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「先祖供養は未来への投資!」その後(佐渡へ)  『順徳天皇』著者講演会、780年忌の佐渡「真野御陵」を訪ねて

更新日:2022年10月7日


 「先祖供養は未来への投資!」その後(佐渡へ)
 『順徳天皇』著者講演会、780年忌の佐渡「真野御陵」を訪ねて


 国葬の今日的な価値とは

 安倍晋三元首相の国葬に反対する論調が、マスメディアやネットをにぎわせてきた中、

2022年9月27日、国葬が行われました。

「良いこと」をメッセージすることを使命にする「ウエルネス@タイムス」としては、な

ぜ彼らが自国の国力を弱体化するのに一生懸命なのか、理解に苦しむところです。多くの

献花の一方、反対のデモや大合唱の中で、執り行われた国葬は一つの象徴的な事例です。

 問題は多くのメディアや国民が、安倍元首相という一個人にこだわり、国葬に法的根拠

がないこと、さらには弔意の強制であるとして、国葬反対を自らの納得する正義にしてい

ることです。そこでは、命の尊厳並びに人の死を悼み供養するという、本来の先祖供養の

在り方は二の次にされます。

 安倍元首相が仮に、多くの国民の敵だとしても、亡くなってまで排除している限り、分

断対立が助長されるだけで、平和は永遠に来ることはありません。世界がそのことを証明

しています。

「先祖供養は未来への投資!」というのは「ウエルネス@タイムス」の現代社会に対する

一つのメッセージです。

 第12号「安倍元首相の死で語られなかったこと」では、安倍元首相の死について「お

役御免」という、いささか厳しい指摘をしていますが、古来、我が国の供養の在り方は、

敵や悪人とされた人物をも悼み、神として崇めることにより、それ以上の災いを断つとい

う伝統的な知恵を結集したものです。

 同じ第12号では霊性を向上させることが、対立を和へと導く唯一の道だとする仏教学者・鈴木大拙著『日本的霊性』(岩波文庫)での指摘を紹介しています。

 国葬は一つのチャンスです。安倍元首相の先には自分の先祖の供養があるように、地球

さらには宇宙を大事に思う心と行動が問われているのです。

 霊性の覚醒に待つ以外に方法はないのでしょうか。

 安倍元首相の死のみならず、多くの災害や不幸な死に関係する場所には献花が絶えない

のが一般的です。それが人としての自然な追悼の在り方です。

 その一方で、多くの世帯から神棚や仏壇が消えていっています。

 先祖供養が圧倒的に足りない時代に、どのような死であれ、あらゆる機会に先祖供養を

行うことこそが、未来への投資になるということです。

 



