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 「昭和大戦博物館」準備展示室を設立した 「靖国神社」宮司を脅迫した国士・浦田雅治氏の最後の御奉公?

更新日:4月12日


 「昭和大戦博物館」準備展示室を設立した
 「靖国神社」宮司を脅迫した国士・浦田雅治氏の最後の御奉公?



 恩讐を超えなければ平和は来ない

「ウエルネス@タイムス」では、これまで昭和天皇の戦後処理のため、毎月15日に靖国

神社参拝、23日に天皇家の神事を司ってきた白川神道・白川伯王家墓前での祭典を続け

る一般財団法人「梨本宮記念財団」梨本隆夫代表理事と、時に行動を共にしてきた。

 同時に、縁あって「靖国神社」宮司を脅迫して逮捕された国士・浦田雅治氏から、A級

戦犯の合祀に関して「東条英機の合祀は早すぎた」といった手紙や資料が送られてきたこ

とで、倉敷に浦田氏を訪ねたレポート(第18号)を掲載している。

 同レポートでは「何事も分けている間は対立は止むことはない」。つまりは「恩讐を超

えなければ平和は来ない」と、浦田氏の主張に対して「ウエルネス@タイムス」の立場を

レポートしている。

 倉敷を訪ねた際にも、同様の説明と日本の和の文化について話したが、結局「東条さん

の合祀は時期が早かった」との自説を改めることはなかった。

 そのため、2023年8月(「ウエルネス@タイムス」第24号)に「日本の暑い夏」

として「靖国神社宮司を脅迫した浦田雅治氏の『中翼』『天皇主義』とは?」と題するレ

ポートを書いて、中翼(仲良く)と言いながら、東条などを除くのはおかしいのではない

かということ。天皇絶対の姿勢・信条はわかるが、彼が東条排除の根拠にする、いわゆる

富田メモなど天皇側近の言葉を論拠にしていることに対して、それは天皇の大御心を知ら

ない者の判断だと指摘している。

 レポートでも「怒り、憎しみがない」と語っている浦田氏が「東条等、戦犯に対しては

怒り、憎しみを抱いているのが、不思議ではある」と、記している。

 そんな経緯もあり、再度、倉敷を訪ねるに当たって、改めて靖国神社のA級戦犯合祀並

びに鎮霊社、昭和天皇に関する見方をまとめて送っている。

 浦田氏に対する反論が、一々気に障ったのか、2度目に倉敷を訪ねたときは、面会を拒

否されたため、浦田氏に関するレポートは、一応、終わりにしたつもりであった。

 その浦田氏から、2024年2月、手紙と「昭和大戦博物館」資料が届いた。



 「昭和大戦博物館」準備展示室

 手紙には、なお「私はウヨクでもサヨクでもなく、ナカヨク(仲良く)。現職の総理。

社共の顔。沖縄の良心、せめぎ合うのではなく、赦し合い、譲り合う。奪い合うのではな

く、与え合う。ののしり合うのではなく、支え、助け合う。協調という理想に憧れる」と

書いてある。

 今回の昭和大戦博物館の開設について、もともとは2000年に倉敷市立美術館真向い

に「倉敷こっとう倶楽部」を設営。5名が共同で50万円づつを持ち寄り、35件のテナ

ントを得て開始。当初はとてもにぎわったという。

 それが、一人去り、二人去り。やがて共同5名も解散。浦田氏一人になって「いつ廃業

すべきか思案に暮れる、孤立感の漂う耐え難い毎日」を送るようになった。

 そんな「ある時、ひらめく。骨董品は、全てを放出。市場で処分。今まさに昭和大戦博

物館が、うぶ声をあげる。私もこの12月で満70歳。足立美術館の創設者の決断時が、

70歳だった」と、独特の言葉遣いで書いている。

 そして「昭和大戦博物館」の準備展示室が、鶴形2丁目に第一準備展示室、こっとう倶

楽部があった中央2丁目が第二準備展示室としてオープンしたという。

 将来的な、本来あるべき「昭和大戦博物館」のための、あくまで準備展示室という位置

づけのようである。

 日本は世界で唯一、広島・長崎と二度の原爆を落とされた国であり、結果「終戦」を受

け入れた。それは「平和憲法」に象徴されるように「戦争の終わり」を意味する。

 その平和な日本には、なお沖縄の米軍基地が同居するという極めて現代的な矛盾ととも

に、核兵器廃絶の使命がある。

「昭和大戦博物館」は、国のために戦った先人と多くの英霊の犠牲の上に、今日の平和が

あることを忘れないための平和の礎となるものだ。

 そのことの意味を象徴するものとして、浦田氏は「昭和大戦博物館」に飾る「ペンは邪

な剣に勝る」とのオブジェを製作するという。そのために、必要となる1000本の万年

筆を募っている。

「1本なり2本の御不要な万年筆をお寄せいただけると幸いです」と、今年の元旦の日付

の入ったコピーが同封されていた。

 そこで3月19日、東京から大阪に行く用事があった際、万年筆2本を持って訪ねてい

