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「ああモンテンルパの夜は更けて」その後 梨本宮記念財団の仕事 フィリピンに残された山下奉文大将・本間雅晴中将の遺骨を日本に!


 「ああモンテンルパの夜は更けて」その後 梨本宮記念財団の仕事
 フィリピンに残された山下奉文大将・本間雅晴中将の遺骨を日本に!



 世界の戦争は終わらない

「もはや戦後ではない」と日本で言われたのは、1956年(昭和31年)版の「経済白

書」に書かれていたためである。その後、1972年、佐藤栄作首相時代、沖縄返還が実

現して「戦後は終わった」とされる。

 何ごとも、言葉でいうことは簡単である。戦後は終わったと信じれば、そこで思考停止

の状態になり、あとは戦中・戦後の惨状は自身の周辺からは無いと同様のものになる。そ

して、一見、平和な日常を送ることができる。

 戦後の日本の復興、高度経済成長、バブル崩壊後の失われた30年を経た今日でも、と

りあえず戦争のない日本の平和は78年以上も続いている。

 だが、戦後は終わっていない。日本の外に目を向ければ、日本が終戦の日を迎えた後も

ずっと戦争は続いて今日のロシア・ウクライナ戦争がある。

 国連・ユニセフその他、様々な世界平和を推進する国際機関、団体がある中で、相変わ

らず世界に平和が訪れることはない。

 表向き平和な状態を続ける日本も、中国・ロシア・北朝鮮など、一触即発の危機と無縁

ではあり得ない。そんな2023年の現在、われわれにできることは多くはない。



 ヘヴニーズの「クライマックストーク」

 2023年8月、今年はコロナ下で開催されなかった終戦関連イベントが久しぶりに行

われた。

 様々なイベントが続く中で「ウエルネス@タイムス」が着目したのは、日本精神を世界

に発信する音楽一座「ヘヴニーズ」(石井希尚代表)による8月20日の動画配信「ヘヴ

ニーズ・スタイル」である。

 その日のテーマは「復活の歌」。知られざる日本精神並びに日本人のエピソードを、感

動的なストーリーにして伝える「クライマックストーク」は、戦後フィリピンに残された

日本人戦犯のための教誨師である僧侶・加賀尾秀忍の現地での活動と、国民歌手・渡辺は

ま子の「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌が、不思議な縁でつながり、大きく立場が

隔たる日本とフィリピンを動かしたという話である。

 終戦から4年後の1949年、フィリピンのモンテンルパ刑務所には、なお150人の

日本人戦犯が収容されていた。

 その間、マニラにおける軍事裁判が続く中、1948年には日本人戦犯、将校らの死刑

が執行されている。軍事裁判終了後は、米軍によるマニラ軍事法廷がフィリピン共和国に

移管され、1949年12月、フィリピンにおける軍事法廷がすべて終了した。

 加賀尾が教誨師として、当初6カ月の任期の予定で派遣されたのが、その直前の194

9年10月である。

 だが、任期が終わった後も、彼は現地に留まり、政府からの給与もないまま、日本赤十

字の支援の下、牢獄の1室「観音堂」に住んで、囚人たちの残飯を食べながら戦犯たちの

ために活動した。

 そんな中、1951年1月には14人の死刑囚が、突然、処刑されている。

 戦争は終わっていないのである。



 「ああモンテンルパの夜は更けて」

 1938年に「支那の夜」、1940年に「蘇州夜曲」の大ヒットで、すでに国民歌手

となっていた渡辺はま子は、日中戦争当時から戦地に赴いて歌い、慰問を続けてきた。

 そのため、彼女は終戦を中国・天津駅で迎えた。その天津でも、彼女は慰問のため、自

ら日本人収容所に入り、抑留生活を送った後、1946年5月に帰国した。

 帰国後、渡辺はま子が見たものは、様変わりした日本人の姿だった。祖国のために戦っ

た戦犯の家族たちが、戦争の元凶として非難の対象となっていたのである。GHQによる