 順徳天皇佐渡遷幸800年記念講演会

 2022年9月10日、天皇家に代わって戦後処理などを執り行ってきた一般財団法人

「梨本宮記念財団」梨本隆夫代表理事に誘われて、東京の新潟県人会大ホールで行われた

山田詩乃武氏の「順徳天皇佐渡遷幸800年記念」講演会に行ってきました。

 2019年、文春新書『承久の乱』(本郷和人著)が話題を呼ぶなど、近年、日本の歴

史ファンの間で、承久の乱が脚光を浴びています。本郷氏は承久の乱について「日本史の

ターニングポイント」と語っています。

 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、当時の歴史を背景に、朝廷側と

対立する幕府の御家人をテーマにしています。

 後鳥羽上皇が朝廷側を代表する立場ですが、実際に動いたのは後鳥羽上皇の意を汲んだ

第三王子の順徳天皇です。その順徳天皇は、承久の乱の後、佐渡に流され46歳の生涯を

閉じました。しかも、歴代天皇の中で2人しかいない自死を選択した1人です。

 山田氏は佐渡遷幸800年(2021年)を記念して出版された『順徳天皇』(PHP

エディターズ・グループ)の著者で、演題は「順徳天皇-才(かど)めいて、鮮やかなり

-」です。

 その日の来賓は梨本代表理事の他、女優・詩人の村松英子氏、元ホンダF1チーム総監

督の桜井淑敏氏、一水会の木村三浩代表、大庄グループ創業者の平辰氏など、多彩な顔ぶ

れです。

 冒頭、梨本代表理事が来賓を代表してあいさつ。縁あって、宮家の霊統を継いで、この

場にいること。その使命は天皇家に代わって、在野で様々な戦後処理を行うこと。多くの

因縁解消、つまりは霊的な問題の処理、先祖供養こそが大事だということを、身をもって

示す活動について語っています。

 それは順徳天皇が自ら禁中の故実について著した『禁秘抄』で、皇族の勤めとして「賢

所。凡そ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす。朝夕に敬神の叡慮懈怠なし」という

神事優先・敬神を、梨本代表理事もまた自らに課してきたということです。




 歴史の中に埋もれている天皇

 佐渡・真野新町に生まれた山田氏にとって、順徳天皇の眠る真野御陵や真野宮周辺は、

地域の子どもたちの格好の遊び場だったということです。そんな身近にあった順徳天皇と

はいえ、多くの日本人同様、実際の知識は教科書で知る程度でしかなかったようです。

 しかし、佐渡に生まれ育てば、嫌でも順徳天皇は避けられないテーマとなってきます。

 事実、著書『順徳天皇』は郷里・佐渡の人物に関する著作に取り組んでいた山田氏が、

承久の乱即ち順徳天皇遷幸800年を迎えるに当たって、親交のある外交評論家・加瀬英

明氏から「佐渡出身の君が書かなくて、どうする。順徳天皇を先に書け!」と言われて取

り組み、出版に至った記念すべき作品です。

 しかも、本の表紙の題字は、安倍元首相の母・安倍洋子氏の揮毫です。

 表紙袖には、加瀬英明氏の「順徳天皇は歴代天皇の中でも秀逸な歌人であり、佐渡島に

配流されて、悲劇、多感、耽美的な生涯を閉じた。日本語は今日でも美と、自然との和を

求める言霊が宿る祈りの言葉であって、和歌として結晶している。皇室が百二十六代にわ

たって、常若の和歌の伝統を守ってきたが、ここにいま世界が持続可能な地球環境を求め

ている、答えがある」との紹介文が載っています。

 著者としても、武家が権力を持つ時代にあって、歴史に埋もれている天皇の素晴らしさ

を、今日に伝えることは、佐渡で育った者としての使命感が原動力になっているのです。



 順徳天皇の「徳」という字

 講演は稀有な才能を持つ順徳天皇が時流と運命に翻弄される形での無念の生涯から始ま

り、順徳天皇の「徳」に字について。父・後鳥羽上皇の第三王子(母・藤原重子)に生ま

れた血脈について。さらに今回の講演の「才めいて、鮮やかなり」というタイトル通りの

