「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(14) 小林氏の「友情」と小林氏の「楽観と思い切った決断」について
- vegita974
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「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(14)
小林氏の「友情」と小林氏の「楽観と思い切った決断」について
ドイツのことわざ?

「友情はしばしば灌漑を要する植物である」とドイツのことわざにあると『ことわざ故事金言小事典』(福音館書店)に書いてあった。灌漑とは田畑に水を引くこと。「友情を永続させるには、しばしば会い、しばしば愛情を注がなければならない」ためである。
確かに友情を維持していくためには、それなりの努力が必要となる。ことわざがすべて正しいわけではないが、それが世間の常識である。とはいえ、永続させるのに努力を要する友情関係というのも、いささか寂しいようにも思える。そんな思いで加藤直士著『小林富次郎伝』を読めば、明らかに異なる小林氏の友情に関するエピソードが披露されている。
あるいは、小林氏の「楽観と思い切った決断」もまた、明治期のベンチャー精神を伝える「ライオン」創業者らしいエピソードに満ちている。そこでは『論語』にある「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」との戒め通りの生き方が貫かれている。また、小林氏の「楽観」について、著者の加藤氏は「楽天主義」との言葉を用いているが、その違いは「楽天」とは、天即ち神並びにキリスト教信仰と深く結びついているということだろう。


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第24章「小林氏の友情」
小林氏が友誼に厚かったことは、すべての友人が口を揃えて褒め称えている。彼は一度交わりを結んだ人とは生涯友人でいることを、心から望んでいた。先方でもし何かの行き違いで、小林氏に背いたとしても、小林氏は決してその人に背くことはなかった。20年前の同僚で、もしその人が窮地に陥っているならば、諸肌脱いで救いの手を差し伸べるのが小林氏であった。
筆者は神戸時代の同僚である某氏が、あるとき小林氏から数千円を借りることによって身の破滅を免れたという実例を知っている。小林氏はまた、生来非常に親切気のあった人であるから、友人とその一家のことを決して他人のこととは思わず、家人も及ばぬほどの世話をしたものである。
神戸の鳴行舎時代の同僚である今井樟太郎氏が明治9年(1876年)に突然死去したときに、真っ先に東京から駆けつけたのは小林氏であった。一切の善後策を講じて、未亡人がその事業を継続できるように自ら同家の後見人となった。その後、同家は小林氏の媒介により、一人娘にもっとも適当な養子を迎えて、家運はますます繁栄に赴きつつある。
小林氏が亡くなったとき、もっとも力を落とした一人は今井夫人であったことを見ても、いかに氏が平素同家のために尽くすところが多かったかがわかる。その他、小林氏は友人の家庭問題につき、あるときは寝食を忘れてその解決に尽力し、またあるときは数百キロを旅して善後策を講じてやった。そうした例がいくつもある。まさに小林氏ほど友人として頼み甲斐のある人はなかった。
小林氏の友誼に厚かったことは、彼の死後、多くの友人をして「自分こそ、特に小林氏との親交が厚かった」と信じさせたことでもわかる。本郷教会員にして、小林氏の信仰の友である荒木眞弓氏の話である。
明治9年に荒木氏は小林氏とともに満州・韓国地方に旅したが、荒木氏が奉天で突然発熱して病臥の身となったとき、予定の日程を変更できないため他の一行は出発したが、一人小林氏はどうしても出発しない。荒木氏がいかに断っても他の用事にかこつけて強いて滞在し、氏の平癒を待って後、一緒に出発したということである。
その後、荒木氏が創立を思い立たれた生命保険会社の事業についても、初めは自分の商売に縁のない事業だからと自らの出資は断っていたが、荒木氏の事業については日夜心にかけて、その成功を祈っていた。最後の病床につく2〜3日前、小林・荒木の両氏は本郷教会の集会後、相携えて小石川の工場に行き、久しぶりの閑談に時の過ぎるのを忘れたが、小林氏が「さて、かの保険の事業は近ごろ如何なる運びになっているか」と改めて尋ねられたので、荒木氏は小林氏の友誼の厚さに感動させられたそうである。自分のあまり賛成しない事業でも、それが友人の心血を注いでいるものと思えば、到底人ごとには思えないのが小林氏の性分であった。
