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「山脇服飾美術学院」理事長が傷つけた漱石『明暗』ブランド!?  悪徳理事長・弁護士による乗っ取り問題の意外な展開!

24 時間前
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更新日:19 時間前

「山脇服飾美術学院」理事長が傷つけた漱石『明暗』ブランド!?

 悪徳理事長・弁護士による乗っ取り問題の意外な展開!


無視された内容証明

 さすが、悪徳理事長、悪徳弁護士である。

 これまでの「山脇服飾美術学院」清水カツ子理事長へのジャーナリストの取材申込みに対して、内容が「山脇服飾美術学院乗っ取りという悪事を犯した元善人たちに告ぐ!」では、都合が悪すぎるため、代理人の弁護士を立てたと思ったら、こちらもさすが悪徳弁護士である。

 改めて送った質問状にも答えることなく無視を貫いた。そのため、前回レポートしたように、内容証明郵便を送ったわけだが、その内容証明も無視された。

 回答を期待していた読者もいたので、いささか残念にも思うが、内容証明に対する返信がなかったことは、そう驚くことではない。

 とはいえ、その不誠実さは彼らの心象を言葉にすることなく表しているようでもあり、哀れを催すとともに、その背後・裏側にある彼らの悪徳の程度を浮き彫りにしているようにも思えてくる。

 そうした対応からわかることは、回答しない不誠実さのみならず、教育者の使命とともにある責任の放棄、創設者ファミリーから学院を継いだ者としての責任の放棄、その結果の世間をはじめとした学院関係者並びに学生、OB・OGへの裏切りである。

 もちろん、答えたくないというのもわからないことではない。


民事訴訟制度の見直し

 冒頭「さすが」と書いたのは、事件を起こした悪人たち及び悪徳企業・団体等が社会派ジャーナリストやメディアに悪事を暴かれて記事にされそうなときに、どうするか。もっとも有効な(?)対応法は、実は無視することだからである。

 ある程度のデータや証拠、証言を集めて記事にするに当たって、通常、メディアは相手が極悪人や悪徳業者であっても、いわゆる客観報道の観点から、一方的に勝手なことを書くことはない。

 新聞をはじめ大手メディアでは、どんなに有力な証拠を突きつけて、相手を「悪徳」と決めつけ、厳しく糾弾しても、レポートの最後に必ずといっていいほど、相手の言い分を掲載する。

 明らかに、都合が悪いための取材拒否だとわかった場合には「連絡したが返事がなかった」とか「期日までに確認できなかった」といった一文を載せる。

 万が一、内容に誤りがあった場合に、後々、名誉棄損等で訴えられたときに不利にならないようにするためである。

 だが、問題は明らかにこちら側に理がある場合でも、彼ら悪人たちは事実を否定し、平気で嘘をつく。結果、どうなるかというと、最後に相手側の言い分を聞くため、肝心のレポートの内容を「嘘だ、誤解だ」と、正面から否定するコメントが返ってきたりする。

 例えば、大手メディアが今回の「山脇問題」を取材した場合、どうなるか?

 とりあえず、レポートを読んだデスクや編集長が「どうした、山脇側のコメントが載っていないじゃないか」「理事長のコメントを取ってこい!」などと言われる。

 結果、記事にならないことはなくとも、タイミングがずれることになる。それも、訴訟沙汰になった場合には、こちら側から正当な証拠などを用意しなければならないからである。

 昨今、そんな訴訟のハードルの高さから、民事訴訟制度の見直しが問題になっている。

 2026年9月14日の法制審議会の議論を報じた「日経新聞」は、訴訟前の証拠集めに関して「企業・個人『泣き寝入り』防ぐ」との見出しをつけて、記事にしている。

 門外漢には、ピンとこない内容だが、実際に多くの訴訟で問題になるのは、原告・訴えた側が証拠等を集める必要があるため、訴えたくても、証拠不足から提訴をためらう「泣き寝入り」のケースが少なくない。

 法制審議会の議論は、そうした提訴に至るハードルがあることから、その負担を減らして、悪徳企業・団体等に対応できるように、証拠収集制度の拡充などを検討することにより、いわば「泣き寝入りを防ごう」との民事訴訟法改正の動きである。

