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「日本のドイツ?」新潟に生まれた酒造家の三男 新事業を目指す 「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(3)

更新日:6 日前

「日本のドイツ?」新潟に生まれた酒造家の三男 新事業を目指す

 「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(3)


 本当の故郷は“越後”

 加藤直士氏による『小林富次郎伝』は「偉大なる凡人」との小林富次郎氏の資質に着目することによって、スタートした。

 伝記を読めば、その資質が偶然の産物ではないことが、よくわかる。企業人をはじめ、成功者に限らず、人間をつくるのは、まずは故郷と幼児期、その出自と生い立ちによるところが大きい。

 以下、『小林富次郎伝』第二章は「故郷と幼時」である。

                  ◇

 新潟は日本のドイツ?

 小林富次郎氏は嘉永5年(1852年)正月15日、父親の寄留地である武蔵国北足立郡与野(現在の埼玉県さいたま市)に生まれた。そこは両親の出稼ぎ先で原籍地ではないため、彼の故郷は関東であるということはできないだろう。

 富次郎氏は4歳の時に越後国中頸城郡柿崎村(現・新潟県上越市柿崎区)に転じて、16歳の時までその地に成長した。越後こそ彼にとって、本当の故郷である。

「越後は日本のドイツである」と、ある人は評した。地勢や気候ばかりでなく、人間が勤勉であることを第一の特長としている点などは、特に北欧民族に似通っている。

 越後は180万の人口を有する日本屈指の大きな県であるが、日本中でこの地ほど貧富の差が大きいところは少ない。一方には大名をも凌ぐ大地主があって、他方、年々県外に出稼ぎする労働者がいる。

 それも気候が陰険で、一年の3分1は白雪の中に埋もれるため、その間は関東などに出稼ぎして、若干の金を儲けてくる必要がある。柿崎村のように、当時わずかに500戸ぐらいの小漁村でも、いわし網の季節以外には老人と子どもだけを残して、全村ほとんどが何処かに金儲けに行く。

 当時、柿崎村の住民は関東に450軒の出店を持っていた。それだけ盛んだったからである。

 小林氏の祖先については、詳しいことはわからないが、曾祖父・善右衛門は江戸に出て公事宿(現在の弁護士)を仕事にしていたぐらいの人で、その子の清蔵は多少の学問もあって、村の顔役であった。

 その一人娘マスは、吉崎喜助という律儀な働き手を養子に迎え入れ、3人の男の子を生んだ。それが富次郎氏兄弟である。

 慈悲深く、聡明で剛毅な気質

 父・喜助は「仏様」とあだ名されたほどの好人物で、慈悲心の深いこと比類なかった。

非常な仏教信者で、関東に出て家産をつくったころは、600円ほど、いまの金にして100万円以上の大金を投じて6尺(181・8センチ)の大仏壇を作り、毎朝家内の者や奉公人を集めては、自らお経をあげ、奉公人たちにも兼ねて用意してあるお賽銭をあげて拝ませてから、朝食にするほどの信心家であった。

 彼は大兵肥満(たいひょうひまん)の剛の者であったが、雇人らをかわいがること、あたかも我が子の如く、小僧など夜中に自分で便所まで抱いて行ってやるくらいであったという。富次郎氏の天性の慈悲心はまさしく、この父の性質を受けたものと思われる。

 一方の母・マスは女丈夫と言われるほどのしっかり者であった。彼らが関東に出稼ぎに行って、一族が成功したのは、夫の勤勉と妻の聡明との結果であった。

 彼女が30歳くらいの頃のことである。武州(武蔵国)松山町に世帯を持って、酒造業を営んでいた時、隣家から火事が起こって、類焼の被害を被ったばかりか、さらに誤って火元と認められ、飛んだ汚名を受けることになった。

 夫の喜助は「これも因果」と諦めて泣き寝入りを覚悟したが、妻のマス女はどうしても納得できず、自分で町役所に行って、滔々と「ウチが火元ではない」ことを弁明したが、賄賂を受けていた役人どもは、なお権威を振りかざして無理を通そうとした。

 この時、彼女は毅然として屈せず「然らば川越の陣屋(代官館)に上訴して再審を受ける」と啖呵を切って、一人で出かけようとした。役人どもは大いに狼狽し、ついに火元であるとの汚名を雪いだという逸話がある。

 道理のないところには、決して服しない剛毅の気性がこの一事でもわかる。大勢の雇人を手足の如く立ち働かせて、少しの不平も抱かせなかったのは、確かに彼女の手腕であった。

 かくの如く、富次郎氏は慈悲深き父の情と聡明で剛毅な母の気性とを兼ね備えて生まれたのである。

 前述のように、富次郎氏は武州与野町に生まれたが、4歳のころ、越後に残っていた祖母の許に送られて、柿崎の直海浜で成長した。つまり、出稼ぎ地である関東では子どもは足手まといのため、一人前の若者になるまで、本国で育てるのが一般の風習であった。

 富次郎氏の幼時は有名な腕白者であった。とはいえ、賢い子どもで乱暴などを振るうことはなかった。12~3歳のころから、一目置かれる存在で「若者のケンカの仲裁は富さんに頼め」と言われたほどであった。

 彼の受けた教育は、もちろん郷里の寺子屋に通ったに過ぎない。それさえ12歳のころから越後人の共通病とも言うべき眼病にかかり、一時は盲人になりかかったほどで、十分な読み書きも習うことができなかった。