情報操作の結果であるが、戦地での日本の兵隊たちを見てきた彼女には、国のために命を

捧げた彼らを悪しざまにいう日本人に失望した。そして、大和撫子の一人として彼女は、

1951年8月、戦犯が収容されていた巣鴨プリズンを初めて慰問に訪れた。

 その巣鴨プリズンで翌年1月、彼女は親日家で知られるフィリピンの下院議員ピオ・デ

ュランを紹介された。そのとき、彼女はモンテンルパで14人の死刑囚が処刑された話を

聞いて「マニラに行きます!」と叫んだという。

 国交のない時代、行きたいと思っても簡単に行けるわけではない。

 モンテンルパへの思いを募らせる渡辺はま子と、現地で教誨師として活動する加賀尾秀

忍との、直接の接点はなかった。その2人を結んだものがデュラン議員と音楽だった。

 14人の死刑囚の処刑にショックを受けた加賀尾は、これ以上の処刑者を出さないため

に何ができるかを考える中で「そうだ、歌だ!」と閃いたのだ。当時、日本でシベリア抑

留を歌った「異国の丘」が大ヒットしていた。

 加賀尾はオルガンを弾く死刑囚と詩心のある死刑囚に「モンテンルパ」の歌をつくるよ

うに持ちかけた。そうしてできたのが「ああモンテンルパの夜は更けて」である。

 その歌が彼女のもとに送られてきたのが、1952年6月であった。その日のうちに所

属していたレコード会社ビクターに行き、レコード化の話を進めている。そして、7月に

レコードが発売されるや、20万枚を超える大ヒットとなった。

 その年、彼女はモンテンルパを慰問に訪れるために奔走し、ようやくビザが降りて、現

地に着いたのが12月24日であった。モンテンルパで、彼女は108名の日本兵の前で

「荒城の月」「浜辺の歌」などの他、「ああモンテンルパの夜は更けて」「支那の夜」な

どの彼女のヒット曲を歌い、最後に全員での「ああモンテンルパの夜は更けて」の合唱。

そしてディラン議員の計らいで「君が代」を歌ってお開きとなった。



 モンテンルパのオルゴール

 帰国後、刑務所慰問の録音テープがラジオで流されると、多くの死刑囚が無実の罪で刑

の執行を待っているモンテンルパの現実を知った日本で、助命嘆願運動が巻き起こった。

 加賀尾はあらゆるツテを頼って奔走し、ローマ法王にも手紙を書いた。その効果があっ

て、カトリック信者のキリノ大統領との面会にこぎ着けた。そのとき、どんな助命嘆願を

してくるのかと、構えて待っていた大統領に、加賀尾は無言でモンテンルパの歌の「オル

ゴール」を手渡した。

 その曲を聞いて、2人の死刑囚がつくった曲だと知った大統領は「加賀尾は言葉の代わ

りに音楽を持ってきた。その音楽が私の心の琴線に触れた」と語っている。日本では、す

でに500万の嘆願書が集まっていた。

 その翌年、大統領は特赦令に署名。彼は身内を日本兵に殺されていることもあり、個人

的な恨みを抱いていても不思議ではなかった。

 大統領は国民に「我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に憎悪の念を残さないた

めに、この措置を講じたのである。私を突き動かした善意の心が人間に対する信頼の証と

して、他者の心の琴線に触れることになれば本望である」と語った。

 1953年7月22日、108名の日本人戦犯を乗せた船が横浜港に着いた。港には2

万8000人が出迎えたという。

 戦中・戦後、最悪の関係だった日本とフィリピンは、音楽の力と大統領の美しい決断に

よって、いまは良好な関係を築いている。

 だが、108名の日本兵は帰ってきたが、激戦地フィリピンでは多くのフィリピン人と

ともに、51万8000人の日本人が亡くなったと言われている。彼らの遺骨は、現地の

日本人墓地に埋葬されればまだしも、その大半は多くの島からなるフィリピン全土に散ら

ばっている。

 その中には「ヘヴニーズ・スタイル」には登場しない「マレーの虎」の異名を持つ山下

奉文大将と本間雅晴中将という2人の遺骨も含まれている。



 マッカーサーによる復讐劇?

