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「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(12)  小林氏の欧米漫遊、東洋旅行について

更新日:3 時間前

「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(12)

 小林氏の欧米漫遊、東洋旅行について


 明治期における海外視察

 再三の大患後のビジネス面での飛躍について、神の恩寵と感謝するクリスチャン実業家「ライオン」創業者の小林富次郎氏は、一時は死を覚悟し、遺書の用意までする事態を、病床で聖書に向き合うことによって、まさに生還したことから、ビジネスに復帰後、長年の夢であった海外漫遊を行った。

 それは療養を兼ねた海外漫遊とはいえ、同時に商業視察とライオン製品の拡販、海外との契約、支店の設置など、将来を見据えた経営者としての最後の仕事でもあった。

 加藤直士著『小林富次郎伝』には、明治期の歴史的な背景について「日露戦争」での戦勝の様子がサラリと書かれているだけだが、小林氏が世界漫遊を行ったのは、中国では明治33年(1900年)の「義和団の乱」つまりは「北清事変」とも呼ばれる清朝末期の混乱期の後のことであり、明治37年(1904年)に勃発する「日露戦争」渦中のことである。

 ライオン創業者は、まさに将来を見据え、世界を相手にした先進的な経営者だったことがわかる。

 以下、加藤氏の『小林富次郎伝』の第20章「小林氏の欧米漫遊」、第21章「小林氏の東洋旅行」である。

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 第20章「小林氏の欧米漫遊」

 小林氏の生涯の飛躍は、いつでも大患の後に起きている。慈善券の発行、禁酒事業の開始、その他の社会事業に着手したのは、明治33年(1900年)の大患から全快した後のことであった。いかなる人でも大病にかかって死と直面するとなれば、神妙になるものである。

 ただし、意志薄弱なる人は全快後、そのときの決心を続けることはできない。しかし、小林氏の場合は大患の度にあたかも熔炉の中から出てくる純金のごとく、その生涯に更なる光輝を放たないことはなかった。

 彼はいくたびか死を覚悟して、しかも不思議にも全快するため、天が余命を自分に課すのは必ずや深き神意の存するところであろうと信じて、余生を世のため、人のために捧げようとの決心を強くしてきた。

 特に小林氏の精神的進歩は2度目の大患、即ち明治37年(1907年)の春に胆石症にかかって、まったくの危篤に瀕したときに起こった。彼の信仰生活の上からは、最初のときは例えば旧き衣を脱ぎ捨てて新しい衣を着たようなものであり、2回目はその新しき衣が「マタイによる福音書」の「山上の変貌」のときのように、雪のごとく白く輝いたのである。

 この点は氏の葬式のときに海老名弾正牧師がその説教において、高らかに強調していたところである。実際、これらの2大疾患が小林氏の生涯に与えた影響は、誰の目にも明らかであった。

 同年4月には胆石症で、いよいよ危篤に陥ったので、家族友人等はみな覚悟を決めて、

葬式の準備にかかり、自分も遺書を用意しようと思ったところ、その深夜、最後の思い出にと看護婦に命じて、ベッドの上で最後の祈祷を捧げた。

 それは雲のごとく咲いた満都の桜が夜半の嵐に吹き散らされる4月半ばのこと。不思議にもまたまたこの日を病勢の頂点にして、回復に向かい、7月にはまったく平常の身となった。

 この病中において、医者の禁じる日以外は、1日として聖書を読まないときはなく、病床は小林氏にとっては、あたかも祈祷の座のようであった。このときまで、なお信仰の心の起きなかった妻女や店員の多くも、まことの小林氏の生活を目撃して信仰のいかに大切なるかを悟った。先にも述べたように家族・店員挙って、洗礼を受けて同じ信仰の人となったのは、この年のことである。

 二度の大患により余命のあまり長くないことを自覚した小林氏は、積年の希望であった世界漫遊の挙を今のうちにと思い立った。家族の人々も、また平癒感謝の意味もあって、欧米漫遊を小林氏に勧めた。

 そこで翌38年(1905年)4月に、いよいよ商業視察の傍ら世界漫遊の途についたのであるが、何分病身のことでもあり、また心の友に同伴してもらわねばならぬとの家族の判断により、当時、伝道の傍ら外国貿易部の顧問を兼ねていた筆者が通訳兼相談相手というよりも、むしろ看護人として、同行することになった。

 小林氏と朝夕寝食を共にして数万キロを踏破することになった旅行中の8カ月は、筆者をして、さらに深く小林氏の人柄に敬服させることとなり、旅行中の約束である伝記を草しつつある筆者の心眼には、気高き彼の霊の姿が彷彿として浮かび上がってくる。

 ああ聖なる記憶よ。愛する友は去って、また帰らざるも、汝のみ永久に我が心にとどまりて、ありし昔を忍ばしめよ!