 どのような改正になるかは不透明だが、それが極悪人、悪徳業者にとって都合が悪くなることだけは確かであろう。

創設者・山脇敏子の墓

 2026年8月、お盆明けの週末、武蔵境まで行く用事があった。同じ、西東京ということから、翌日は小平霊園に行くことにした。

 近年の筆者の座右の書『霊性の体験と認識』(竜王文庫)の著者・三浦関造のお墓参りでもと思っていたところ、小平霊園には「山脇服飾美術学院」創設者・山脇敏子の墓があると教えられた。

 明治生まれの三浦関造は現在では、ほとんど知られることはないが、1913年(大正2年)にルソーの『エミール』の翻訳をしたのをはじめ、タゴールの『生の実現』、ドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、トルストイの『人生』などの翻訳の他、多くの著作を著した当時のオピニオンリーダーの一人であった。

『霊性の体験と認識』はもともと1929年(昭和4年)に『日本より全人類へ』の書名で出版されたものを、2005年(平成17年)に再出版したものである。

 筆者にとって興味深いのは、三浦関造著となっているが、その内容は「多大な教訓と啓発を受けてきた」治療師・兼子尚積のことを書いていることだ。その兼子尚積は三浦関造以上に、今日、その素性を伝える資料が見当たらない。無名で埋もれた人物である。

 以下、別のテーマとなるため省略するが、三浦関造のお墓は24区3側12番。山脇敏子のお墓は21区の北10番。行って見れば、通路を挟んで隣同士の区画であった。

 その墓石に彫られた「山脇敏子之墓」という文字は、離婚して久しい津田青楓が書いている。長女・原あやめが父・津田青楓に頼んで書いてもらったものだという。

夏目漱石『明暗』のモデル

 山脇服飾美術学院は、山脇敏子がパリへの留学(洋裁技術習得)から帰国後、1929年(昭和4年)に銀座にオートクチュールの洋裁店「アザレ」をオープン。店の一角で始めた「山脇洋装学院」がその原点である。その年は三浦関造の『霊性の体験と認識』(原題「日本から全人類へ」)が出版された年である。

 まだ、女性が社会に出て活躍するのが珍しい時代に、フランスのパリに留学する。まさに時代の最先端を行っていたのが、先にパリに絵画留学した夫・津田青楓であり、妻・山脇敏子だったわけである。

 その彼女は、ちょうど100年前の1926年(大正15年)、夫・青楓と3人の娘を残して、パリに旅立った。旅立つ妻も、それを許す夫も、ただの明治生まれの男女ではない。夏目漱石の未完の小説『明暗』のモデルになるのも、不思議なことではあるまい。

 漱石の小説『明暗』のモデルとされた主人公・津田由雄と妻・お延(延子)との関わりなどを考えると、山脇の原点は山脇敏子のみならず、彼女をいろんな意味で感化した夫・津田青楓並びに夏目漱石だと言っても、そうは間違っていないはずだ。

 フランス帰りの津田青楓だったが、案に相違して、生活は苦しく、嘱託となった陶器試験所で素焼きや陶器などに手当たり次第、絵付をして得た金を元手に、生まれたばかりの長女あやめと妻を置いて、1911年(明治44年)6月、単身上京した。

 小石川(現・文京区目白台)の借家に入った彼は、小宮豊隆(独文学者・文芸評論家)に連れられて、初めて早稲田南町にある漱石山房を訪れた。そこは漱石の教え子や彼を慕う若手文学者などが木曜日に集まったことから名づけられた「木曜会」の会合の場でもあった。

 漱石の知遇を得た津田青楓は、なぜか漱石に目をかけられて、仕事を斡旋する手紙に感動し、狭い借家を訪れた漱石を驚かせるなど、後に上京する妻とともに、漱石一家と他の木曜会メンバーとは異なる濃密な関係になっていった。

 元「岩波書店」社長の大塚信一著『津田青楓(近代日本を生きた画家)』(作品社)のプロローグには、津田青楓の全体像について、次のように書いてある。

「つまり、洋画・日本画・書の作家で、図案家・装丁家であり、俳人・歌人・随筆家でもある。著作の数は二〇を超える。初期のフランス留学中には、雑誌『ホトトギス』に小説を発表して小宮豊隆にほめられた。青楓は実に多面的な芸術家なのである」

