「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(11) 「店主としての小林氏」と「小林氏の趣味」について
- vegita974
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「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(11)
「店主としての小林氏」と「小林氏の趣味」について

21世紀から見る「理想と現実」
“立派な創業者”を持つと、後継者が苦労する。どこにでも、よくあることだが、そんな“将来”を思い描くのも、21世紀の今日の企業社会、その中で生きる「ライオン」を知っているからである。
創業後のライオン(小林商店)でのキリスト教信仰をはじめ、禁酒の店則、慈善券などは、画期的ではあっても、いささか極端である。そうした理想と社会の現実との乖離からは、当然ながら、かつて二宮尊徳が語った「報徳思想(経営)」、渋沢栄一の「論語と算盤」などに見られる日本的資本主義とは、微妙に異なる展開が待っている。
だが、それはまだまだ先のことである。
以下、加藤直士著『小林富次郎伝』は「店主としての小林氏」、「小林氏の趣味」へと続く。

* *
第19章「店主としての小林氏」
徒弟教育について記した後、考察すべきは、店主としての小林氏についてであろう。
世の中にはずいぶん多くの店員を雇用する店主もいるが、筆者はいまだかつて、小林氏ほど、その店員に心服された主人を他には知らない。
嘘ではない。ずいぶん威厳もあって、小林氏の一言は即ち店の憲法であったが、どうしても小林氏は主人というよりも、店員の親といったほうが相応しい。彼はどうしたら、金儲けができるだろうかと考えるよりは、常に如何にしたら店の人たちが楽しく喜んで働いてくれるだろうかと考えた。
そのため、彼は開店以来、特に禁酒励行後は一人も不祥事を起こして退店を命じた者がいないことを、何よりの誇りとし、また感謝もしていた。
高等教育を受けて、途中から入店した人の中には、都合により、他に転じた人もいないわけではないが、丁稚の時から手塩にかけて仕込まれた店員は、家事の都合その他、止むを得ない理由以外で、店を辞めた者はいない。
手当て(待遇)が、他店より特に良いというわけではないが、店全体、上から下まで、みな喜んで仕事をしている様子は、確かに他に羨望を抱かせるものであった。
どこに店主としての小林氏の秘訣があったのか、この点に関して、筆者は未亡人・あや子夫人の『新女界』に掲載された「思い出」の一節と、大阪支店長・井口昌蔵氏の談話を『新人』記者がまとめた「店員の見た小林氏」なる一文をそのまま転載することが、もっとも適当だと思う。
未亡人・あや子夫人曰く、
「亡くなりました主人は大層、店の者を大事にいたしました。食事なども必ず店の者と一緒に、同じものをいただきました。入浴は必ず店の者から先に入れました。夜12時が1時になりましても、店の者が入ってしまうまでは、決して家の者を入れませんでした。一度、私が『あなただけは先にお入りになっては』と申しましたら『いや店の者のお蔭で、こうして商売が栄えていくのだから』と言って、決して聞き入れませんでした。
また、店の者を決して呼び捨てにしたことはございませんでした。
何よりも、みなの者に神を信じ神の道をふみ行わせなくてはならぬと申しまして、毎朝家族の者と店の者一同に、聖書の講義をして聞かせました。
常に少しも小言というを申しませんで、毎朝の講義の時、それとなく注意をしていました。
初め、私も娘も神の道を存じませんで,お恥ずかしいことですが、一生懸命、講義をしているのに、眠くて眠くて、仕方がございませんでした。ついに、そのことを訴えますと『眠くても聞いておれ。何か少しは頭に入るのだから』と申して、決して咎めませんでした。
教会へも『今日は雨天ですかから、止します』と申しますと『それじゃあ止せ』。『今日は風が吹きますから止めます』。『それも良し』と、少しも強制しませんでした」
大阪支店長・井口氏は、店員中、もっとも小林氏に信用されていて、またもっとも良く小林氏を知っている人である。その井口氏曰く、
「私は19歳の時、小林商店の店員になった。当時店員は3~4人に過ぎなかったが、万事よその店と趣が違っていた。食事においても、同じちゃぶ台を囲んで、同じものを食べる。拭き掃除をしようとすると『お前は商売のために雇われてきた身だから、そんなことをするには及ばぬ』と言われる。実に店員を厚遇されるので、私は不思議な店だと思ったぐらいである。
