「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(15) 小林氏の聖書と信仰生活について
- vegita974
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「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(15) 小林氏の聖書と信仰生活について

小林氏の「趣味」?
今日、日本の資本主義の原点である渋沢栄一翁の「論語と算盤」の考え方と同様の価値を持つと思われる「ライオン」創業者・小林富次郎氏の「事業と聖書」について、いわばビジネスと信仰の2つを矛盾なく両立させた、その生涯は、希有であるとともに、良い意味での信仰の力を教えている。
『小林富次郎伝』の著者・加藤直士氏は、小林氏がキリスト教信仰から、人生上のすべての教訓を「聖書」の中に見出し、実行したと指摘している。「小林氏と信仰生活」の章では、その信仰生活を3期に分けて、小林氏の精神的向上の道のりをていねいにたどっている。その内容・人生は著者ならずとも、敬服すべき内容だということがよくわかる。生き馬の目を抜くと言われる実業界にあって、企業ライオンを成功させたのであるから、実に稀な生涯にして、まさに「聖書を抱えた経営者」の面目躍如である。
なお、第26章「小林氏と聖書」と第28章「小林氏の信仰生活」の間には、原著では第27章「小林氏の趣味」の一章が挿入されている。その27章は、本連載ではすでに第11回目に「店主としての小林氏」と一緒に掲載している。
「小林氏と聖書」の後に「小林氏の信仰生活」が続いたほうが、違和感がないと判断してのことだが、その趣味も、加藤氏が「小林氏は極めて淡白な趣味の人であった」と書くぐらいで、結局のところ「聖書」の愛読こそが、小林氏の趣味ということになる。

第26章「小林氏と聖書」
小林氏が聖書の愛読者であることを知らない者はなかった。彼の唯一の教育は聖書によって得られたということができる。かつ、目が不自由であった小林氏にとって、聖書はほとんど唯一の読み物であった。
彼が家庭にあるときは、朝起きて顔を洗うやいなや、まず机に向かって瞑目した後、聖書を開いて、その1、2章を音読して、巻を閉じた後、簡単な祈りを捧げることを第一の日課とした。
一時、店から別れて小石川丸山町の住宅にいたころは、妻女をはじめ下女下男にいたるまで、一家をあげて朝の家庭礼拝に集わせて、自ら聖書の講義をしていた。また、店に同居していたときは、店員を残らず2階の広間に集めて、同じく聖書の講義をした。
もとより、小林氏は学問的に聖書の研究をした人ではない。ゆえに、その講義はどこまでも常識的で、自己の体験より来た小林氏一流の解釈を施したものである。従って、ずいぶん無理な解釈の仕方もあったが、一々自分の体験に照らして、一種の自由な解釈をするため、専門の聖書学者も到底及ばないほどの妙味を聖書の中から引き出すことができた。
このようにして得られた聖書の教訓は、必ずこれを実行に移そうと心掛けた点が、小林氏のもっとも偉いところであった。救世軍の山室軍平氏が小林氏の追悼演説において「私は今日まで、多くの聖書を読む人々に接した。しかしながら、まだ小林氏のごとく実行的にこれを読んだ人を多く見ない」と言われたのは、誰しも同意するところである。
聖書を実行的に読むということが、即ち聖書を活かして読むことである。ゆえに彼は時として、眼光紙背に徹すがごとき、その本質をつく見解を持っていた。彼は比較的無教育で、何らの新知識を持てなかったにもかかわらず、海老名牧師のもっとも進歩的な神学思想を理解することができ、かつその主張に対して、無条件に賛同できた。
海老名牧師はかつて、筆者に向かって「どんなことを言っても、決して私を誤解しないのは、多くの聴衆中、ただ小林君だけである」と言われたことがある。真に、小林氏は海老名牧師の最高最深の宗教思想に同感しえるだけの宗教的修養を積んでいた。宗教のことは教育の多少によるものではないことが、このことからもわかる。