 京都の家では毎朝、父親が15分ほど仏壇でお経を上げるのを日課にしていたという。先祖供養とともに、そうした因習を重んじる家に生まれたためか、パリに行き、洋画家としてスタートしながら、やがて日本画、南画、書や俳句の世界へ、さらに漱石とともに良寛に心酔するなど、多面的であると同時に、どこか宗教めいた印象もある。

「文展(現在の日展)」に対抗して、美術団体「二科会」を創設した洋画家として、虐殺されたプロレタリア作家・小林多喜二(『蟹工船』作者)をモデルに描いた代表作「犠牲者」は、まるでキリスト受難の像のようにも見えてくる。


漱石に愛された津田青楓

 1887年(明治20年)6月14日、広島県竹原の医者の家に生まれた山脇敏子は、16歳で上京。進歩的な考え方を持つ父と裁縫を教えていた母の伝統を大切にする生き方を受け継いで、東京女子美術学校で日本画と洋画とを学んだ。

 裕福なお嬢さん育ちであるとともに、当時の新しい女性たちの一人として、卒業後、京都の画塾で学んだ。その画塾で津田青楓と出会って結婚する。

 一方、津田青楓は1880年(明治13年)9月13日、京都の生花流派「去風流」師匠の家の次男として生まれた。

 進学を望んだ彼だったが、親から許されず、兄同様、丁稚奉公に出された。生活の苦労を味わう中、やがて絵を習った。

 絵に限らず、向学心旺盛な彼は、あらゆる方面について、興味の赴くままに学びに行った。苦手な英語さえ夜学に通ったぐらいで、彼の多面性は「本人が望んでそうなったわけではない」とのことだが、要は教育の賜物であろう。

 18歳のとき、彼は京都市立染物学校に入学した。この学校に入ることで「織物の組織についての講義をきき、始めて学問といふものがあらゆる分野にあてはめて成り立つものであることがわかった」と、小説的自伝『老画家の一生』に書いている。

 教育の本質と役割の重要性を理解した青楓は、結婚後、京都美術学院に通っている。

 向学心旺盛で自分のやりたいことに熱中する彼は、妻とともに漱石に愛されて『明暗』のモデルとなった。その2人は、結果的に離婚したが、山脇服飾美術学院は、まるで山脇敏子が教育の重要性を理解していた津田青楓の代わりに、あるいはその思いを汲んで創設した学院のようにも思えてくる。

食い物にされた?山脇ビル

 戦後、1947年、新たに神田駿河台に設立された山脇服飾美術学院(山脇美術専門学校)は、1956年に現在の市ヶ谷に新校舎を建設・移転して、現在に至る。

 その山脇学院のイメージは、本来は原点となった「最先端」のみならず「オートクチュール銀座・アザレ」をはじめ「画家・津田青楓」「作家・夏目漱石」「明暗のモデル」といった名前やストーリーとともに、まさに服飾・美術・デザイン・アートの最先端を構成するとともに、その先陣を切っていたはずである。

 時代の洋装ブームの中、1919年(大正8年)創設の文化服装学院、1926年(大正15年)創設のドレスメーカー学院とともに、1929年(昭和4年)創設の山脇服飾美術学院は、ともに日本における服飾デザインの世界を切り開いてきた。

 漱石ブランドに限らず、文化服装学院、ドレスメーカー学院と一緒に語られる中で、なお少数精鋭として、独自の存在感を誇っていた山脇のイメージは、残念ながら、今日ではすっかり色あせているように思える。

 表向きの体裁は変わらずとも、山脇学院の原点である学院の伝統・文化や夏目漱石ブランドを汚し、過去の遺産を食い潰して、現・理事長引退の総仕上げに、ついに都心の一等地に建つ山脇ビルを売却して、退職金代わりにする。恥ずべき所業は教育者の風上にも置けない。

「立つ鳥後を濁さず」とのことわざの真逆を行って、周りからあれこれ人の道、教育者の道を外れた悪事を糾弾されることになるのも、当然のことであろう。


 
 
 

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