8月11日は「山の日!」
早稲田大学「山稜会」OBから届いた海外登山レポート
サラリーマンの本格的な登山
8月11日は2014年に制定された「山の日」である。「山に親しむ機会を得て、山
の恩恵に感謝する」という比較的新しい国民の休日だ。
1995年に制定され、翌年から国民の祝日となった「海の日」があるのに対して「何
で山の日がないのか?」ということから、誕生したと信じられている。
そんな山の日はお盆休みの時期に重なることもあって、貴重ではあるが、もともと休む
向きもあり、かなり微妙な休日である。
山について、少し考えてみようと思ったのは、某証券会社OBで、M&Aコンサルタン
ト企業などに勤務してきた小俣英毅氏から、2023年1月、早稲田大学「山稜会」での
活動報告を振り返ったレポートが送られてきたためである。
小俣氏からは、毎年、サラリーマンの傍ら、冬山など本格的な登山の写真の年賀状が届
く。
20年ほど前、最初に会った当時は、中東方面でのビジネスをサポートしていたが、い
わばビジネスの第一線で働きながら、英国をはじめヨーロッパ、アメリカなど、かなり本
格的な登山を続けてきたことは知らなかった。
今回、送られてきた山の回想記に目を通して、改めて早稲田大学山稜会3期生として、
創立メンバーと共に活動したことを知り、アマチュアとはいえ、本格的な社会人登山家と
して、山の雑誌で紹介されるのも、当然のことだと思う。実際に、山の雑誌に原稿を書い
たことがある。
海外での登山体験、国際登山学校
今回の回想記自体、添え書き(はじめに)にあるように、2022年12月、小俣氏の
社会人としての登山歴がかなりユニークであることに興味を持った山の雑誌から「ロンド
ン時代の珍しい登山体験と併せて、海外での登山活動について簡単な回想覚書を書いてく
れませんか?」との依頼があったことだ。頼まれて、英国の大学山岳部(インペリアルカ
レッジ)と、スイスの国際登山学校、米国山岳会について記したのが、そもそもの始まり
であった。
回想記は、その後「どうせなら早稲田山稜会で幅広く登山の基礎をたたき込まれて以降、
半世紀に及ぶ登山歴の中から主たる回想を補筆して、いわば小俣の山の遺書的な集大成に
しよう」と、まとめたものだという。
「人に歴史あり」というが、早大の山のサークル「歩こう会」から、1年後に創立される
「山稜会」のメンバーになり、山での実績を積み、卒業後も証券会社の11年に及ぶロン
ドン駐在時、ヨーロッパアルプス、スイスの国際登山学校への入学。アメリカ支社長時代
など、貴重な海外登山を体験してきた。
「山に興味がない方にはほとんど面白くないと思いますが、インペリアルカレッジでの回
想は、多少興味を引くのではないかと思います」と書いてあるが、そこには、厳しい冬山
登山、クライミングでも、日本人とは異なる欧米人の体力・パワーに驚かされると同時に
集合時間と目的地が示されるだけで、あとは各自勝手に行動するといった徹底した合理主義、個人主義に基づく自由な文化の一端が紹介されている。
思わず「仕事は大丈夫?」と心配にもなるが、普通のサラリーマン生活では体験できな
い海外での登山、しかも冬山体験等、一般的な登山家とも異なる立場・視点での体験談は
なかなかユニークである。
自分の原点としての早稲田山稜会
「早稲田大学山稜会は私の原点だ」という小俣氏(81歳)だが、それまでの登山経験は
高校時代の友人に誘われて奥多摩に行った程度であった。典型的な初心者コースで、本格
的な登山は大学に入ってからである。
大学進学に当たって、公務員である親から「私立大学に行かせる余裕はないから、国立
大学しか受験は認めない」と言われた。しかし、国立は浪人しても合格せず、結局、母親
のアドバイスもあり「学費の半分はアルバイトで自ら負担する」ことを約束して、やっと
私立大学入学を許された。
そうやって入った大学だが、親との約束は入学後出会った登山にのめり込んだ結果、反
故になり、アルバイト代は全て山につぎ込んだ。スポーツは何でも実践を積まないと上達
しない、強くならないものだが、結果、親には心配ばかりかけることになった。
「親に心配をかけ、山にお金と情熱を、時には命をかけて、さらに学業を犠牲にしてのめ