何事も悟りの早い人で、聖書の難解な場所などは、わずかなヒントが与えられれば「アッ、わかりました」といって、全体の意味を解するのを常とした。小林氏の聖書の悟りについて、もっとも良き一例は本郷教会の副牧師である野口末彦氏の著書で語られている。
野口氏曰く「かつて小林氏は私に向かって聖書の『人の子』という解釈について、私は多くの信者がキリストを神としなければ満足できないことが、よくわかりません。キリストご自身が『人の子』と仰せられたところに、有り難みが十分に含まれていると話していたので、私が本当にそうです。旧神学者の言う人とキリストの言われた人とは意味が違います。私どもの信じるキリストは、真の人間で、それが即ち神の子ですと、しみじみ聖書の意味を吟味しているようであった」。
小林氏は自宅用の大型の聖書と旅行用の小型の聖書と2冊持っていたが、そのどちらのほうにも黒、赤、青の鉛筆で余白のないほど、いろいろなことが書き込まれている。無論度々聖書を読み返したのであるから、前年、青鉛筆で感じを書いている場所には、今年赤鉛筆でさらに新たな感想を書き加えるという有り様で、試みに詳しくその書き入れ内容を研究してみれば、小林氏の信仰の発展の道行きが歴々としてそこに読まれるのである。いま、一々それらを列挙することはできないが、ここには単にその書き入れの数個の例をあげるに止めよう。
「ヨハネ伝(ヨハネによる福音書)」第20章17節の「わたしの兄弟たちの所に行って『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またはあなたがたの神であられるかたのみもとへ上っていく」の上には「同父同神、この御言葉により人間の幸福は無限なるを知る」と書き入れてある。まさに、この一句は小林氏がもっとも深く吟味した愛読の句であった。「わが父、すなわちあなたがたの父」とキリストが述べたところにキリスト教の奥義が言い尽くされていると、彼はしばしば人に語った。
また「ルカ伝(ルカによる福音書)」第14章28節以下、キリストが弟子たちに向かって「あなたがたのうちで、だれか邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足るだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか」云々と言った記述の上には「以下、事業を興す者の奥義なり。この言葉は真理なりわれ十分の経験を得たり、この奥義は子孫に申し伝えよう」と書いてある。事をなすに当たっては、将来のことを熟慮して、まず十分に予算を立て、その方法なども練りに練って、その後、断固としてこれを行うというやり方が、小林商店の終始変わらざる方針であった。小林氏はよほどこのイエスの教訓を大切にしていたと見える。
また「ガラリヤ人への手紙」第6章8節以下の「すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会あるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」とある個所には「これ、世に処するの道なり。蒔かぬ種は生えぬ」と書き入れてある。
同じく「処世の秘訣」と書き入れてある「聖書」の個所は「マルコによる福音書」第9章の35節以下「そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた。『だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕えるものとならねばなららない』」とあって、イエスが幼子の一人を弟子たちの中に立たせて、謙遜と柔和を教えた「聖書」の個所である。小林氏が一家を治め一店を治めるのに、何事も自ら率先して少しも主人風を吹かせず、あたかも使われる者のようであったのは、氏の店員教育の秘訣であって、またその成功の奥義であったことは、先にも述べた通りである。
