「報恩講」で唱えるお経の意味について 知らなくても功徳の得られる信仰の不思議!?
- vegita974
- 1 日前
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「報恩講」で唱えるお経の意味について
知らなくても功徳の得られる信仰の不思議!?

越後七不思議「逆さ竹」
2025年10月26日、新潟市の浄土真宗(本願寺派)の「鳥屋院北山浄光寺」でも宗祖・親鸞聖人の恩徳(遺徳)を忍ぶ「報恩講法要」が開催された。多くの真宗寺院では著名人を招いたり、目玉になる何かを用意したり、特別のイベントをしているところもある。
その日の北山浄光寺では、いつもと同じように門徒一同が正信念仏偈(正信偈)を唱和し、新住職の法話などによる法要を終えている。
北山浄光寺は親鸞聖人が越後に流された際に、開山したという由緒あるお寺である。同じ浄土真宗でも特別の存在として、多くの図書館にある『新潟県の歴史』(山川出版社)にも記載されている。親鸞聖人の「越後七不思議」の一つ「逆さ竹」とともに北山浄光寺が紹介されている。
逆さ竹とは、親鸞聖人が布教の際、なかなか仏の功徳を信じる人がいないことから「もし仏意に叶えば、必ずこの竹も根づく」として、手に持っていた竹の杖を地にさしたところ、逆さに枝葉がつく竹になったというもので、国指定天然記念物になっている。
同じく、佐渡に流された順徳天皇の行幸が記録されているなど、由緒あるお寺だということがわかる。
近年、墓仕舞いや全国各地での廃寺の進行が止まらない中、一般的にお寺とのつきあいも疎遠になるばかりである。北山浄光寺なども、しばらく正式な住職がいないまま、まさにお寺の存続さえ危うい状況に置かれていた。そんな折り、5年ほど前に経済面での再建を含めた「護持会」が発足して、少しずつ本来のお寺の姿にもどりつつある。
何しろ、浄土真宗最大のイベント「報恩講」自体、長年開催されることなく、4年前に再開されたぐらいで、いまだ再興の途上である。
筆者は縁あって護持会の発起人の一人に名を連ねたとはいえ、町内会役員などと同様、積極的ななり手などいない。最終的に、まさかの「阿弥陀くじ」によって、門徒総代の一人となった。だが「阿弥陀くじ」はいい加減のようでいて、決まってみれば適材適所の結果に、その炯眼・眼力(?)に驚くほかはなく、通常は見られない様々な光景にも出会える。

梵語の持つ力
報恩講で唱和された「正信偈」は、親鸞聖人の主著『教行信証』の巻末にある詩句であり、親鸞聖人が念仏を正しく信ずることの喜びを詠まれたものということである。
筆者も学生時代に『教行信証』を買ったことがある。だが、何の自慢にもならないのはパラパラとめくっただけで、読んではいないからだ。
法要に勤行は付き物であり、お寺での「総会」では「讃仏偈」(仏説無量寿経の中にある詩句)、報恩講では「正信偈」を唱和するのが、恒例になっている。だが、ありがたいはずのお経も、筆者などは当たり前にありがたいものとして受け止めているが、理屈や知識に照らして理解しようとすれば、わかるようでいてわからない、難しい言葉の羅列でしかない。
事実、北山浄光寺での報恩講の終了後に行われた護持会での役員会の席上、同じく阿弥陀くじで選ばれた護持会会長が「お経は意味がわからないので、最初に説明した上での勤行のほうがいいのでは?」と語っていた。
確かに、その通りである。
だが「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということわざもある。普段から見聞きしていると、知らないうちに物事をおぼえてしまうとの意味である。あるいは「読書百遍意自ずから通ず」とは、初めはわからない難しい書物も、何度も繰り返し読んでいるうちに、自ずと理解できるようになるという意味である。
かつての日本では、寺子屋などで「論語」など四書五経を、意味のわからないまま読ませていた。一見、ナンセンスなことのようであっても、黙読ではなく、特に音読の場合、その効果が顕著であることは、よく知られている。
理由はいずれのことわざにも共通するのが、結局のところ、言葉は波動だからである。
神社仏閣がパワースポットになる時代に、氏子も檀家(門徒)も減る一方だが、その反面、数十人の僧侶による「声明(しょうみょう)」イベントが、多くのクラシックやロック・歌謡ショー同様、全国各地の大ホールなどで開催されている。
そこでは、いわばお経を高いお金を出して聴いているわけである。
普通に考えれば、お寺に行けばいいだけのことのようだが、理屈ではわからない良さがあるからこそ、イベントとして人気になるわけである。
そこでは言葉は、まさに波動であり、お経、つまりは梵語(サンスクリット語)そのものに、力があると信じられてきたという歴史と伝統がある。
いまでも真言宗や修験の世界では、手を組み合わせて印を結び、梵語による真言を唱えることで、多くの法力を得る。
そんな梵語(サンスクリット語)の持つ力については、ずいぶん前に群馬のマクロビオティック指導者・石田英湾氏から聞いたことがある。
もともと、言葉の持つ力について調べていたという石田氏によれば、お経のサンスクリット語には唱えるだけで、様々な力があったのだが、いつの間にか、葬式仏教の道具として唱えられるだけで、本来の力を失っていったということだ。
その石田氏には古代書「ホツマツタヱ」の中にあるというアワ歌について書いた『言霊アワ歌の力』(群馬マクロビオティックセンター)との書物もある。
サンスクリット語のお経同様、言葉(アワ歌)には霊験あらたかな力があることを紹介したものであり、秘かなブームになっている。