 小林氏の欧米旅行は、もともと漫遊の目的であったが、若いときから商売を唯一の娯楽とした小林氏のことである。観光のみで満足できるはずがない。彼は同時に欧米市場に自社製品の販路拡張を試みようとの壮大な計画を抱いていた。

 彼のこの目的は不思議なことに、予想外の好結果をもって達することができ、小林商店はこれにより、急速なる発展を遂げることとなった。即ち、小林氏は日本から見本を持っていって、至る所で商談を試み、英米2国にライオン歯磨の有力なる一手販売店を定め、また当時、彼の副業であった経木真田(きょうぎさなだ=経木を細くして真田紐のように編んだもの)、石鹸製造等の業務に関する十分な調査を行って帰ってきた。

 まず、ロサンゼルスに立ち寄り、太平洋沿岸の諸市を巡遊した後、シカゴに出て、その地の石鹸大手J・S・カーク商会と契約して、合衆国、カナダおよびメキシコにおける歯磨の一手販売を任せることとした。

 中央及び東部諸市を視察した後、7月中旬にはニューヨークを出発して、英国に渡り、そこでは原料輸入のため、多年の取引のあった香料製造家J・ビーブッシュ商会と契約して、同社をヨーロッパの一手販売店とした。

 そこからベルギー、ドイツ、オーストリア、イタリア、スイス及びフランスを漫遊して英国にもどり、商務の都合で帰路を再び米国にとって12月に無事、帰国することができた。

 洋行中の小林氏の健康は、不思議に思われるほど壮健であって、英国上陸前後に腰痛で困ったことの他、一日も病気にかかったことがなかった。

 これは大いなる神の恩寵であったが、同時に大いなる祝福と言わねばならぬことは、小林氏の洋行時期の最善であったことだ。あたかも、日露の戦争が連戦連勝の有り様で、東洋の一国が一躍して世界列強に伍するに至ったので、我々は至る所に戦勝日本の紳士として歓待された。

 何事につけても、暗い面を見ることなく、あくまで明るい面を見る小林氏は、この至る所の歓迎によって、大いなる好意を欧米の国民に対して抱くに至った。日露戦争以前はもちろん、日本人はとかく一種の軽蔑をもって迎えられ、その後は戦勝の日本に対する不安と恐怖の結果として、日本の海外旅行者はずいぶん不愉快な扱いを受けたものだが、一人小林氏は訪問時期が良かったため、終始快適に世界を見物して帰ったのである。

 ただ、そのためだけでもあるまいが、小林氏は徹頭徹尾、欧米諸国の長所・美点だけを観察して、これを本土への土産にした。帰国後、彼があらゆる機会を利用して、欧米視察中に我が国の商業道徳に論及し、彼の国の長所をもって我が国の短所を補わんと努力したのは、我が国の実業界にとって、もっとも有益なることであった。

 小林氏の旅行日記の末尾には「欧米旅行の感」と題して「米の活動、英の正直、独の貯蓄」と大書し、その下に一々、見聞による実例を記している。彼が至る所に、商業上の感ずべき事物を見出した中にも、もっとも多く彼を感動させたのは、シカゴのカーク商会の主人が、その店員の一人ひとりを同氏に紹介して、この人は何十年勤務し、何々の特技があるなど、各々その長所を称揚されたこと。英国ポート・サンライトのリーバ・ブラザース商会(現ユニリーバ)が、最近20年間に世界最大の石鹸工場となった秘訣について、小林氏がその総支配人に問うたとき、それはただ正直な品物をつくり続けたからで、他に何も秘訣はないと言ったこと(リーバ商会は当時、資本金1億4000万円、事務員800人、職工8000人、一週間の石鹸製造高6000トン。製品運送用の大汽船16隻を有す。これわずか25年間の発展による)。

 英国人がビジネスマン(商売人)という名を重んずることは、あたかも我が国では、往時の武士の名におけるが如きものであること。フランス・パリの商店が世界の顧客を相手に遺憾なくその便宜を図っていること(例えばルーブル商会には、その場で客の買い物を小包にして世界の至る所に無償で送り届ける設備がある)。また、欧米各国に慈善事業の発達していることなどである。