った。



 浦田氏の眼力を証明するエピソード

 前回、倉敷こっとう倶楽部を訪ねた際も驚いた収集品の数々には、改めて驚く。

 例えば、満州・関東軍の陸軍中将で『世界最終戦論』の石原寛爾の古い日記の束が置い

てあり、フィリピンで処刑された本間雅晴陸軍中将の珍しい書が壁に掛かっていた。

 通常、市場に出てくるはずもない日本の文化勲章もある。昭和12年(1937年)に

制定されて、大江健三郎など、文化勲章を辞退する者もいたとはいえ、受勲者及び遺族に

とっては、名誉の証である。それを処分したというのでは、後世の恥・不名誉となる。

 その文化勲章が、第一準備展示室の柱に掛けられている。市場に出てこないはずの勲章

があるのは、戦後、進駐軍がアメリカに持ち帰ったものが、流出したという。

 文化勲章は橘の白い五弁の花がモチーフになっている。当初の案では桜だったのだが、

桜は散ることから、急遽、花が固く実を結ぶ橘になった経緯がある。

 その文化勲章が浦田氏の手元にあるのは、ただの偶然ではない何かがあるとしか考えら

れないことだ。

 そんな浦田氏の眼力を証明するエピソードが、映画評論家・監督の水野晴郎氏の出自に

関する問題だろう。

 山下奉文陸軍大将役を自ら演じた監督作「シベリア超特急」シリーズを見た浦田氏は、

映画を見て、もともと交流のあった水野氏が「関東軍でタイピストとして働いていた母親

と山下大将の忘れ形見ではないのか」と、推測。婚外子として生まれたことが、スクリー

ンでの実父・山下大将の描き方に影響していると忌憚ない意見を述べていた。

 その手紙に対する水野氏からの返信があって、事実を認めた上で、口外しないで欲しい

と語っている。

 その後、75歳を過ぎた水野氏は、戸籍名を実父がつけてくれた山下奉大(ともひろ)

に変更する決心をするに至っている。世間によくある骨董屋ではない。

 文化勲章に限らず「昭和大戦博物館」は戦争マニア、歴史ファン、研究者にとっては、

お宝の宝庫である。

 現在は第一準備展示室と、第二準備展示室に分かれているが、本来であれば、一カ所に

あるべきものだ。

 前回の話では、沖縄に持って行けたらと考えていたようだが、結局、その話は立ち消え

になったようだ。沖縄も結局、カネカネカネだと話していた。

 倉敷での2カ所での昭和大戦博物館の開設は、いずれにしろ、どこか然るべき場所での

展示のあくまでも「準備展示室」ということである。

 その内容は、本来であれば一個人ではなく、国が管理すべき文化財である。あるいは皇

族関係財団などが管理すべきものだとの思いもあるようだ。それだけの価値がある。



 昭和大戦博物館に賭ける不退転の決意

 倉敷を訪れた際、3月18日に梨本宮が来賓を代表してあつさつをした東京での第一回

「大使サミット」のチラシと、梨本宮が裏で動いた上野にパンダが来た真相をレポートし

た(「ウエルネス@タイムス」第30号)のコピーを置いてきた。

 大使サミットが「核兵器廃絶」を掲げていること、そして梨本宮の裏での役割に深く感

銘を受けたと、後日、浦田氏は電話で話していた。

 そして「何か協力するというのはおこがましいですが」と前置きして「何か力になれる

ことがあれば」と語っていた。浦田氏としても、いまは手元にある収集品だが、いつかは

本来あるべき場所に納めて、展示するなり、若い学者の歴史資料として利用してもらいた

いはずだからである。

 万年筆の提供とともに、浦田氏は昭和百年の節目である令和7年2月11日。国旗「日

の丸」を「心からの感謝と尊厳を込めて供養します」との「お願いの儀」を元旦に行って

いる。

 処分に困っている日の丸があれば、最低1000円を「昭和大戦博物館」設営の加金と

してもらえればということである。

 着々と、自ら気がついたことを、まさに国の代わり、多くの右翼・保守の代わりにやっ

ているようである。

 いまも、坂本龍馬の「遊魚動緑荷」の書(漢詩)を扇子にして、彼にあやかり、また力

と勇気を得て、不退転の決意で昭和大戦博物館の設営に尽力している。書の意味は「遊ん

でいる魚でさえ、蓮の葉を動かしている。人間が国を動かすのは当然であろう」というも

のだ。

 その使命感は並大抵のものではない。

 以前の「倉敷こっとう倶楽部」の第二準備展示室は、第一のおよそ10倍の広さがある

という。そこを埋めるだけの収集品、ポスター類だけでも250枚あるという。

 まだまだ浦田氏の人物像とともに、昭和大戦博物館の全貌はまるで明らかにはなってい

ない。

 冒頭に触れている「中翼」のちがいに関しても、確認していない。次回、再訪が楽しみ

な理由である。


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