お経の現代語意訳
そうした梵語の持つ力も、世俗に塗れて、いまやすっかりその本来の力を失っている。
とはいえ、お寺での行事・法要に参加したときに唱和する「讃仏偈」や「正信偈」とは一体、どのようなお経なのか。改めて、調べてみた。
個人的にはお経の意味などほとんど考えることなく、お経の言葉(梵語)のシャワーを全身に浴びて、お寺の本堂内での、いわばライブの力に心の垢などを洗い流して、本来の魂の在り方を、多少なりともリセットしてきたようにも思う。
だが、世間はそれでは満足しない。肝心のお経の意味がわからないままでは、ありがたみも半減するということか。
「讃仏偈」はその言葉通り、仏を讃美する「偈」である。「偈」とは辞書によれば「仏の功徳をほめたたえる詩」である。仏の素晴らしさを称賛する詩を唱えることで、仏と一体になる波動共鳴効果が得られるのかもしれない。
「正信偈」は念仏を正しく信じることの喜びを詠んだものである。
例えば「讃仏偈」は「光顔嶷嶷 威神無極 如是焔明 無与等者」と始まる。「こうげんぎぎ いじんむごく にょぜえんみょう むよとうしゃ」と読む。
このうち「嶷」はさとい(聡い)という意味である。あとは、漢字を見れば、何となくわかるようだが、以下に続く原文も似たようなものである。
参考までに「わが家の宗教を知るシリーズ」の『浄土真宗本願寺派のお経』(双葉社)の「現代語意訳」によれば「光輝くお顔は、厳かにして、その威力は限界がない。そうした光明は、ほかに等しきものはない」というものである。
一方「正信偈」は「帰命無量寿如来 南無不可思議光 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 都見諸仏浄土因」と始まる。「きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこうほうぞうぼさついんにじ ざいせじざいおうぶつしょ とけんしょぶつじょうどいん」と読む。
「現代語意訳」は「はかりしれない寿命と、人知およばぬ光明をそなえた阿弥陀如来に帰依したてまつる。その昔、阿弥陀如来が法厳という菩薩であったとき、世自在王仏のもとで、諸仏の浄土のいわれや」云々というもので、阿弥陀如来に帰依する親鸞聖人の喜びとともに、釈迦の教えを継ぐ7人の高僧たちの徳を讃えている。
だが、波動も信仰心も目には見えない。お経の言葉を頭で理解しても、一般的には仏の功徳が限りなく、阿弥陀様のありがたさが眩しいと理解できるぐらいである。神・仏の世界は常識や知識の力で把握しようとしても、限界がある。
現代語意訳に接して、理解できたとしても、それで納得できるかどうかも、その人次第ということである。

奇跡を信じない現代仏教界
親鸞の七不思議「逆さ竹」をはじめ「真言宗」弘法大師・空海の数々の奇跡も、現代の科学に照らし合わせれば、奇跡のエビデンスは各地の逸話や遺跡としてあるようでも、再現性はあるようでない。
昔、お世話になった真言宗の大和尚が真言密教によって、難病を治していた。その法力は東京にいて、九州や北海道の信者にも遠隔治療という形で働いていた。その様子を、間近で見ているだけに、彼の法力は弘法大師の技を現代に伝えるものだとわかる。だが、その法力は真言宗の本山・高野山からは異端とされていた。
伝統仏教の立場からは、そんな新興宗教紛いなことは認められないということのようだが、そのこと自体、弘法大師の奇跡を否定するというナンセンスな在り方だということに気がついていない。
仏教がかつては持っていた法力を失った結果、形式中心の葬式仏教になって、久しいものがある。
実は浄土真宗も似たようなもので、図書館に並んでいる「わが家の仏教・仏事としきたり」と冠した『浄土真宗』(日東書院)を開いてみると、そこには「科学的」との言葉が登場する。
監修者は西原祐治氏。1992年宗教法人「西方寺」設立。初代住職と肩書にある。この手の本づくりは、出版社がいわゆる編集プロダクションを使って、関係者の取材と同時に、資料をまとめて一冊に仕上げる。
監修者がもっとも関与する部分は、本書の場合、目次に続く、自分の名前を用いている「浄土真宗の教え」である。
そこには、例えば「浄土真宗の教えは、阿弥陀如来の働きによって、どのような人でも無条件に浄土に往来し、仏になるという教えです」「仏を礼拝し、仏の教えを聞き、念仏をとなえ、仏を思う。そうした一つひとつの営みが、阿弥陀如来の働きと願いにもとづいたものであることに開かれていくことなのです」と書いてある。
なるほど、もっともらしいが、問題は特に戦後、伝統仏教が衰退する中で、その間隙を縫って興ってきた、いわゆる新興宗教を敵視するあまり、彼らが示す奇跡を「反科学的」との表現を使って、自らの課題、迷える大衆を救う道を放棄する理由にしていることであろう。
もともと真言宗も浄土真宗も、当時は新興宗教である。人々を救うため、空海同様、親鸞聖人は奇跡(越後七不思議)まで示している。自分たちができないからといって、科学を持ち出すのは、宗祖の面目を潰すことになるはずだが、そんなことを言っていては、一冊の本にもならず、住職などもやっていられない、そういう時代ということである。
そんな時代だからこそ、声明が流行るように、案外、ただお経をライブ感覚で唱えつつ浴びているほうが、本来の信仰の在り方に近いのかもしれないと思う。







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