたのは軽井沢に縁のある福永武彦氏や堀辰雄氏、大学でフランス語を学んだ辻邦生氏などであった。そんな筆者だったが、長谷川園長から「埴谷雄高全集」が送られてきて、初めて「死霊」を最後まで読むことができた。


「死霊」は不思議な小説で、何度も中断しては再刊され、続編が出ていても、ついに未完で終わる小説である。吉本隆明氏が巻末に解説というか「『死霊』考」を書いているぐらいで、勝手に哲学小説、思想小説と思っていて「文芸」掲載当時から、何度もチャレンジしては、途中で頓挫して、ついに最後まで読むことができなかった小説である。


50年後に、改めて読めば、精神病院や政治の世界が舞台になっているとはいえ、実に面白く、ちょうどスタンダールの「赤と黒」の読後感と似たような印象を受けた。日本で言えば、角川映画で復活した横溝正史の「八つ墓村シリーズ」のような大正ロマン風の趣もある。


途中で投げ出してきた「死霊」を最後まで、しかも面白く読むことができたのも、長谷川園長のおかげである。還暦後に、少し得した気分を味わうことができた。


2026年の3月末か4月初め、ふと柾谷通り沿いの新潟美術学園を見ると、2階フロアが空いているのに気がついて、ずいぶん経ってから、日本銀行・新潟支店前の同学園ギャラリーを閉めて、そちらに教室を移転したとの葉書の案内が届いた。


その後、しばらくして、訃報の連絡があって、通夜に出たわけだが、その間の一連の流れを振り返るとき、良いにしろ悪いにしろ、一つの時代が終わったとの印象がある。


「老兵は去るのみ」(老兵は死なず、消え去るのみ)とマッカーサーは語ったとか。彼女に限らず、それが世間の営みである。されどというか、だからこそ、私の中で「彼女はいまも生きている」。

 
 
 

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