また「マルコによる福音書」第9章43節以下の「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい」云々とある個所には「以下、自衛の奥義」と記してある。克己とか自制などと言わずに自衛と言ったところに、小林氏の深い悟りがあったようである。氏は好んで、禁酒演説にこの個所を引用して、一身一家の幸福を全うすべきことを切言した。
小林氏の宗教的自覚をうかがうべき「聖書」の書き入れは、同じく「マルコによる福音書」第7章の14節以下である。即ち「イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。『あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい』」とある個所には「悟りは本心の開発である。悟りということについては、我らのうちには必ず主と同じ思いとともに悟り得ることを喜ぶべし」と記入している。「悟れ(悟るがよい)」の一語に、このような深い意味を見い出した小林氏には、よほどの徹底した自覚があったのだろうと思われる。
この他「使徒伝」第11章29節の異国の弟子がガラリヤの兄弟の窮乏を救うために金品を送る記述のところには「信者たる者のなすべき義務なり」と書いてある。「ルカ伝」第16章15節の「神はあなたがたの心をご存じである」云々のところには「この御言には、我、大いに恐るる。まず神の前に正しかれ」と書いて、「ピリピ人への手紙」第1章21節以下「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」云々とあるところには「信仰の力と勇気の深さは、ここより出る」と書いて、同じく28節の「何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは彼らには滅びのしるし、あなたがたには教えのしるしであって、それは神から来るのである」とあるところには「大胆な行為はかえって安全」と書き入れてある。
要するに、小林氏は人生に処する一切の生ける教訓を「聖書」の中に見出して、これを実行してことごとく、その真理なるを確かめた。故に彼の「聖書」の知識は活ける知識である。理屈や研究で得た知識ではない。「聖書」の一言一句の味わいをどこまでも噛みしめて、そこに限りなき妙味と滋養とを見出したのである。
山室軍平氏が「聖書」の実行的読み方と言ったのは、このことである。筆者は小林氏とともに海外旅行中、氏が寸暇あればポケットの中から小型の「聖書」を取り出して、あの不自由な目で熱心に読んでいるのを見る度に、心密かに敬服していたものだが、彼の死後その愛読の「聖書」を詳しく調べてみて、いっそう敬慕の念を深くした。小林家はこの2冊の「聖書」を何よりの家宝として永久に保存されるであろう。そうして小林氏の信仰もまた永久にその子孫によって、伝承されるであろう。

第28章「小林氏の信仰生活」
小林氏の信仰生活は3つの時期に分けることができる。明治21年(1888年)彼が神戸において洗礼を受けてから同33年(1900年)の大病のときまでを第1期とし、この大病から37年(1904年)の2回目の大病までを第2期、このときより同43年(1910年)に永眠するまでを第3期とするものである。
もちろん精神面での発達に関することであるから、正確に年月を画して論ずべきものではないが、しかしその信仰生活の発展の跡から見れば、これらの3時期のそれぞれに小林氏の信仰生活には著しき飛躍が起こった。
いま、試みにこれら3時期における彼の信仰状態をおさらいして見るならば、第1期は小林氏にとって明らかに霊と肉との相争う時代であったと思う。もちろん、過去の罪を悔い改めて洗礼を受けたのは、彼の霊魂の目が開けて新しき生涯に一歩を踏み出したものである。しかしながら多くの信者の体験するように、洗礼を受けてから数年の間は、いまだ十分に精神面での面白みもわからず、時として物質的欲望のためにせっかく開けた心の目を曇らせることが有り勝ちである。