店に入って間もなく、私が『写真を写しに行きます』というと、小林氏は奥さんを呼んで『写真を撮りに行くというから、自分のを出してやってくれ』と、夏羽織やら博多の帯まで出して、あれこれと世話をしてくれたことがあった。
一緒に旅行して宿泊した時には、風呂に入る段になって、どんなに『お先にお入り下さい』と言っても、決して入らない。『一緒に入ろう』と言って、必ず二人で入る。その時『背中を流しましょう』と後ろに回っても、ついに一度も背中を流させてもらったことがない。
また、朝、目が覚めても、小林氏は私が起きないうちは、決して先に起きてこない。床の中でジッとしていて、私の起きるのを待っている。店に泊まったときでも、朝、店のほうで掃除が済むまでは、決して店に顔を出さなかった。
すべて人の迷惑するようなことは、自分がいかに辛くても、決してしなかった人であった。
夜も9時10時になると、小さい丁稚などは居眠りをすることがある。ちょうど白河夜船(居眠り)の最中に、主人が外から帰って来られた。そこで、大番頭が急に小僧を起こして『それ旦那様のお帰りだ』と揺すぶった。その時、小林氏は起こすのを止めて『子どもを急に起こすと怯えることがあるから、起こす時には静かに起こしてやれ。ただし、小僧は疲れているのだろうから、寝かせたらよかろう』と言われたことがある。これが、普通の店なら頭から怒鳴りつけるところだが、私は一度もそういうところを見たことがなか
った」
小林氏はいかにして店員を教育するかについて、よほど苦心をしたものと見えて、愛読している聖書の中には、この問題に関して自ら感じたことを書き入れてある個所が多い。
そこには一店の主人たる責任を、いかにして全うすべきかを聖書によって学ぼうとした形跡が歴々として残っている。
『新約全書』テモテへの手紙(提多書)第2章7節以下「汝、何事をなすにも、おのれ善行の模範とならんことを務め、教えを伝うるに信実をもってし、恭しく責むべき所なき正しき言を表すべし」とある聖句の上には「主人たる者、長者たる者の責任なり」と色鉛筆で書きつけてある。
実際、小林氏は主人たるの権威をもって人の上に立とうとはせず、実践し修得することによって人を率い、徳をもって大衆を感化しようと心掛けたのである。ゆえに、聖書の中で主キリストが活ける模範として、弟子たちに教えている個所は、小林氏のもっとも深く感動したところであった。
また、ルカ伝第10章35節以下45節までの記述、即ちゼベダイの子ヤコブとヨハネの2人がイエスのもとに来て、神の国(信仰の世界)において、一人はその右に、一人はその左に座することを許してほしいと願ったときに、イエスの答えた有名な一言「イエス彼等を召して言いけるは、異邦人の国では、支配者と見なされている者がその民を治め、また守護者たちが権力をふるっている。これ汝らが知るところなり。しかし、汝らの中では、そうであってはならない。汝らのうち、支配者となろうとする者は、みなに仕える者とならん。また汝らのうち守護者になろうとする者はすべての人の僕となるように。それは、人の子(われわれ、人間)は人に仕えられるのではなく、かえって人に仕えるため、多くの人に代わって、その命を捧げ僕となるためなり」とある個所には、多くの点を付して、その上に、
「以下、我が店則の奥義、即ち一家を治めるにも一店を経営するにも、一会社も一国家も同様、その首領たる者の深く心得べき奥義なり」
と、墨くろぐろと書き入れてある。「人の上に立つ者はかえって人の僕となるべし」とある教訓は、小林氏の全力を挙げて実行しようと努めたところであって、彼がよく店員を心服させた秘訣は、実に愛にあった。
小林氏がいかに店員から敬服されていたかは、大阪支店の丁稚小僧までが大主人の来阪を喜ぶこと、大変な様子で、小林氏の滞在中は店中、何となく喜びに満ちて、一層元気良く立ち働くことになり、本店に帰られた後には「この次はいつお出でだろう」としきりにその日を待っていた一事でもわかると思う。これが他店なら、ずいぶんちがった反応があるようである。
また、彼は公平という事をもっとも多く心掛けたようである。かの聖書にもある5つのパンと2尾の魚によって5000人を養ったという奇跡の記述のところを、常識的に解釈して、以下のようにある牧師に語った。
「私は主人たる者が、店員・従業員のすべてを公平に待遇して、みなの心に満足するようにいたすならば、いかに多くの店員があっても、不平を訴える者がなく、あたかも主が5000人を養って、なおそのパンの屑が12の籠に満ちるようなものであると考えます」
こうした解釈は、みな小林氏の実体験から来るものだと思われる。