 多くの戦犯、死刑囚の大半は無実の罪だと言われるフィリピンは、敗走を余儀なくされ

たマッカーサーにとっては屈辱の地である。「アイ・シャル・リターン」との有名な言葉

は、負け惜しみとともに、必ずリベンジに来るという固い決意の表明でもある。

 マッカーサーをして、そう言わせたのが、本間中将そして山下大将の存在であった。

 彼らは、何と東京裁判が始まる前、山下大将は1946年2月23日、本間中将は4月

3日、マニラ軍事裁判において死刑の判決を受けて処刑された。

 裁判自体、マッカーサーによる本間中将への復讐劇だと言われている。

 事実、マッカーサーを追い詰めた本間中将は、山下大将をはじめ他の戦犯が囚人服を着

たままの絞首刑であったのに対して、一人略式軍服を着用し、銃殺刑に処せられた。

 それを、軍人としての名誉を重んじてのことだとの見方もあるが、実際には山下大将、

本間中将そして捕虜収容所長だった洪思翊中将(1946年9月26日処刑)に関して、

マッカーサーは「骨さえ残すな!」と命じたという話である。

 フィリピンで処刑された山下大将に関して「1959年、山下は処刑された他のBC級

戦犯とともに英霊として靖国神社に合祀された」と「ウィキペディア」には記されている。だが、実際には靖国神社の記録を調べると、山下大将と本間中将、洪中将は靖国神社には

