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肉食を避けるべき理由について?  「絶対得するビーガン&ベジタリアン」7


  

肉食を避けるべき理由について? 

 「絶対得するビーガン&ベジタリアン」7




 「罪悪感がない」大豆ミート

──あらゆるメディア、例えばテレビを見ていると、料理番組以外にも情報番組、クイズ番組、旅番組、SNSでも美味しそうな料理がクローズアップされています。そのたびに「おいしい!」という言葉が飛び出してきますが、本当にビーガン&ベジタリアンの人は肉も魚も食べたいとは思わないんですか?

 ベジタリアンもいろいろな人がいますけど、食べたくはないですね。おいしそうに思えることはわかっても、肉や魚を食べたときの嫌な記憶が蘇ってくるからです。

 でも、番組をよく見ていれば、みなさん本当は食べたくないのに、無理してというか、惰性で食べていますよね。

──まさか、そんなことはないでしょ。

 そう思うのは当然ですが、肉食を避けたいというみなさんの思いは、いろんなところに見て取れますよ。

──どういうことですか?

 例えば、健康志向がブームになる中、よく大豆ミートを使った料理が登場してきます。先日もテレビの情報番組で、肉を使わないハンバーガー、代替肉を使った唐揚げなどが登場してきたときのことです。

 見た目は肉そのものですが、みなさん食べた後、ややオーバーではあっても「肉と変わらない」という感想に加えて「罪悪感がない」とコメントしていました。

 肉よりヘルシーでより健康であるとか、肉は生産面でもコストパフォーマンスの悪い食材で、しかも地球温暖化の一翼を担っているとか。肉食の害については、自然環境的にも肉体的、精神的、つまりは社会的にも決して良くはないとわかっているわけです。それが「罪悪感がない」という表現になるわけです。

──まあ、わかっちゃいるけど、止められないというのが、世間一般のあり方です。



 肉食禁止令を破った明治天皇

「罪悪感」をごまかしながら食べるぐらいなら、止めたほうがいいと思いますが、みなさんは真剣に肉食を避けるべき理由について、考えたことがありますか?

──ないですね。

 アハハハハ。肉食を避けるべき理由は、明確、明解です。

 それはズバリ、肉食が対立を生み、格差をつくり、争いに至る根本的な原因となるからですよ。

──エーッ、どういうことですか?

 福沢諭吉はその著『学問のすすめ』の冒頭「天は人の上に人をつくらずと言えり」との有名な文章を書いています。

 そこには教育の力、学問の到達すべき理想が提示されています。

 しかし、学問が単なる知識の産物となるとき、上っ面の美辞麗句を連ねることはできても、結局はボロを出すことになるのも、学問の皮肉なところです。

 幕末維新という日本の混乱期に、外国を見てきた福沢諭吉は、欧米諸国の国力に大いに刺激され『文明論之概略』『西洋事情』などを著し、欧米列強に追いつけ追い越せとばかりに、文明開化、富国強兵を国の方針にすることに奔走しました。

 その彼がしきりに薦めたのが、屈強な外国人並みの体をつくるためと称して、肉食を推奨したことです。結果、明治の時代に文明開花を象徴する食べものとしてブームになったのが、牛鍋・肉鍋でした。

 その影響力は絶大で、表向き天武天皇の肉食禁止令が罷り通っていた宮中で、肉食の禁を破って、明治天皇までが牛鍋を食べたということです。



 「肉」という漢字の示すもの

 言葉、漢字というのは、不思議というか、実に良くできています。

「肉」という漢字について、考えたことがあるでしょうか?

──どういうことですか?

『学問のすすめ』を書く一方で、肉食を薦めた福沢諭吉は、神仏など信じない合理主義者のため、著書は著書、肉食は肉食と分けて考えていたようです。そのほうが合理的だからです。

 肉という字は、門構えの下に人と人が重なってできています。要するに「人の下に人をつくる」ということから、格差を生み、分断つまりは対立、争いに至ることが、肉という字の中に見事に示されているわけです。