長い年月の間、小林氏による日夜の祈りは、速やかに店員全部を自分と同じ信仰の道に入ってほしいという一事にあった。ただし、信仰上のことはまったく人の自由意志によることで、主人といえども強いることはできない。それでも、小林氏が自ら模範となったことにより、同年11月には一大信仰の復興ともいうべき現象が小林商店内に起こった。氏の実弟・山岸氏の甥の松岡氏、及び小林友三郎氏等をはじめとし、店員の主なる者が手を携えて、洗礼を受けキリスト教信者となったのである。
この時の小林氏の喜びは例えるにモノなく、巨万の金を儲けたにも勝って、神に感謝を捧げた。小林氏が自ら、洗礼を受けてキリスト教信者となってから、この時に至るまで、実に16~7年の歳月を要した。蒔かれた種はいつか生えることがある。小林氏はその愛する家族、並びに店員の間に自分と同じ信仰の芽が生えたのを見て、主人としての自己の責任が初めて尽くされたかの如く感じたであろう。かくして彼は精神面での後継者をつくったのである。
ちなみに、一言すべきは、小林氏の親友・村田亀太郎氏の改宗についてである。村田氏は小林氏と30年来の親友であるが、いまだ一回も直接に改宗を勧められたことがなかった。村田氏は常々、小林氏の言行によってキリスト教の良いことを知っていたが、老母が堅い日蓮宗の信者であるため、改宗を躊躇していた。
しかし、同氏は小林氏の永眠後、深く自ら感じるところがあってか、間もなく決心して洗礼を受けた。こうして30年間の無言の伝道は遂に友人の霊魂を救うことに成功した。
こうした例は、一人田村氏だけではなかった。

第27章「小林氏の趣味」
小林氏は極めて淡白な趣味の人であった。従って、これといった特別の娯楽があるわけではなく、衣食住ともに日常生活は飽くまで質素を旨とした。
若い時には気前も金放れも良いので、交際面ではずいぶん持てたそうだが、それでも放蕩に耽って、醜態を演じるようなことは毛頭なかった。小林氏は遊ぶにもきれいに遊んだとは、彼の一老友が筆者に語った一言である。
彼は非常な美声家で松前節が何よりのお得意であった。晩年に及んで、親睦会の席でも請われて、よく唄ったものである。生来、陽気で賑やかなことを好んだ人で、わけても家族の団欒ほど彼にとってうれしいことはなかった。
彼にもし、商売以外の娯楽があったとすれば、それは孫たちを相手に遊ぶことと、気の合う教友と信仰談議をすることであった。彼は9人の孫を持っていたが、子煩悩と見えるほど、彼らを溺愛した。
遠く旅行をしているときに、孫たちより手紙でも来るならば、必ず涙を流して喜んだ。
その旅行より帰るときは、必ず一人ひとりに年齢に応じたお土産を買ってきた。
自らは常に病身であり、自分の健康のために湯治や転地療法などしたことはほとんどないが、ただ孫たちの健康のためには、どこにでも療養に連れていった。
彼は生まれつき快活の人であって、なかなか頓智に富み、諧謔の趣味もあった。彼が晩年、聖書を愛読するにつけ、冗談の中にも聖書の言葉が口をついて出たので、時としては少々神聖を損なう嫌いがあるとの苦情が出たくらいである。
例えば、教会のある歓迎会の席上で、親子丼の御馳走が出たとき、小林氏はあいさつして「これは三位一体の御馳走であります。即ち父(鶏)と子(卵)と精霊(精米)であります」と言って、一座を哄笑させたことがある。
このような滑稽趣味が、多少度を越して、時に人から注意を受けたこともあった。またクリスマスの余興には、同年輩の老人たちを促して、巧みに茶番・狂言を演じたこともある。
小林氏は座談の名人であった。その諄々と語る話には、言いがたき妙味があって、人をしていかにもと感心させた。
あるとき、店員の一人が、小林氏のもとに来て、仕切りに現今の社会は経済本位なることや、生存競争のひどく激しいことを論じて、果ては聖書に「人はパンにのみにて活きるに非ず」とあるのを、回りくどいと主張した。
この時、小林氏は頷きながら聞いていたが、やがてその人に向かって、では君に尋ねるが「人はパンのみにて活きるものなりと言って、それで満足できるか」と、逆に尋ね返したので、その青年は「なるほど、それでは満足できません」と告白したそうである。
また、彼はある禁酒会の懇談会で鋭い質問を受けた。それは我々が何かの勲功で、恐れ多くも天皇陛下から天盃をいただく場合になったら「自分は禁酒会員だから」と言って、盃を手にしないわけには行くまい。「その際に、禁酒会員はいかに処すべきか」というのであった。
言下に、小林氏は答えた。「それは何でもないことだ。お酒をなみなみと注いでいただいて、それを頭の上に高く捧げて、頭から天盃の酒を浴びるが良い。まさか天皇陛下でも害になるものを、強いて飲めとは仰せられまい」と言ったので、一座の人々はみなこの奇想天外の一言に開いた口が塞がらなかったそうである。