この話と暗に符号する一事がある。それは明治27年ごろ(1894年)、小林氏の盟友の一人・秋元氏が小林氏の近くで木炭問屋を開始する計画で、まずは小林氏の賛成を得て、資金その他のことでいろいろ便宜を図ってくれる約束であった。ところが秋元氏が急に志を変じて、出版業に従事することとなり、その旨を小林氏に告げた。
そのとき、小林氏は少しも嫌な顔をせずに「何分出版業のことは自分には経験がないのでお助けするわけにはいかないが、いよいよ始められるようなら、書店の警醒社(日本のプロテスタント最初の超教派の出版社)に行って諸事相談したらよいのではないか」とのことであった。それだけではなく、秋元氏がいよいよその事業のために某所に移転することになったときに、小林氏はわざわざ一人の大工を連れて手伝いに来た。自分であれこれと修繕その他の指示をして、到底親兄弟も及ばぬほどの親切を尽くしたそうである。
普通一般から言えば、友人が自分の好意を無にして他の事業に手を出すような場合には、たいてい手を引くのが当然であるのに、一人小林氏はどこまでも友人の事業を成功させたいという一念に駆られていた。その後十数年間、直接間接に秋元氏並びにその家族のために尽くすところ極めて多かった。
小林氏の友誼に厚い心は、即ちその恩人に対して生涯恩誼を忘れぬ心であった。東京の堀江氏、横浜の松村氏、神戸の播摩氏、並びに彼に洗礼を授けられた長田牧師や、二十年間彼が精神を養われた海老名牧師らに対して、小林氏が抱いた深い感謝の念は、実に測り難き熱烈なものがあった。
彼が恩誼を忘れない一つの例を上げるならば、小林氏が20年前の石巻時代に、当時の多門教会牧師・長田氏からもらった一枚の郵便はがきを、死に至るまで自分が日夜愛読する聖書の中に挟んで、ていねいに保存していた一事でもわかる。そのはがきは、小林氏が失敗の極に危うく自殺を企てようとしたときに、偶然にも長田氏がかのヘブライ書第12章の「誰か父の懲らしめざる子あらんや」云々の聖句を書いて氏を慰めてやったところのものであった。
小林氏はこの聖句を読んで自殺を思い止まり、大勇猛心を奮い起こしたのだから、小林氏にとっては大事な記念物である。だが、それにしても20年間、よく一片のはがきを保存して「当時の恩を忘れないように」という至誠に至っては、他にそう多くあることではない。筆者は小林氏永眠の後、氏の愛読する聖書の中から、この黄色くなった古き一葉のはがきを見いだして、えも言われぬ感に打たれた。
小林氏は友人として交わるに、もっとも美しい性情を備えていた。謙虚で柔和で親切で、それに思慮深かったので、相談相手として彼ほど力になる人はなかった。小林氏の生涯のもっとも多くの時間は、人のために尽くされたものであろうと思われる。実際に、多くの友人は助言と慰めとを求めて、自ずから足を小林氏のもとに運んだ。小林氏はまたその同じ心をもって、目下の者に接した。
店員はもちろん、本郷教会の青年学生もまた、あたかも父のごとく兄のごとく彼を愛慕しない者はなかった。彼はすべてのことにおいて、困難を自分に背負い込んだ。彼は聖書のいわゆる「汝らのうち、首たらんと思うものは、まずその僕となるべし」という大真理を肝に銘じて世に処し、人と交わる秘訣とした。他者のために尽くす奉仕の念はいやしくも一度、小林氏と知り合った人を生涯その友誼に感泣させたゆえんである。
友人としての小林氏は、彼を知る無数の人々をして、その死を聞いて一種言いがたき寂寞の感を抱かせた。筆者は当時、至る所において「ああ、寂しくなった」との嘆声を耳にした。まさに小林氏の死は、多くの友人の心の中に到底満たし難き一種の空虚を生じさせたのであった。
第25章「小林氏の楽観と思い切った決断」
小林氏の楽天主義は有名なものであった。諦めの良いことといつも前途に望みをおくことは、彼の天性によったものでもあるとはいえ、彼の宗教的信仰によってますますその度合いを強められた。
若いときから非常に進取の気性に富んだ人であったが、そのためずいぶん大胆な行為に出て、思わぬ失敗を招いたことも多かった。しかし、いかなる逆境にあっても小林氏には失望というものがなかった。年を取って後も、自分は常に修行中という考え方で、何か新方面を開拓することばかり心がけていた。彼の肉体はますます病弱の身となったが、その精神はますます旺盛で万事に壮者をしのぐ勢いがあった。