──エエーッ。

 福沢諭吉は、そのことを知ってか知らずか、天皇にまで肉食を薦めたわけです。

 肉という字の通り、肉食を続ければ、人の下ではなく、何とか人の上に立つようにという思考法・行動様式が自然に身につくことになります。

 その行き着く先が、今日のコロナ・パンデミックの世の中並びにロシア・ウクライナ間の戦争でも明らかなように、地球上の国家、社会、人々の格差・分断です。

 それがどのようなものかは、福沢自身が述べています。

 無人島に一人漂着したときには、倫理・道徳は問題ではないと、堂々と述べています。無人島には所有者がいないため、何をしても構わないというわけです。

 今日の土地倫理(ランド・エシック)の考え方からは、最悪な主張ですが、自分勝手な生き方を、理想とする結果になります。

──福沢諭吉は聖徳太子の後に高額紙幣1万円札の肖像に選ばれた人物ですから、いわば聖徳太子に匹敵する偉人ですよね。

 どんなに功績があったとしても、倫理・道徳に対する冒涜は、人としての最大の罪悪です。

──厳しいですね。

 人の上に立つリーダーには、それだけの責任があるということです。



 人を良くする「食」

「罪悪感」というのは、人が生きていく上で重要なキーワードです。

 逆に肉食の害を少しでも回避できるようにと、世界的な運動を展開してきたのが、日本の伝統食を、いわば理想としたマクロビオティックです。

 同様の取り組みは、自然農法、環境保護、代替医療など「食」をベースにした様々な分野で行われてきています。

「食」の重要性については、字そのものを見れば一目瞭然です。

──人を書いて、その下に良くすると書くということですか?

 そうです。「人を良くする」と書きます。人の心も体も良くするということです。

 その食を、日本に特有の「道の文化」の観点から、食事そのものを「道」として捉えていたのが、例えば株式会社酵素玄米の創業者・岩崎輝明氏です。

 2021年10月「創業50周年記念式典」を行った同社の長年の取り組みは「岩崎輝明・食事道への挑戦」との副題のついた小冊子『食事を変えよう! 日本を変えよう!』(毎日新聞北海道支社)のタイトルそのものです。

 裏表紙には「正しい食事で日本を元気に!」と書かれています。

 詳しくは次の機会に譲りますが、岩崎氏が提唱した食事道は、日本の古来からの食の基本「1.適応食、2.身土不二、3.一物全体」の3原則から成り立っています。

 適応食とは、歯の形、腸の長さなどから、本来人間は穀物菜食に適しており、特に日本人は肉食より菜食に向いているというものです。

 身土不二は自分の身と土とは一体であり、自分の住んでいる国・土地で採れたものを食べることです。

 一物全体は食べ物は、全体を丸ごと食べるということです。

 お茶には茶道、花には華道があるぐらいで、当然ながら食事にも道があるはずだということから、明治時代の食医・石塚左玄が提唱した「食養」(食は命なり)の考え方を継承したものです。

 何事も道になることによって、物事の基本・背景にある精神・文化を究める人間修養の方法・手段となるからです。



 「薬」という字の意味

 20世紀におけるマクロビオティックの創始者・桜沢如一が学んだ石塚左玄の「食養」は、いわゆる医食同源を基本としています。食養とは、病気を食により治す方法であり、さらには病気にならない食生活を意味します。

 そこでは、いわゆる菜食は「薬」です。

 薬という字は草冠に「楽」からなっています。漢和辞典には草と治すの意からなり「薬草」のことと書いてあります。

 ベジタリアンの立場からは、草冠つまりは「菜食」を「楽しむ」ということです。菜食を楽しむことによって、食がそのまま薬になるというわけです。

──本当だ。うまくできてますね。

 ベジタリアンは要するに、日常的に自然からなる薬を採り入れているため、未病、健康が基本ということです。

──なるほど。ところで、ビーガン&ベジタリアンは禁欲的なイメージがあるので、お酒は飲まない人が多いように思いますが。

 お酒は、古来「百薬の長」と言われ、神道の世界では御神酒、仏教の世界でも般若湯と呼ばれて、共に信仰に欠かせないものです。ただし「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、何事も無理は禁物です。

 神社に参拝に行った際に、御神酒をいただきますが、あれは本来、薬とされています。神饌には米・餅などお米からできたものが代表的ですが、特に「薬」としてお供えされるのが、御神酒なのです。

──本当ですか!

 第一、医の語源を知っていますか?

──知りませんけど。

 医の旧字「醫」の酉という字は、本来は「酒」のことで、さんずい偏を省略した形になっています。漢和辞典にはその酉と上半分のかばうの意の字からなり、病をかばう薬酒、ひいては、それを使う医者の意を表すと書いてあります。

 病に苦しんでいる人に与えるのが酒であり、それを使うのが医者というわけです。

 つまり、語源的にもお酒は「医」そのものなのです。

──うーん、うまくできてますね。

 その意味では、菜食をしてお酒を飲んでいれば、薬を日常的に採って、医者を日常的に味方につけているようなもの。病気知らずの健康体を手に入れられるわけです。



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