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「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(17) 小林氏の「聖書日々実行録」(先代の言葉)1月について

「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(17)

小林氏の「聖書日々実行録」(先代の言葉)1月について


イエスと親鸞聖人


「聖書」は、当たり前だが、キリスト教信徒にはわかりきった内容でも、多くの日本人にはなじみがない。


筆者の場合、キリスト教系の大学に入って、当時は「聖書講読」などの必修科目もあって、大学内にある教会の牧師の話を聞き、賛美歌を口ずさんだり、ミサ(キリスト教の儀式)に参列したこともある。


しかも、生涯独身の叔母は、カトリックのシスターであった。その意味では「聖書」は身近にあったのだが、その叔母は教会で大規模な葬儀を行った後、教会の墓地ではなく、「先祖の墓に入りたい」と言って、無事、浄土真宗本願寺派のお墓に眠っている。


先代の住職とは親しい間柄であったので、叔母のわがままをそのまま聞いてくれたのかと思ったが、必ずしもそうではないようだ。浄土真宗はなかなか合理的な、自由な宗教のようで「イエスの説いていることは、浄土真宗で親鸞聖人が説いていることと、ほとんど同じではないか」と語っていた。


なるほどと思いつつも、現実には「聖書」もキリスト教も聞きかじりの知識があるだけで、大した予備知識があるわけではない。そのため、小林氏の「聖書日々実行録」を転載し、現代語訳するに当たって、意味のわかりにくい言葉、人物、エピソードなどを、改めて調べながら、読み進んでいった。


一部、日々の「聖書」の言葉に続く解説部分は、キリスト教になじみがない読者にも、多少は理解しやすいようにと、筆者が調べたことをメモしたものである。


「聖書日々実行録」1月


1月1日 「世界の光現れる」

「聖書の句」 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った。ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました。(「マタイによる福音書」第2章1以下)


1月2日 「人の命より神の命」

「聖書の句」 彼らはその星を見て、非常に喜びにあふれた。頼み、家に入って、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬(もつやく)などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。(「マタイによる福音書」第2章10以下)

(※乳香とはボスウェリア属の樹脂からできる天然香料のこと。ヘロデとはユダヤ王ヘロデのことで、ベツレヘムで生まれた幼な子が、自分の地位を脅かすのではないかとの不安を覚えて、いまのうちに抹殺しようと企んだとされている。)


1月3日 「水の洗礼と、火の洗礼」

「聖書の句」 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。斧(おの)がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。(「マタイによる福音書」第3章9以下)

(※洗礼者ヨハネが、イエスについて語っている言葉である。)


1月4日 「武士の心」

「聖書の句」 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるのである』と書いてある」(「マタイによる福音書」第4章4)

(※この日「武士の心」の表題をつけているのは、ちょっと不思議にも思える。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という『葉隠』の一節からなのか、いわゆる「武士は食わねど高楊枝」から来ているのか。たぶん信仰に関する覚悟が、武士の心得に共通するということだろう。)


1月5日 「ただ神を拝せよ」

「聖書の句」 イエスは彼に言われた。「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と書いてある。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使いたちがみもとにきて仕えた。(「マタイによる福音書」第4章10以下)


1月6日 「天の声」

「聖書の句」 この時からイエスは教を宣(の)べはじめて言われた。「悔い改めよ、天国は近づいた」。(「マタイによる福音書」第4章17)


1月7日 「心の貧しき者は福」(9福の1)

「聖書の句」 イエスはこの群集を見て、山に登り、座につかれると、弟子(でし)たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。(「マタイによる福音書」第5章1以下)


1月8日 「哀れむ者は福」(9福の2)/「柔和なる者は福」(9福の3)

「聖書の句」 悲しんでいる人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐだろう。(「マタイによる福音書」第5章4以下)


1月9日 「義を慕う者は福」(9福の4)/「憐れみある者は福」(9福の5)

「聖書の句」 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるだろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。(「マタイによる福音書」第5章6以下)


1月10日 「心の清き者は福」(9福の6)/「和平を求める者は福」(9福の7)

「聖書の句」 心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。(「マタイによる福音書」第5章8以下)


1月11日 「義のために責められる者は福」(9福の8)/「主のために罵られる者は福」(9福の9)

「聖書の句」 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(「マタイによる福音書」第5章10以下)