り込み続けた。そんな仲間の集団、早稲田大学山稜会は私の原点だ。ここで養われた基礎
があったから、その後の種々の応用に対応できた。今でもOB会には苦労を共にした仲間
が多数集まる」と記す回想記は、小俣氏が山稜会OBとして、少しでも後輩たちの役に立
てばとまとめたものである。
早稲田大学山稜会の創立
小俣氏の回想記のテーマは「海外での稀有な登山経験」だが、その前提として、早稲田
山稜会での体験がある。
「在学中は岩と冬山をやる早稲田山稜会に所属し、二尺四寸のキスリングを背負って、四
季を通して、実に多くの山を登りました。それによって、無雪期及び厳冬期登山での歩荷
力及び幅広い基礎力はしっかりつけさせてもらったが、正直言って厳しい冬季岩稜登山と
岩の登攀力はレベル的にせいぜい中級の下と認識していた」と書いている。
* *
入学した1年のとき(昭和38年)、初めは冬山と岩登りは怖いから、岩と冬山はやら
ないという「早稲田大学山岳歩こう会」に入った。
しかし、そこで1年活動しているうちに、例えば八ヶ岳連峰から近くに見える雪をかぶ
った美しく荘厳な北アルプスの山々を見たり、岩登りをしなくても、山を縦走していて、
時々出て来る岩稜帯を体験するうちに「岩と冬山」を、もう少ししっかりやりたいという
気持ちになってきた。
そんな一年の春休みに「山岳歩こう会」のメンバーの何人かの先輩が「岩と冬山をオー
ルラウンドに楽しむ新しい会」を設立しようとしていることを聞かされた。
彼らは、歩こう会のときに、合宿ないしは個人山行で何回か誘ってくれて、同行させて
くれた先輩たちだったので、迷わず参加する旨を伝えた。それが「早稲田大学山稜会」で
ある。
創立時のメンバーは「山岳歩こう会」の3年生(第一期生)2人と、2年生(第二期生
)の5人、1年生(第三期生)の5人の合計12人だった。
第一期生の2人は、この歳の4月に4年生になり、就職活動等が始まるので、下級生を
実際に山に連れていく余裕はない。
それよりも、まずはこの山稜会を大学当局に正式に認めてもらうために、会の監督にな
る資格を持つ早稲田大学の教授を見つけなければならない。(この当時は、とにかく山で
の遭難死が非常に多く、岩と雪山をやるクラブの監督になろうとする教授を見つけるのは
至難の事だった)。
2人は、この重要な問題を解決すべく奔走していた。
従って、実際の登山活動については、リーダー、サブリーダーを筆頭に第二期生4人に
お願いするしか手はなかった。
合宿するに当たって、即、テント等の共同装備を購入するためのお金、さらにレベルの
高い岩登りと冬山に多くの経験を持ち、技量に信頼のおける同僚を見つける事等々。
私はこの第2期生が充実していなかったら、山稜会の発展的活動の基礎は築けなかった
であろうと思っている。
(追記)創立メンバーの1期生二人は2021年に病気で亡くなっている。
* *
入社3年目のロンドン転勤
1967年、早稲田大学商学部を卒業後、小俣氏は日本の証券会社に入社した。
入社後3年目の1970年3月、ロンドンでの英語トレーニング兼駐在員事務所の補佐
ということで、ロンドンに転勤。その半年後、ロンドン事務所が多忙になり、正式に駐在
員に変更になり、約5年強勤務した。
その後、もう一度ロンドン勤務になり、合計11年強勤務した。
ロンドン赴任当初、小俣氏は一般市民が楽しめる登山クラブを紹介してもらえればと思
って、英国山岳会事務所を訪ねて行った。そこで、日本での登山経験など記述して申し込
んだところ、紹介されたのがインペリアルカレッジ山岳会。トップレベルの大学の山岳会
であった。
社会人の小俣氏が大学の山岳会というのは、不思議のようだが、英国では当たり前のこ
とのようで、実は日本人で英国山岳会を訪ねたとき、分厚い記帳ブックにサインをしろと
言われて、サインをしたところ「日本人でこのブックにサインをするのは、あなたが2人
目です」と言われたとか。最初の日本人は、何と秩父宮殿下であった。
そんなトピックスもある、小俣氏の英国インペリアルカレッジ山岳会である。
(次回は、英国でのインペリアルカレッジ山岳部での登山について)
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