また、彼がインドに旅行中のことであった。取引先のインド人が、小林氏がインド語を解しないことを、どうして忘れたのか、通訳の不在中に仕切りに小林氏に話しかけて、そのへんの景色を指さして、さも得意そうに、お国自慢を述べたてた。
小林氏はやがて気がつくだろうと、辛抱して聞いていたが、そのインド人が滔々と語り続けて、なかなか止めない。そこで小林氏は頓智を効かせて、今度は自分が日本語で何でもかんでも、出鱈目に富士山のことや琵琶湖のこと、果ては松島・日光の壮観など、手振り身振りを交えて、盛んにしゃべり続けたので先方は呆気にとられて、ただ呆然として聞いていた。
やがて先方も気がついて、二人して大笑いしたということである。商売上の談判にもこの種の頓智をもって、巧みに困難な問題を円滑に解決した例が数限りなかった。
最後に付け加えるならば、彼の最大の娯楽は、慈善の行為であったことは否定できない事実であった。善をなすを喜ぶという点において、筆者はいまだに小林氏に勝る人を知らない。彼は人の喜ぶのを見て、心から自分が喜んだ人である。
わずかの慈善の行為で一家の飢饉を救うことができるのを見て、彼は「もったいないほど安い道楽です」と語っていた。
最初は義務の気持ちから恵みもしただろうが、後には一種の本能のように自然と善事を働いたようであった。
彼が禁酒事業にもっとも興味を感じたのも、これによって現に、その人のみならず、その一家を地獄の火から救い出すことを実体験したからである。「禁酒を実行して、幸福になった人の身の上を見るときに、これほどうれしいことはありません」と話して、自分も涙することを常とした。
小林氏がいかに聖書の愛読を趣味にしていたかは、これまでにも述べたから、ここには繰り返さない。彼は聖書の真理を悟り得たところを信仰の友達に語って、意見を尋ね、互いに実体験を語り合うことを何よりの楽しみとした。
また、教会や禁酒会の席上、自分の体験談を語ることは、晩年における彼の最大の楽しみであった。商業上の旅行中でも教会や禁酒会の演説会にはわざわざ滞在してでも出席したものである。
彼の地方旅行は商売半分伝道半分という有り様であった。このように小林氏の霊的趣味は年を取るに従い、段々と進んでいった。
海老名牧師が「小林氏が、なお20年も生きていたなら、確かに近世における聖者となり得たであろう」と言われたのは、決して大げさな言ではないと信じる。

* *
聖書の翻訳について
小林氏の趣味も、結局のところ「キリスト教信仰」ないしは「聖書」ということになりそうだが、氏の語る「聖書」の引用文は、当然ながら明治時代の訳が中心である。そのため、改めて現代訳との比較を試みるため『聖書』(財団法人「日本聖書協会」)を用意した。カトリックのシスターをしていた叔母の形見である。
「序文」の末尾に1987年9月と記されている。翌1988年に出版されたもので「新共同訳・旧約聖書続編つき」とあり、帯に作家・遠藤周作氏の顔写真入りの「推薦のことば」が載っている。
「聖書は何度も翻訳されていいと私は思っている。それほど聖書の翻訳は困難なのだ。可能な限りの聖書学的正確性と共に、やはり魂にしみこむ言葉に置きかえてほしいからだ。
この辛い課題をプロテスタントとカトリックの共同事業で、肉迫したのが今回の聖書訳である。私はその御努力に満腔の敬意をささげる一人である」と。
遠藤氏の言葉は、キリスト教に疎い者には、意外とも言える『聖書』の真実に関する指摘である。
事実、明治期の文語調の『聖書』の翻訳が、そっけないほど簡潔なのに対して、近年はよりていねいな記述になっている。わかりやすくという個別の説明や解釈を加味して、結局のところ、遠藤氏のいう「聖書は何度も翻訳されていい」との記述に至っている。つまり、聖書の翻訳は、いまなお決定版はないということである。
事実、小林氏の引用している、例えば「ルカ書」の該当部分は、容易に見つかるが、新約全書「提多書」第2章7節以下は、手元の『聖書』では章立てにはなっていない。「テモテへの手紙二」に相当するはずだが「節」も用いられていないため、容易にたどり着けない。
そのため、ネットを検索して「ウィキソース」(電子図書館)にある明治元訳「新約聖書」(大正4年)/提多書を当たれば、小林氏の引用が、その第2章7節だとわかるといった具合である。
どのような事情かはさておき「聖書」は、明治期から、今日まで、意外な変遷を経ているわけである。







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