「敵を愛せよ」


1月12日 「汝らは地の塩なり」

「聖書の句」 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。(「マタイによる福音書」第5章13)

(※地の塩とは、イエスがこの世を腐敗から守り、良い味わいを与える存在としてのキリスト者としての役割を語ったものである。)


1月13日 「汝らは世の光なり」

「聖書の句」 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡(ます)の下におく者はいない。むしろ、燭台(しょくだい)の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(「マタイによる福音書」第5章14以下)


1月14日 「成就するためなり」

「聖書の句」 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。(「マタイによる福音書」第5章17)


1月15日 「神の御前に立つ時」

「聖書の句」 祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。(「マタイによる福音書」第5章23以下)


1月16日 「奪うことなかれ。ただ然り然り、否、否と言え」

「聖書の句」 わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座(みざ)であるから。また、地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは「大王の都」であるから。(「マタイによる福音書」第5章34以下)

(※イエスが「いっさい誓ってはならない」というのは、偽りの誓いを立てるなということで、不誠実さを問題にしている。表題の「ただ然り然り、否、否と言え」は、同じ章の37の一節であり「ただ、神に従う」ということだろう。)


1月17日 「敵を愛せよ」

「聖書の句」 わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。(「マタイによる福音書」第5章44以下)


1月18日 「人に見せるために義(ただしき)をなすなかれ」

「聖書の句」 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。(「マタイによる福音書」第6章1)


1月19日 「祈祷の態度」

「聖書の句」 あなたは祈る時、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(「マタイによる福音書」第6章6)


1月20日 「天に財を蓄えよ」

「聖書の句」 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人(ぬすびと)らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ、自分のため、虫も食わず、さびもつかず、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。(「マタイによる福音書」第6章19以下)



「狭き門より入れ」


1月21日 「義は神の祝したまうところなり」

「聖書の句」 何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(「マタイによる福音書」第6章31以下)


1月22日 「親子の情感は神と人との情感である」

「聖書の句」 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるだろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与えるものがあろうか。魚を求めるのに、ヘビを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。(「マタイによる福音書」第7章7以下)


1月23日 「狭き門より入れ」

「聖書の句」 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていく者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(「マタイによる福音書」第7章13以下)


1月24日 「ことごとく天国に入るにあらず」

「聖書の句」 わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨(みむね)を行う者だけが、はいるのである。(「マタイによる福音書」第7章21以下)


1月25日 「罪人の救い」/「弱きを助けたまう神の心は、即ちキリストなり」

「聖書の句」 イエスはこれを聞いて言われた。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か。学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(「マタイによる福音書」第9章12以下)


1月26日 「新しきものと、旧きもの」

「聖書の句」 だれも、真新しい布きれで、古い着物につぎを当てない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に、入れるべきである。そうすれば両方とも長もちするであろう。(「マタイによる福音書」第9章16以下)


1月27日 「終わりまで忍ぶ者の福」

「聖書の句」 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないが良い。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって、語る父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(「マタイによる福音書」第10章19以下)


1月28日 「恐れるべきもの」

「聖書の句」 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。殺すことのできない者どもを恐れるな。(「マタイによる福音書」第10章28)


1月29日 「主を通して父母を見よ」

「聖書の句」 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。(「マタイによる福音書」第10章37以下)


1月30日 「父子の間にはただ愛あるべし」

「聖書の句」 そのときイエスは声をあげて言われた。「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。知識を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。(「マタイによる福音書」第11章25以下)


1月31日 「われ汝らを休ません」

「聖書の句」 すべての重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるだろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(「マタイによる福音書」第11章28以下)


小林氏の語る「聖書」の言葉は、明治から大正にかけてのものなので、現代語訳をするに当たって、まずは「聖書」を用意して、引用のカ所を特定する必要がある。


本連載の11回目に、作家・遠藤周作氏が「聖書の翻訳は困難」と書いているように、また「聖書」は、常に訳が更新されてきているために、どのような、いつ発行の「聖書」を用いるかによって、ずいぶん印象の異なることがある。


そこで、引用するに当たっては、明治から大正期にかけての格調高さは失われたとはいへ、もっとも相応しいと思われる日本国際ギデオン協会発行の「聖書」(NEW TESTAMENT)を用いることにした。

 
 
 

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