順徳天皇の学究、歌人、政治家としての様々な顔について。そして自ら選んだ死を順徳天

皇の「美学」と語っています。

 徳の字を持つ天皇は、順徳天皇以前に8人いました。最も有名なのが第75代崇徳天皇

です。その崇徳天皇は菅原道実、平将門とともに日本の「3大怨霊」の一人とされる人物

として知られています。

 保元の乱に敗れて、讃岐(香川県)に流され「われ日本の大魔縁にならん」との言葉を

残して亡くなっています。その「徳」という字を継いだのが、第84代順徳天皇です。

『増鏡』に「この御子(順徳)を、院(後鳥羽)かぎりなく愛しきものに思ひ聞こえさせ

給へれば、(中略)才めいて、あざやかにぞおはしましける」と記されているように、性

格は素直で才気煥発、父譲りの武断的気性を併せもち、母に似て体は閑麗だったというこ

とです。

 様々な顔を持つことに関して、学究面では歌人、文化人として『禁秘抄』の他、歌学書

『八雲御抄』6巻や歌集の他、歌会などを催しています。

 さらに、佐渡遷幸という結果をもたらした政治家としての才能について語っています。

 聖徳太子が制定したという冠位十二階では「徳」は、大小6徳目「徳・仁・礼・信・義

・智」の筆頭に上げられています。

 順徳天皇は、生来、賢く明朗な性格で、幼少のころから学問を好み、詩歌をたしなみ、

後鳥羽上皇からことのほか深い愛情をもって育てられました。

 朝廷と幕府間の対立が問題になる時代、承久の乱では、後鳥羽上皇の期待に応え、皇位

を4歳の長男(仲恭天皇)に譲り、鎌倉幕府打倒に立ち上がったものの、幕府軍の京都乱

入を許し、敗北の憂き目にあいました。

 その結果、後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳天皇は佐渡へと流されたわけです。

 都に帰る夢が叶わないまま、22年の佐渡暮らしの後、順徳天皇は重陽の節句(9月9

日)に絶命を決意したものの死には至らず、9月12日に焼け石を額に当てて、自らの生

涯を閉じました。

 ちなみに、順徳天皇以降、用いられなくなっていた徳の字を諱(いみな)に持つのが、

今上天皇(浩宮徳仁)です。第二次世界大戦の悲劇と聖徳太子の制定した徳を、平和に生

かす使命が込められているということです。




 順徳天皇の才能を恐れた鎌倉幕府

 順徳天皇の才能に関して、山田氏は坂井孝一著『考証・鎌倉殿をめぐる人びと』(NH

K出版新書)から、以下のような記述を紹介しています。

「古代・中世において、国家の頂点に立って『政』を行う公式の王、すなわち朝廷を率い

る天皇には三つの芸能が求められた。第一に修めるべきは学問、第二には音楽、第三は和

歌である。これは稀代の帝王後鳥羽上皇の子であり、父親に似て学問・音楽・和歌などの

才能に恵まれた有能な王、順徳天皇が著した故実書『禁秘抄』に明記されている」

 講演では「才めいて、鮮やかなり」という講演のタイトルにある通りの天皇として、歴

史の表舞台に登場する後鳥羽上皇以上に、鎌倉幕府・北条一族は順徳天皇の才能及び政治

的手腕を恐れたと指摘しています。

 地元、佐渡では真野御陵をはじめ広く縁の事跡が今に伝えられ、残っているとはいえ、

新潟県人のみならず、世間一般にも順徳天皇の価値はほとんど知られておりません。

 それだけに、山田氏の著書を読み、講演を聞けば、自らの日本人としての無知が恥ずべ

きことだと思い知らされます。

 山田氏自身、順徳天皇に関する資料が少ないことから、執筆に苦労した反面、順徳天皇

の才気あふれる和歌と天皇に関連する様々な文人等の記述を散りばめることによって、天

皇の知られざる一面をクローズアップしています。

 その才能は、例えば和歌の面でも「小倉百人一首」の最後、100首目を飾っているの

が順徳天皇の歌「百敷や古き軒端のしのぶにも なほ余りある昔なりけり」だと、改めて

指摘されれば、よくわかるはずです。



 順徳天皇の眠る真野御陵

 講演会の翌日、新潟港から佐渡行きのフェリーに乗って、両津港から路線バス(南線)