合祀されていない。


 梨本宮記念財団の仕事

 モンテンルパの犠牲者を忘れないことは大事だが、問題は渡辺はま子、加賀尾秀忍の思

いと活動を誰がどう引き継いできたかということである。

 フィリピンの戦没者に関しても、日本遺族会をはじめ多くの遺骨収集、慰霊団体など、

個人から公的なものまで、いろいろな活動が行われてきた。そして、長い歳月を経て、年

々忘れ去られる危機にある。

 多くの関係者の活動、そして祈りの力は大きいが、戦後処理を霊的な問題を第一にすべ

きとの観点から取り組んできたのが、一般財団法人「梨本宮記念財団」(梨本隆夫代表理

事)である。常々「先祖供養は未来への投資!」とのメッセージを続けてきた「ウエルネ

ス@タイムス」が梨本代表理事と行動を共にする機会が多いのも、そのためである。

 同「@タイムス」第8号で紹介しているように、2009年6月に設立された、同財団

の原点は「世界平和」である。戦後間もない1949年12月8日、代表理事の実父・神

林茂丸師は、私財を投げ打って、出羽三山・羽黒山境内に世界平和塔を建立している。

 2002年9月には、実父と梨本徳彦王との関わりの中から、代表理事が梨本家に入籍

した。梨本宮家と平和事業の継承を目的としたものだが、その後、養子縁組の意味ととも

に、その使命そして責任を自覚する日々を送ることになる。

 財団の目的は、天皇家の立場に立った過去の因縁解消と戦後処理。さらに、戦後日本の

復活の「礎」となった戦争戦没者の慰霊。併せてアジア近隣諸国、特に日韓、日中の友交

親善である。

 事実、梨本宮記念財団が活動を始めることによって、戦中・戦後の様々な問題が浮き彫

りになるとともに、その解決に奔走することになる。その重要な使命の一つが、戦場とな

った沖縄をはじめ旧満州、フィリピン、グアム、パプアニューギニアなど劇戦地における

慰霊・鎮魂の旅なのである。



 巣鴨プリブンに入った唯一の皇族

先祖供養や遺骨に何の意味も感じないという人がいる一方、80年近く前の戦没者の遺

骨を収集し、慰霊の旅を続けている人たちがいる。

 その大きな理由の一つは、フィリピンをはじめ、多くの戦死者を生んだ戦地に行けば、

死んだ者たちの霊が現れて、彼らが「日本に返りたい」と語る声が聞こえるからである。

 梨本代表理事は、30年以上、愚直とも言える頑固さで出羽三山の他、毎月15日の靖

国神社参拝、23日の白川伯王家墓前での祭典を続けてきた。

 昭和天皇の代わりに、梨本宮のサインがあって、戦争は始まった。その責任を取らされ

る形で、梨本宮は戦犯として巣鴨プリズンに収監された唯一の皇族である。

 戦争は昭和天皇の終戦の詔勅で終わったが、梨本宮のサインがあって始まった戦争の戦

後処理は、本来、天皇並びに梨本宮がするしかない。そこに、縁あって梨本宮家を継いだ

者として、梨本代表理事が戦後処理を行う使命があるわけである。

 あらゆる激戦地を訪れ、多くの慰霊鎮魂、戦後処理を続けることを自らの役目とする代

表理事の活動は、いまの日本人には失われた思いと行動を代表してのものだろう。

 2016年1月には天皇皇后両陛下(当時)がフィリピンの無名戦士の墓を訪れている

のに対して、代表理事は天皇皇后両陛下が行けないゲリラが出没する奥地に、機関銃を手

にした国軍兵士に守られながら、陸軍墓地、海軍墓地の慰霊鎮魂の旅を続けている。

 同財団の仕事は、目黒・佑天寺に納められた北朝鮮・軍人軍属の遺骨を返すこと、中国

・満州での毒ガス処理並びに20万人の遺骨収集など少なくないが、その一つがフィリピ

ンで処刑された山下大将、本間中将ら17人の戦犯の遺骨を日本に持ち帰ることなのであ

る。



モンテンルパの日本人墓地

 2023年2月15日の靖国神社参拝に先立つ2月上旬にも、代表理事はフィリピン・

モンテンルパの「日本人の墓」を訪れている。

 そこはゲリラが出没する危険地帯でもあるため、機関銃を持った人物が立っていて、門

には鍵が掛かっている。特別に開けてもらって入ると、中は荒れ放題。塩で清めてお酒を

供え、慰霊鎮魂を行ってきた。

 数年ぶりの日本人墓地は、いつの間にか様子が変わって、敷地の半分が売られたという

ことだ。維持費などを考えれば、その間の事情もわからなくはないが、日本政府並びに厚

生労働省、宮内庁の無力が実感されるばかりである。

 そんな中で、昭和天皇の戦後処理を続ける代表理事は「霊が呼ぶんですな」と言って、

何とかフィリピンで処刑された山下奉文大将、本間雅晴中将ら17名が眠る墓地から、遺

骨を日本に持ち帰るために尽力している。

 2月には朝鮮人ながら昭和天皇の兵隊として働いた洪思翊中将の慰霊鎮魂のため、頼ま

れたマッコリなどを供えてきたというが、実は7月上旬にもフィリピンを訪れている。

 改めて行くことになったのは、モンテンルパには彼らの遺骨はないと、靖国神社の資料

にあったからである。

 実際には、刑場となった首都マニラから60キロ南東にあるロスバニョスのジャングル

の中、山下奉文の墓標近く、本間中将の遺骨の埋葬場所には50年ほど前に娘が立てた碑

が立っていたということだ。

 本間中将は、2・26事件で問題となった皇統派に近い秩父宮の武官を勤めたこと、山

下大将も彼らの理解者と見なされている。秩父宮に味方する立場のため、昭和天皇に疎ま

れ、満州あるいはフィリピンなど、檄戦地に送られたとも言われている。

 しかも、そのフィリピンで一時撤退を余儀なくされたマッカーサーから目の敵にされた

ため、モンテンルパの日本人墓地にも遺骨はなかったわけである。7月、現地を訪れて山

下大将と本間中将の墓はわかったが、洪中将の墓はまだ見つかってはいない。

 何事も霊的な問題を解決せずに、うまく行くことはない。梨本宮家を継げば、天皇家並

びに日本の歴史に関する意外な真実に直面することになる。昭和天皇並びに梨本宮に代わ

って、戦後処理を霊的に任されたのが、梨本代表理事だということである。

「梨本宮記念財団」代表理事の仕事はまだまだ続く。


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