そのため、いかに熱心に計画したことでも、いったん失敗に気がついたときには、きっぱりとこれを中止して、少しも顧みなかった。くよくよと一つのことに執着するよりも、むしろ新しい方面に活路を開くほうが愉快であると考えた。というのも、常に前途に希望を抱いていたからで「神は必ず良いように導いて下さる」との確信が、彼の念頭を去らなかった。もしも小林氏の宗教を他の言葉を用いて言い表すことができるとすれば、それはただ暗黒を見ずして光明を見て、禍いを変じて福となす心の態度に他ならなかったというべきである。
彼ほど世の暗黒を見ることの嫌いな人はなかった。自分の反対者に対しても、彼は常に善意の解釈をしていた。ゆえに彼には他人に対しての不平というものがない。このことに関するもっとも適切な例は、彼の葬式(神田青年会館)における海老名牧師の弔辞からもわかる。即ち、小林氏はあれほど禁酒事業に熱心であったのに、本郷教会の教壇はすこぶる禁酒に冷淡で、海老名牧師は一度も禁酒を主張したことがなく、むしろキリスト教と禁酒とは別ものであることを論じられた。これは小林氏にとって、ずいぶんな苦痛であったろう。
ただし、彼は一度も不平をもらしたことがない。彼はかえって「禁酒などはわれわれ卑しい者のいうことで、牧師方が教壇でいうことではない」と人に語っていた。これは彼の謙遜を示すと同時に、いかに不平のない人であったかがわかると思う。
進取の気性に富んでいるだけに、商業上のやり口もずいぶん大胆で、ときに機微を要することもあったが、いったん悪いと気がつけば、即刻これを改めることを躊躇しなかった。これには多くの実例があるが、ここでその一つを上げれば、かの大力士・常陸山の全盛時代のことである。
小林商店はライオン歯磨の広告を目的に両国・回向院での本場所前に、大量の酒樽を奉納したことがある。これは小林氏の創意によるものではなかったが、ただ店員のすることに同意したものと見える。ところが、世に救世軍の士官に中村某という人がいて、ふと回向院の前を通りかかると小林商店の積樽を見て「これは禁酒家の小林氏にはあるまじき行為である」と考え、すぐさまていねいな手紙による忠告を試みた。
不思議なことに、この手紙を受け取った小林氏の聖書の日課は「ローマ人への手紙」第14章であった。その13節に「それゆえ、今後わたしたちは、互いに裁き合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい」という一句であったので、小林氏は中村氏の忠告を天父の声と信じて、即刻店員に命じて莫大な費用をかけた積樽を撤廃させ、同時に中村氏に手紙を送って、ていねいにその忠告に感謝したとのことである。これも禁酒の章に書くべき出来事であるが、自らの過ちを改めることに、いかに思い切りが良かったかを示す好例と思うため、ここに入れた。
氏の欧米旅行中、もっとも多くの力を尽くした経木真田の輸出事業は、取引方法が不完全であり、正直に約束を守ることが困難であるとの理由によって、帰国後廃止してしまった一事などは、彼の商業上の決断力を示すのにもっとも適した例だと思う。
また、小資本でやれる事業ではないとの理由をもって、長間営んできた石鹸製造事業をも、帰国後間もなく廃止したことなど、思い切った決断として周囲を驚かせた。もちろん、本業のライオン歯磨がますます隆盛になってきたので、利益の少ないこれらの副業を継続する必要がなくなったためでもあろうが、氏のような活動を好む事業家が、20〜30年間も継続してきた家業の一部を廃止するごときは、決して一通りの決断でできることではないと思う。
この他、小林氏の臨機応変の処置は枚挙に暇がないが、要するに前述した通り「神は決して、その愛する子を空しく苦しめない」との信仰上の楽天主義の賜物であるというべきである。小林氏の一生は、この信仰上の楽天主義により、終始禍いを変じて福となし、暗黒の中から光明を見いだした生涯であった。
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以下、第26章「小林氏と聖書」へと続く。



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