で、休日のみ運行している佐渡歴史伝統館に行きました。真野宮脇にあり、その裏手に真

野御陵へ行く道があります。裏手の坂道を登ると、県道304号線に出て、すぐの左手に

順徳天皇の岩抱え梅があり、さらに行くと、その先に真野御陵が見えてきます。日本で最

北にある天皇御陵です。

 ひっそりとして、伊勢をずーっと小さくしたような神聖な印象です。岩でできた手水舎

に竹の杓が2つ置いてあります。お参りした後、右手から裏手に回って一周すると、そこ

は田んぼになっていて、長閑な風情です。

 赤松の林の向こうの空に佐渡の人間国宝・佐々木象堂(蝋型鋳金)がよくテーマにした

瑞鳥のような雲が見えていました。

 脇道を歩いていくと、1輪の小百合がきれいに咲いていて、まるで誰かが見つけるのを

待っていたようでした。

 よく手入れがされた真野御陵に行けば、いまなお上皇の無念とともに、地元の人たちに

愛され守られている、愛と感謝が感じられます。そこでは、無念もまた真野の自然の清涼

な雰囲気に、少しずつ溶けているようにも思えてきます。

 それでも、780年後の今日、順徳天皇の眠る真野御陵には「いまなお天皇の魂が浮遊

していると思う」と山田氏は語っています。

 その日は、参拝後、再び佐渡伝統歴史館にもどり、真野宮にお参りしてから、バスで豊

田に行きました。順徳天皇上陸の地とされる恋が浦に、順徳天皇石碑群があるためです。

 しばらく歩いた先にサッカー場があります。その手前の道路沿いに大小の石碑が並んで

いました。西日を受けながら写真を撮ると、背景はサッカー場です。その日は日曜日のた

め、周辺にはキャンプ用のテントを張っている人なども見かけられて、時代の移り変わり

を目の当たりにする思いになります。



 観光コースから外れた真野御陵

 翌9月12日は、順徳天皇の780年目の命日です。

 再び真野御陵を訪ねる前に、佐渡金山が世界遺産を目指していることもあり、観光のた

め訪ねてみました。

 坑内見学をして渡戸の釜の風景などを一通り見てきましたが、相川あたりで1泊しない

と、全貌は見られないという印象です。

 3時半過ぎ、真野御陵に行くと、前日とは異なり、詰め所に明かりが付いていました。

参拝後、戸を開けてあいさつして、御陵の様子などを聞いてきました。

 最近は週に2日ほど来ているそうで、謙遜してか「お掃除番ですよ」と言ってました。

確かに、御陵の中も周辺もよく手入れがされていました。

 12日は順徳天皇の780年忌ですが、特に変わったことはないようです。

 このあたりでは毎月24日にお参りを続けているということでした。

 前年の佐渡遷幸800年には、いろんな行事が行われましたが、780年忌は特に注目

されることもなく、訪れる人の姿もありません。

 地元でも、命日のことはほとんど関心がないというのは、意外な事実でした。

 以前に、たまに観光バスが来たこともあると言いますが、最近はないということです。

 そんな中、いまなお全国から様々な人たちがやってきては、熱心な参拝を続けていると

言います。

 そうした在り方が相応しいようにも思いますが、先祖供養が足りない現在、順徳天皇の

価値を正当に評価するためにも、真野御陵をはじめ、佐渡に散在する関連施設等が佐渡観

光の重要な目玉になればと、残念な気がします。



 小説「順徳天皇」の執筆

 講師の山田氏は『順徳天皇』の出版後、改めて順徳天皇をテーマにした小説を執筆して

いるということです。

 順徳天皇に関する資料が少ないのは、崩御前、佐渡で執筆した経文、書き物はすべて焼

いているためもあります。そのため、歴史の中に埋もれているわけですが、逆に少ない資

料は小説という形では、想像力を働かせて描くことが可能になります。

 実際に、山田氏はハンデを逆に味方にする形で、2022年中に当時の複雑な歴史的背

景を整理して、その後は想像を交えて佐渡で島民らに親しまれた順徳天皇像を、その知ら

れざる恋とともに描いていくと語っています。

 2023年春には脱稿。その後、出版される予定だと言います。

 類まれなる才能及び美貌だけではなく、佐渡の地で「順徳さん」と呼ばれて親しまれた

天皇の新たな一面が明かされるのではないでしょうか。

 いまから楽しみな話題です。




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