 小林氏が旅行中、一人ひそかに誇りを感じていた点は、いかなる宴会の席にも、禁酒禁煙を断行して、何の不都合もなく通してきたということであった。これは禁酒家としてあえて珍しいことでもないが、氏は日本では酒なしに商売がしにくいという意見があるのを常に慨嘆しているため、この旅行中、禁酒主義により、かえって大なる利益を得たことを、強調していた。

 例えば、英米の大手商会と名誉ある契約ができたのも、ドイツのケルン市の一大工場より、その商品の日本一手販売権を与えられたのも、これらはみな禁酒断行より来た信用の結果であると自負していた。事実、そうかもしれない。

 とにかく、彼は日本のクリスチャン実業家として、かつ商売人たる禁酒家として、世界を旅行することができたことを、実に愉快なこととしていた。同時に、彼は幸いにして、先方の良いことばかりを学んできた。

 彼は帰国後、欧米の悪口を言う人々を評して「悪いことを見てくるくらいなら、初めから大金をかけて洋行などしないほうがいい」と話していた。実際に、ある名士の言った如く、世界を見てくるには、その人相応の脈絡がある。即ち、金の脈をたどって行く人は、終始、金の脈を見て帰り、鉛の脈をたどる人は鉛しか見て帰らぬものである。

 小林氏の如きは確かにその最良の鉱脈をたどってきた人である。帰国後、小林氏の見識といい、人格といい、一段の高きを加えたのは、まったく欧米の先進国において大いに学ぶところがあったからであろう。小林氏は物質的文明の繁栄を見て、驚いたばかりではなく、さらに多く精神的文明の発達を見て驚いたのである。まさに欧米旅行は小林氏にとっての一大事であった。

 第21章「小林氏の東洋旅行」

 明治38年9月の末、小林氏と筆者とがイタリアの水郷ベネチアに滞在中のことであった。そのころの筆者の日記に次の一節がある。

「夜、小林氏とともに中国貿易の経営談を試みる。ともに大いに有望なるを感ずる。氏曰く、いまから5年間ほどは自分の健康も大丈夫だろうから、その間に国外に出かけて、子孫のために、商業の基礎を据えよう思うと。大計画、まことに称賛に値する」云々。

 この一夕、話がついに事実となって、小林氏は欧米漫遊より帰った翌39年(1906年)6月より8月まで、満州・韓国・北清(中国)地方に旅行し、さらに同年10月より翌年5月に至る8カ月間、南清(中国)及びインド地方にかけての大旅行を試みた。

 小林氏の欧米旅行は商業視察を兼ねての漫遊であった。ただし、この前後2回の東洋旅行はまったくこれと趣を異にし、どこまでも東洋諸国に自社の商品を売り広めんとする目的で、出かけたものであった。

 思うに欧米の大旅行に慣れた身体には、いまのうちに対中国、対インド商業の基礎を築こうと、ここにその一生における掉尾を飾る大活躍を演じたのであろう。そのため、小林氏は両国共、大阪支店長の井口氏と他に1名の通訳を伴って出かけた。

 満韓(満州・韓国)旅行のほうは、東京における実業組合連合会の企画による、いわゆる利源調査委員の一行に加わって行ったのだが、小林氏はこのとき、早くも北清に支店を設ける必要を認めて、天津の地に支店を置く準備をほぼ整えて、いったん帰国した。こうして、小林氏は十分に利源調査の目的を達した。

 満韓旅行より帰って、休養わずか1月半の後、小林氏はさらに中国およびインドをライオンの商圏にすべき計画をもって、出発した。即ち、明治39年(1906年)10月、東京を発し、北京に赴き、天津に滞在すること50余日の後、陸路にて漢口(現・湖北省武漢市)に至り、揚子江を汽船にて上海に下り、次に香港、漢東(中国東部)、シンガポール、ペナム(マレーシア)、マドラス(インド東海岸)、コロンボ(スリランカ)の諸港を経て、この旅行の最終点たるムンバイ(インド西海岸)に達し、帰路には陸路カルカッタ(インド東部コルカタ)、ラングーン(ヤンマーの首都ヤンゴン)を過ぎ、香港にもどり、それよりルソン(フィリピン)を往復、上海を経由し、翌年5月、無事帰国した。

 常に小林氏の商運は、順調であって、本業のライオン歯磨の如きは氏の洋行前に比し、約5割の需要増加を示した。小林氏が中国及びインドに着目したのは、そこに商品の販路を開拓しようとの大計画に他ならない。