小林氏も当時は、なお商業上の最大奮闘期にあって、そのほうでの思い煩いも容易なことではなかったことと、いまだ飲酒の悪習を脱することができなかったので、一面では信者の生活を送りながら、他の一面では俗界の習慣から足を洗うことができず、一進一退、信仰の世界を出たり入ったりしている有り様であった。
もちろん、他の落伍者のように当初の信仰心を失うようなことはなく、いかに一時は距離を置いても、ことに触れて再び信仰の芽を吹き出した。例えば、かの石巻における大失敗の当時、小林氏は失望のあまり、危うく神も仏も見失ってしまおうとした。しかし、このときもまた「聖書」の一句によって、その眠れる信仰を呼び起こされ、再び信仰の人として蘇生したことは、読者のすでに知るところである。その他、この第1期において、彼の信仰生活は、一浮一沈、幾たびか危機に瀕したこともあった。筆者がこの時代を称して、霊と肉の相争う時期と名付けるのは、特に的外れでもあるまい。
しかるに、明治33年の大患は小林氏の信仰生活に驚くべき進展を与えた。このときを境に、彼は信仰の第2期に入った。長い間、一勝一敗の状態にあった小林氏の霊と肉の戦いは、このときいよいよ肉に対する霊の勝利に帰した。
彼は病中の決心として、まず第一には禁酒禁煙を断行した。この禁酒のことは、多くの信者にとっては、さほどの大事件でもないと思われるであろうが、小林氏にとっては、キリスト教の信仰が具体的にその果実を結んだと見るべき生涯の一大事であった。長く、小林氏とともに本郷教会の執事を勤められた松浦一雄氏は、親しく筆者に向かって「小林氏の信仰の著しき進歩は、その禁酒以降にあった」と告げた。なるほど、一事は万事である。
多年の悪癖に打ち勝って克己の体験をなし得た小林氏は、自らその他一切の、この世の誘惑に勝ち、いよいよ霊の生活をしつつ肉の生活の上に君臨することができたのである。
この克己的修養の当然の結果として起こるものは諸々の社会的善行である。小林氏が慈善券を発行し、禁酒会に尽力し、また青年教育に熱中し、あるいは伝道事業に参加するなど、着々と社会的活動に力を尽くすことになったのは、このときからである。即ち、この時期における小林氏は、いわゆる「信仰による行」をもって、神の栄光を現さんとする努力に余念がなかった。
最初の時期が霊肉争闘時代であるならば、第2の時期は外部的勝利の時代と名付けるべきである。霊による肉の征服とともに、今度はもろもろの善行に励んで、社会的に新たなる生命を発揮してきた。内部の争闘はようやく止んで、外部の奮闘における信仰の勝利は着々と、この時期に花開いた。あたかも、この時代には小林氏の事業のほうもまた、成功の域に達したのであって、様々なる社会事業を実行するのに必要な手段は豊かに彼に与えられた。
小林氏が事業家として慈善家として、またキリスト教信者、禁酒主導者として、図らずも世に名声を揚げるに至ったのは、まさにこの時期である。従って、彼はますます神と人とに対して、自己の尽くすべき責任を感じ、この責任をまっとうせんがために夜を日に継いで、奮闘努力した。今日、世上、いくぶんか小林氏を知っている者は、この第2期の外部的勝利の時代におけるのことである。まさに事業上並びに精神上における小林氏の成功は単にこの時期だけでも偉大なりと言うべきである。
しかしながら、小林氏の信仰生活にはいま一段の高きものが現れてきた。筆者はこの最後の一時期を称して内部的向上の時代と名付けたいと思う。これは氏が第2回の大患より全快した後、事業上のことは一切、これを嗣子・徳治郎に任せて、自分は比較的閑散の身になるとともに、驚くべき精力をもって、まっしぐらに信仰生活の霊的修養の方面に奮進したからである。
まさに小林氏の信仰生活の最大飛躍は、この最後の6〜7年間に起こった。この時期にかつて愛読しつつあった「聖書」の意味が非常によくわかり始め、キリスト教の真髄は、彼のますます明確に認めるところとなった。精神上の高尚な趣味が自然に彼の心に湧いてきた。そこで一人外部に向かって社会的な善事を行うだけではなく、一歩進んで己が霊性の内部に神の国を実現することに努めた。
