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自分の名前を間違えられて怒る人たちに関するM氏の「考察」  人は常に、誰かに試されている!?

自分の名前を間違えられて怒る人たちに関するM氏の「考察」

 人は常に、誰かに試されている!?


 間違いを許せない人生

 人生、何があっても驚かないが、今回取り上げるのは「自分の名前を間違えられて激怒

する人(A氏)」と「自分の名前をたまに間違えられる人(M氏)」についてである。

 A氏はアングリーのA、M氏はミステイク・ミスアンダースタンドのMの意味である。

ここでは筆者が代わりに書いているが、不特定多数のM氏がいるはずだ。

 長い人生、生きていればいろんなことがある。苦もあれば楽もある。成功や勝利もあれ

ば、失敗や敗北もある。自慢すべきこともあれば、逆に間違いや無駄もある。それが人生

である。

 自分の名前を間違えられて激怒するA氏は、どんな人生を送ってきたのだろうか。たぶ

ん、自分だけは間違いも失敗も無駄もない。負けたことまで記憶にないのかもしれない。

 試しに、名前を間違えられて怒る人に関して、ネット検索してみた。もちろん答えはい

ろいろである。

「怒る側のキャパシティが低すぎる」「人間は全知全能ではない」「ただの短気!」とい

った感じで、基本的に理解できないという受け止め方から、間違えるのは相手を大事に思

っていないから(大事に思われていない)、相手のことをどうでもいいと思っている(ど

うでもいいと思われている)ため、許せないという立場まで、人それぞれである。

 もちろん筆者の立場は、前者である。

 逆に、自分の人生の無駄や失敗、間違いを許せない人たちは、善意の解釈をすれば、常

に勝利や成功を導く、無駄のない効率的な人生を生きていると信じられる人物だというこ

とだろう。そのため、ビジネスやスポーツ、武道などの世界でも、自分にも厳しいが、人

にも厳しいということだと思う。

 とはいえ、彼らは自分がまちがったときには、どうするのだろうか?


 人生には偶然も無駄もない

「犬も歩けば棒に当たる」とことわざにはあると何度か書いているが、ジャーナリストの

場合は「棒」ではなく、行くところ「ネタ」が転がっていて、時に「事件」が起きる。間

違いや失敗、無駄などのトラブルも、ただの無駄やトラブルでは終わらない。

 ジャーナリスト人生を振り返ってみて、そうでなければフリーのジャーナリストとして

50年も仕事を続け、本を出し続けることなど不可能だといつも思う。無駄と思ったこと

が後日、役に立つ。無駄を嫌う人は、無駄を生かす術を知らないのだと思う。

 基本的に、ジャーナリストは日ごろ、無駄な人物には会わない。取材であればなおさら

で、そんな中には有名人をはじめ、普通はなかなか会えない人たちもいる。

 先日、現在、進行中の「νG7量子水」に関する本の第2弾「体験談集」に関して、開

発者である株式会社「ウエルネス」の野村修之社長からメールが転送されてきた。あるN

PO理事長A氏から野村社長に届いた御礼のメールである。

 そのメールの内容と一緒にA氏のプロフィールなどを加えて、量子水ファン=体験者の

一人として、次の本に収録しようとしたところ、事件は起こった。

 理事長の肩書が「会長」になっていて、おまけに名前が1字間違っていたのだ。

 掲載予定の原稿を見たA氏が「こんなに間違えられると、会ってもいないM氏(筆者)

に信頼感を持つことができない」とのことで、最終的に掲載は見送られた。


 世界の戦争が続く理由?

