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「ウエルネス」一口知識

歴史の中に見るベンチャーの宿命






 ビタミンB1発見者鈴木梅太郎とウエルネス・野村修之社長

「ウエルネス@TIMES」は、創刊の辞にもあるように、基本的に特定の企業や団体の利益を代弁するものではない。「良いもの」「良い情報」を伝えることを、第一の使命にしている。

 とはいえ、創刊のいきさつは「ウエルネス」(本社・大阪市)の野村修之社長の思いがベースにある。それが、新型コロナウイルスが世界中で猛威をふるい、多くの使者を出していることを憂慮してのものだ。

 メキシコ・プエブラ州の医療専門学校の研究所では、νG7量子水(リバース水=ヘキサゴン30)を用いることによって、300人以上のコロナ患者の98%以上が快復している。現地のデータが届いていることから、野村社長としては、何とかその事実・効果を日本の医療関係者のみならず、厚生労働省・メディア等に伝えようとしたのだが、いずれも無視されたため、何かいい方法はないか、いわば苦肉の策としてスタートした。

 すでにテレビ・新聞・雑誌などのメディアの時代ではないこともあり、単なるコマーシャルではない自社メディアをつくったほうが、長い目で見れば効果的である。そこで、読者・ユーザー等にも役立つ、いくつかのコンテンツを情報発信することにしたわけだ。


 野村社長とはどのような人物なのか。詳しくは「ウエルネス」の活水器νG7量子水に関する体験談、研究成果等を取材・レポートした『νG7量子水』(ヒカルランド)を見てもらうことにして、本では触れていない情報を紹介する。

 一九五二年に、長崎で生まれた野村社長は被爆二世として生きてきた。外見的には健常者と変わらないため、さほど意識することはなくとも、放射能の影響は彼の肉体の一部に確実に残っている。

 彼が単なるビジネス上の金儲けよりも、未来の子どもたちのためにと、ホームページ等で謳うのも、そのためである。

 社会人として働いていたある日、トラック事故にあって、その後遺症に悩まされたことは、本にも書いてある。だが、何とか原因を究明し、人並みに働けるようになりたいと思った彼に、病院は何の役にも立たなかった。そして、波動測定器や気功(レイキ)に出会って、やがて自分でも人の治療ができるようになっていく。

 もう一つ、彼が現代医療に不信感を抱くようになったのは、血栓症を患って20歳で亡くなった妹の治療に当たった病院の医師が、モノでも扱うように「快復の見込みはないので、学生たちのモルモットになる気はないですか。そうすればお金もかからない」と持ちかけきて、結果的に見殺しにされた苦い思い出があったためである。

 そうした思いをベースに、薬や医療機関に頼らずとも、健康を維持できるνG7量子水は開発・完成された。

 だが、医者でも製薬メーカーでもない野村社長が、いくら「コロナウイルスにνG7量子水が効く」と言っても、日本では相手にされない。わずかに遠いメキシコでコロナ治療に利用されている。その治療実績データを、何とか日本にも伝えようとするのだが、メディアをはじめ医療界、政界が無視をする。

 結果、折角の日本の技術が日の目を見ないだけではない。不安を煽るばかりのメディアや医療関係者によって、ワクチンだけが対抗策だとする風潮の中で、結局、欧米等の製薬・金融資本の思うつぼという展開をたどっていく。

 つまり、彼の科学・技術を理解し、協力してくれる科学者・医療関係者がいる一方で、門外漢として排除されるというベンチャーの悲劇に見舞われる。

 どこかで見たような光景ではないかと、近代の歴史を振り返るとき、当初、原因不明の日本の風土病と見なされた脚気を巡る一連のできごとが思い浮かんでくる。

 脚気の原因究明の過程で、そしてまた新たな栄養素ビタミンB1の発見、さらにはその発見によるノーベル賞(生理医学賞)という流れの中で、医学の本流ではなかったことから正当な評価を受けず、涙を飲んだ農芸化学者・鈴木梅太郎博士のケースに行き当たる。

 明治期の脚気については、東京帝国大学(東大)医学部でも、病原菌が原因であるとするドイツ学派の陸軍軍医・森林太郎(鴎外)と、栄養素の欠乏が原因であるとするイギリス学派の海軍軍医・高木兼寛とが対立したことは、よく知られている。

 日露戦争では陸軍に多くの脚気患者が発生し、かなりの数の死者を出したのに対して、海軍ではほとんど被害は見られなかった。

 1875年に、イギリスのセント・トーマス病院に留学した高木兼寛は、英国ではほとんど脚気患者がいないことから、栄養素の不足が原因だとして、白米からパン食に変えること、白米に麦を混ぜることで、脚気にかからないことを証明。ビタミン発見の先駆者となった。


 その後、1910年に鈴木梅太郎が米糠から新しい栄養素(ビタミンBIのこと)を抽出。アベリ酸(後にオリザニン)と名付けて、1911年1月「東京化学雑誌」に「糠中の一有効成分に就いて」とのタイトルで、脚気は玄米に含まれる物質が関与していることを発表している。

 鈴木の発表後、オランダの医師クリスティアーン・エイクマンが「脚気は玄米に含まれる物質が関与している」ことを発表、脚気治療への道を開いた。その一連の研究により、ビタミンが人間の健康維持に不可欠な栄養素だということを証明したイギリスの生化学者フレデリック・ホプキンスとともに、1029年にノーベル生理医学賞を受賞する。


 なぜ、最初の発見者・鈴木梅太郎がノーベル賞受賞を逃すことになったのか。

 一つは、論文を世界に発表する際に、ドイツ語の翻訳に当たって、オリザニンに関する「新しい栄養素」との一行が訳されなかったため、無視されるという不運があったこと。 もう一つは、当時の東大医学部のトップがノーベル賞候補を推薦する際に、自国の鈴木梅太郎ではなく、イギリスのホプキンスを推薦したためである。

 その背景にあるのが、東大医学部では病原菌原因説が有力であったことと、同じ東大でも鈴木梅太郎が医学部ではなく、農芸化学者であったことから「百姓学者が何をいうか」と、軽く扱われたためである。

 野村社長もまた、医学とは無縁である。「門外漢が何をたわごとを」とされる中で、実績・データのみを積み重ねてきた。研究データ、体験談が『νG7量子水』という一冊になっていても、なお素直に信じようとする者は少ない。

(次回は、免疫力の源「ミトコンドリア」の働きについて)



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