 そこで彼は予定のごとく、天津に支店を設け、歯磨及び他の化粧品、語学蓄音機、並びに国内の諸商店より委託された時計、楽器、売薬等の商品を取り扱うことにした。これについては一美談がある。

 それは小林氏が先年、洋行より帰ったとき、大阪商業会議所において、視察談を大阪の実業家に向かって試みたとき、その席にいた仁丹店主・森下博氏が小林氏の演説の誠実・親切なることに感動し、即座に自分の商品を小林氏の天津支店に委託する決心をした。

 森下氏曰く「私は今日まで無数の人と取引したが、いまだかつて小林氏のごとく他人に対して親切な心を持っている人に会ったことがない。たいていの視察報告は自分に都合の良いところだけを報告し、肝心要の点になると口を噤んで、自らその利益を独占しようとする。ところが、小林氏は何ごとも腹蔵なく打ち明けて、少しでも他者の利益になるように話そうとの真心があふれている。このような人に商品を委託するのは、自ら出店よりも利益になり、かつ安全である」と。

 さすがは森下氏の活眼である。この「親切」の二文字は、小林氏の商業のやり方を評するのにもっとも適した表現である。森下氏の売薬の他、時計や楽器の委託を受けたのも、恐らく同一の原因によるものであろうと思われる。

 小林氏は支店を天津に設けると、間もなく漢口に向かって出発し、同地にも1支店を開いた。なお、上海にも1出張所を設けて、後にこれを支店とした(これらの各支店には松岡、杉田2氏のように親戚一族をその支店長としているが、これは小林氏の成功の一因たる同族主義に関係することなので、ここに一言しておく)。

 小林氏はこの旅行でも、至るところ、機会の与えられる限り、禁酒演説をなし伝道説教を試みた。そのもっとも象徴的なエピソードの一つは、天津及び漢口における開店披露の際、同地の習慣たる酒宴を張ることをすべて止めにして、その費用を地元の日本人協会等に寄付したことである。

 その後、大阪において、同支店拡張披露会を大阪ホテルで開き、数百名の取引先を招待したときも、小林氏自身が禁酒会員であるゆえに、一滴の酒も出さず、その代わりに余興や装飾等に力を入れ、かつ来場者一同に絹地一巻ずつを引き出物として進呈したことがある。

 酒好きの連中は当初、すこぶる不平の体であったが、酔いもしないので、真っ直ぐ家に帰った。それだけでも妻子の喜ぶところであるのに、立派な反物の土産を見て一層、喜んだのであろう。妻子も喜べば、自分もうれしい道理で、この宴会に招かれた多くの関西商人は、いずれも小林氏のやり方に感激したとのことである。

 小林氏はその同行者たる神谷氏と共に、それよりタイ、中部ベトナム、ミャンマー及びインドの諸港を視察し、それぞれ商品の取引店をつくり、十分に視察の目的を達して、翌年5月、無国帰国した。

 小林氏の中国・インドにおけるこれらの活動は、氏の語っているように、まったく子孫のために計画したものであって、いずれの支店も最初のうちは、引き合わず、少なくとも10年計画でなければ、多少の利益を上げる見込みがなかったものである。

 貴重な資本をすぐには役立つとも思えない方面に投ずるのは、容易なことではないが、小林氏は万難を排して、大胆にもこれらのことを決行した。当時、人はみな小林氏の無謀を笑った。しかしながら、まだ10年計画の半ばも経ないうちに、各支店は優に収支が合うのみならず、多少の利益を収めるようになったとのことである。いまとなっては、人はみな小林氏の卓見に感服するほかはない。

 小林氏はこの旅行においても、黄金の鉱脈をたどっていったので、至るところに良友を見出し、歓喜と感謝のうちに東洋の天地を、いわば踏破することができた。帰国後、小林氏は筆者に向かって「欧米においては商業の組織を学び、後に中国・インドにおいて、これを自社の商売に適用することができた。天の指導は決して偶然ではないことを信じて、感謝に堪えない」と語った。

 まことに、小林氏は前後3回の大旅行を経て、事業上における自らの最後の義務が果たされたかのごとく感じ、大きな満足をもって、余生を楽しむ気になったようである。それからは、商業上のことは、家人・店員に一任して、自分はひたすら思いを精神上のことと公共上のことに注いで、出来るだけの善事を尽くしたいと心掛けていたようである。

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 次回、第22章「小林氏と青年会事業」へと続く。

 
 
 

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