 激怒(?)したA氏が野村社長に送った断りのメールを見て、最初に思ったことが、自

分の間違いを棚に上げてのことだが「人間、出来てねえー!」ということだ。もう一つが

「自分は人の名前を間違ったことがないんだ?」ということである。

 もちろん、間違えるほうがいけないことはわかっているが、どんなにエライ立場の人間

か知らないが、自分の名前を間違えられた程度で、A氏は激怒することで鬱憤を晴らした

つもりかもしれないが、相手のジャーナリストを不愉快な思いにさせて、仲介者の野村社

長を、たぶん困惑させている。そうした不愉快の輪がどんどん広がっていく。

 そう思うと「こんな人物が人の上に立って、世界で指導しているのだから、どうなって

いるのか?」と、ますます憂鬱になる。

 大げさなようだが、一事が万事である。いま世界で起こっていることを見れば、その程

度の指導者たちが世界に君臨している時代だから、自分勝手な人間が増えて、結果、戦争

ばかりが続くことになる。実に当たり前のことである。

 もちろん、強がって言っているいるわけではない。相手の名前を間違えていいわけがな

い。しかし、誰しも時には間違えることがある。

 ごく最近も、筆者がいつも「博士」という肩書を使っている先生の名前を「成」ではな

く「茂」と書いて、後日「参考までに、草冠は要りませんので」と注意されたことがあっ

た。あるいは、代表的日本男児として、いつも着物姿で現れる歳下の友人の名前「実」を

「美」と書いて、やはり「実」であると間違いを指摘されたことがあった。

 注意されて、名前を間違う失礼を詫びて、二度と間違わないようにと、自らを戒めたも

のだが、それでも間違うのが人間である。

 名前を間違われた側の人間の反応は、人それぞれかもしれないが、少なくとも筆者の場

合はA氏とは真逆、対照的である。

 名前を間違われても、肩書を間違われても、笑う程度で怒ることはしない。誰でも間違

いはある。自分が気にしなければ、不愉快の輪が世界にまで広がることもない。

「こだわる」とは辞書にあるように「小事にとらわれること」である。バカにするつもり

はないが、自分にあるいは名前にこだわる人たちを見て、いつも「小さな自分になりたい

んだ」と、筆者とは異なる思考方法、行動様式の人物だと思うだけである。


 先輩・田原総一朗の手法

 先輩ジャーナリストの田原総一朗氏は、相手をわざと怒らせて、本音を引き出すことを

取材の手法として、意識してやっていた。

 彼の挑発に乗って、思わぬ本音を吐露したり、いつもとちがう一面を見せたりするわけ

だが、何事にも偶然はあるようでない。

 筆者の名前は、特に間違えるような名前とは思えないが、変換ミスのせいか、時に「和

弘」とか「一広」などと、書かれてきたりする。

 しかも、そう書いてくる相手は、筆者を大事にしてくれている親しい人たちである。そ

の彼らが間違えるのは、初歩的なミスのはずだが、それを間違えられて逆上する人物・A

氏と同じ反応をしていれば、折角の貴重な人間関係は壊れてしまう。仮に壊れることがな

いとしても、呆れられること必定である。

 何しろ、その一人は筆者に自分がやっている事業並びに地域起こし・地域貢献を、自ら

の人生に絡めつつ、一つのレポート・本にまとめてほしいと考えている人物である。

 その人物が名前を間違えて「和弘」とプリントされた封書や手紙を寄越すわけである。

ただのミス・勘違い以外の理由があるわけがない。

 もう一人、今年届いた本2冊の宛名が、やはり「和弘」になっていた。ずいぶん長いつ

きあいの相手だが「アレッ!?」と違和感を抱いたのは、人は誰でも自分の名前の間違い

には敏感だからである。

 大企業の危機管理・広報を専門にしてきた同氏は、筆者の仕事ぶりを評価してくれてい

るようで、貴重な情報提供の他、様々な取材等の機会を設けてくれていた。先年、ライフ

ワークの決定版として出した、分厚い1万円近い本も贈呈してくれている。

 今年届いた2冊のうちの1冊は、その本から派生した専門書で、もう1冊は地方の成功

者(ある業界の日本一)が書いた本である。面識のない相手からなので、不思議に思った

ところ、同氏から紹介されて送られてきたものであった。

 彼が筆者を紹介するに値するとして、推薦してくれた結果だが、名前を間違えて伝えて

いるため、宛名が「和弘」となっていたわけだ。

 しょせん「名前」などは、単なる記号・レッテルである。本名は和廣だが、筆名は和宏

が主で、新刊の筆名は策毘頼である。和廣は、昔から普通に「和広」と書かれていたが、

それを間違いだと、その度に逆上していては、人間関係を損なうばかりである。

 名前を間違われて怒るA氏は、自分がいわば試されていることに気がついていないので

はないか。


 人は常に試されている?

 今回のケースで、実はもっと重要なことは、そもそもの紹介者である野村社長とA氏の

関係である。

 筆者は「ウエルネス」の『νG7量子水』(ヒカルランド)の著者であると同時に、多

くの著作を持つジャーナリストとして、いまも『読売年鑑』の「分野別人名録(報道)」

に名前が掲載されている。昔は本名の「和廣」、最近は筆名の「和宏」としてである。

 A氏から「信頼できない」と言われる筆者が、30年以上前から住所氏名を掲載してき

たのも、表向き公明正大を旨とするジャーナリストとして、個人情報を隠すつもりはない

からである。

 しかも、野村社長との古いつきあいの結果、出版された『νG7量子水』の表紙には、

「本物しか扱わない信頼できるジャーナリスト」と書かれている。

 そのジャーナリストをA氏が「信頼できない」ということは、筆者の個人的なミスが原

因とはいえ、ジャーナリストあるいはジャーナリズム全体の信用にも関わるということで

もある。「読売新聞社」をはじめ、ジャーナリズム全体を「信頼するに値しない」と宣言

しているようなものだ。

 近年の新聞ジャーナリズムは、案外その通りの状況のようにも思えるが、されはさてお

き、もっと重要なことは「信頼」関係があって、本まで書いているジャーナリストを、名

前・肩書がまちがっていたからと言って「信頼できない」と決めつけることは、結果的に

本づくりに協力した「ウエルネス」並びに野村社長を信用していないということにつなが

っていくということに気がついていないのではないか。

 開き直っているようだが、そうではない。「犬も歩けば」と先に書いているが、ジャー

ナリストのすることに、基本的に無駄はない。

 ジャーナリストは有名人をはじめ、多くの尊敬されている人物の意外な弱点、知られざ

る素顔をかいま見る機会が少なくない。

 日本の代表するA氏のケースも、自分が試されているとの自覚がないまま、ジャーナリ

ストの前で自らの弱点、上に立つ人としての至らなさを露呈したと思えば、田原氏と異な

り、偶然のミスの結果とはいえ、A氏の意外な一面を引き出し、素顔を露呈させたとすれ

ば、筆者の間違いも、ジャーナリストとして多少は意味のある体験ということになる。

 そこでは、人生論などで、よく見かける文言であるが、神になのか、何になのかさてお

き、人は常に自らが試されているということである。

 野村社長から届いたA氏のメールに、思わず「そんなに自分の名前が大事なのか」と、

間違いを詫びる心よりも、珍しいモノを見つけたようで、呆れて「人間ができていない。

誰しも間違いはある」「それで人を指導する資格があるのか」と返信したのも、その真意

は、自分の間違いを棚に上げてのことではあるが「人のことは言えない、明日は我が身」

であるからである。


 
 
 

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