信仰生活の深い方面を味わえることが何よりの楽しみとなるとともに、彼の精神面での満足も、この内面の向上によって十分に満たされた。歓喜と平和と希望とは、彼の全身全霊に満ちあふれた。このとき以来、何事につけても彼はただ感謝の人となった。柔和なる彼は、ますます鳩のごとく柔和になった。謙遜なる彼は、嬰児のごとく謙遜になった。彼が最後に出席した明治43年(1910年)の組合教会総会では、多くの友人がその人格の玲瓏玉のごとく聖化された姿を見て、知らず知らず敬意を表したくらいであった。
この総会において、小林氏は演壇に立ち、一場の信仰談を試みた。これが恐らく彼の最後の講壇であって、越えて2カ月後には彼はもはや、その世の人ではなかった。
小林氏はその信仰生活の第3期に入ってから、一方ではますます謙遜と柔和の徳が養われてきたにかかわらず、いつしか大胆にも「私の中には神の子がいらっしゃいます」と公言するに至った。彼が臆せずして、教会の講壇に立ち、伝道に熱中するに至ったのは、まったくこの驚くべき宗教的自覚のしからしむるところであった。思うに、彼は自分のうちに神の子を見出すと同時に、他の同胞兄弟のうちにも同じく神の子の姿を認めて、その救いに奮闘努力するのを禁ずることができなかったのであろう。
彼は健康と時間の赦す限り組合教会の拡張伝道その他の宗教的運動に参加し、至る所に大いなる感動を与えた。その演説説教によって、悔い上げて信者となった者も、決して少なくはなかった。明治43年の春、日向における伝道旅行のごときは確かに専門の伝道者以上の働きであったとのことである。
彼が家族店員の全員を導いて、キリスト教信者とすることができたのは、即ちこの時期のことである。明治33年の大患のときは、身すでに危篤に瀕しながら、その家族の中にはいまだ彼の信仰を受け継ぐべき一人の信者もいなかった。このとき、彼が海老名牧師に遺言したのは、他でもない。自分の死後、家族の者を導いて信者とすることを願った。当時、彼には事実上の後継者はあっても、信仰生活の後継者なきことはそのもっとも悲しく思ったところである。
しかるに、この大患より癒えてから、小林氏の信仰は一段の進歩を来すと同時に、その感化はまず第一に家族と店員とに及んだ。いまや店主の富次郎氏(徳治郎氏、襲名して富次郎氏となる)をはじめとし、店員・親戚こぞって神を信じ、キリストを信じる人となり、しかもこれらの人々は心を同じくし力を合わせて、逝ける小林氏の志を継いでいる。
いま、その一例をあげれば、小林氏の死するや本郷教会はその柱石の一人を失って、大打撃を受けたのだが、当主の富次郎氏はその後、多額の資金を月々、同教会に献金して、もっぱらこれを伝道上のことに用いられるようにした。このことにつき、同氏が筆者に語られたことは「親父が存命していれば、月々これだけのお金は生計費として入用です。従って、これだけ献じるならば、要は親父が生きていて伝道しているのと同じようなものですから」と。ああ、これは何たる美事であろう。
小林氏の多くの友人は、小林商店の事業について、氏逝くといえども何ら懸念するところはない。ただその信仰上の後継者は果してどうなるのかと案じておった。ところが、当主・富次郎氏はついに伝道上の志を継いで、かくのごとき美事をなすのみならず、自ら亡父に代わって教会の要務に当たり、かつ小林氏の生前においてすら断行できなかった日曜全休のことも、当主の代となって、いよいよこれを断行した。
ちなみに、この日曜全休問題は多年間にわたる小林商店の懸案であった。氏が洋行中、深く感ずるところがあって、帰朝後に断行するとの決意を持っていたものだが、いまだ決行の機会を得ないまま、小林氏は永眠した。そこで当主の富次郎氏は亡父の遺志を継いで、いよいよ本年1月より、これを断行することにした。
このように、まず小林氏は霊肉争闘時代より進んで、外部的勝利の生涯に入り、さらに一転して霊的向上の域に進み、最後にその志を子孫に伝えて、事業も信仰も二つながら、有力なる後継者を残して、自らは天父の懐に凱歌を奏した。筆者が小林氏の信仰生活から多大の教訓と奨励とを受けざるを得ない理由である。
以下、第29章は「小林氏の終焉」である。



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