 今日の教育から言えば、ほとんど無教育といってもよい。手紙文などを綴るのに不自由をしなかった程度であった。

 晩年に所属教会や青年会、または禁酒会などの講壇に立って、滔々と1~2時間の演説を行って、多くの人々に感銘を与えたが、その教育の程度からは、到底不可能なことであった。

 その後、彼の話を多くの学者や識者が傾聴することになったのは、まったく教育以外のある物の力であった。

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 第2章最後の「ある物の力」とは、いわゆる「人間力」ということになる。しかも、そのベースにあるのは両親から引き継いだ慈悲深さと聡明さ、剛毅なDNAと信仰の持つ要素である。

 同時に、興味深いのが、6尺の仏殿を作るほどの仏教信仰の家に育った彼が、なぜ仏教を捨てて、キリスト者となり、「聖書を抱いた企業家」とまで言われるようになったのかということである。

 その背景に何があったのかは後に見ることにして、以下は、第3章「酒造家の息子」である。

 


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 酒造業から禁酒事業へ

 富次郎氏は多年の眼病もほぼ癒えたので、16歳の時、与野町の出店に帰って、父と兄を助け、家業である酒造業に就いた。越後の漁場で鍛え上げた彼の骨格は、痩せぎすながら屈強のものであった。

 なかなかの力自慢で、村相撲では「関取」とされた。土地で名高い酒造業の次男であるためもあろうが、彼は他の青年どもを牛耳っていた。その働きぶりは並外れており、寒中丸裸で茶碗酒を3~4杯引っかけ、家にいる若い衆と2人で、6尺桶をいくつも洗っては干し、干しては洗った。

 富次郎氏は20歳の時、郷里の馬場仁右衛門の四女ハンを娶って家庭を持った。

 23歳の時、父・喜助が郷里の越後で亡くなったため、与野町の酒造業は長兄・虎之助氏の経営となっていた。その後、富次郎氏はもっぱら兄を助けて、製造にあるいは販売にと尽力した。

 とはいえ、富次郎氏は早くも、家業の酒造業に将来の見込みないのことを悟って、自分は別の事業で身を立てようと心掛けていた。

 というのも、時世の変遷に従って、与野町の酒造業が昔のように繁盛しなくなってきたことと、明治維新当時、ちょうど彼が越後から武州に出てきたころのことだ。徳川幕府は軍用金調達の必要に迫られ、突然、幕府役人による与野町の酒造への検査が行われた。

 このとき、納税違反の嫌疑により、大枚3000両(現在の約3000万円)の罰金を課された他、小林家が使用していた酒造の持ち主・井原清兵衛という多年の恩人が召し捕られて江戸に送られたのだ。

 いかに繁盛していた酒造家でも、現金3000両を引き上げられては、家運の衰退は避けられない。結果、小林家の家運は回復しがたい打撃をうけたのである。

 ことわざに「稼ぐに追いつく貧乏なし(よく働けば貧乏になることはない)」と言われるが、一度、左前になりかけた経営は、並大抵の努力では回復することはない。

 それでも、当時流行した混合酒の方法でも講ずれば、儲かる道もないではないが、小林兄弟はそれだけは断固しなかったため、薄利はますます薄いものとなった。そんな時、人はとかく投機熱に襲われやすいものだが、富次郎氏も兄と相談の上、当時流行したブタとウサギの売買(ライオン制作の「小林富次郎・創業者物語」では養蚕事業などとなっている)に手を出して、一時は一攫千金の暴利を得たが、たちまちその反動が来て、首も回らぬ大失敗を招いた。

 その結果、彼は一時、武州を去って、越後の故郷にもどった。この時以来、一切投機に手を出さない決心をしたのみならず、かねて見込みがないと思っていた酒造業から、足を洗うことができたのは、不幸中の大いなる幸であった。

 ここに一言すべきは、酒造家の息子たる小林氏と、禁酒事業との関係である。小林氏はその家業から、非常な愛飲家であった。だが、村相撲で鍛えた強壮な彼の骨格は、飲酒によって健康を害するに至った。

 損害はひとり肉体の上ばかりではない。事業上にも道徳上、果ては我が身のみならず、一家の幸福にも、酒は万事の破壊者であるとの小林氏の実体験は、何人にも劣らなかったに違いない。

 後年、彼が事業経営に当たって、店員・従業員の教育上、商業道徳の振興上、また宗教的修養のために、熱心な禁酒主義者となり、その実行並びに推進のため、時間も資金も惜しまなかったことは、良く知られている。

 自ら飲酒の害を骨身に染みるほど体験して、その害毒から人を救い出そうとする親切心から生じて来たものと思われる。

 日本における禁酒事業の中心人物である小林氏の半生が酒造業に費やされた一事は、天の摂理であり、決して偶然ではないことを証明している。

 筆者はかつてキリスト教の大迫害者としてタルソの地に生まれたソウロ(後のパウロ)が、後に一変して、キリスト教を万国に広めた使徒パウロとなった故事を思い合わせて、深い感慨を覚える。

 


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 無形文化遺産に登録された日本酒

 加藤直士氏の筆になるライオン創業者『小林富次郎伝』を読んでいれば、キリスト教信仰をはじめ、酒造業に見切りをつけ、禁酒事業に生涯を捧げた小林氏の貢献のほどがよくわかる。

 だが、何事にも例外はある。「日本」の美称である「瑞穂の国」とは、稲穂の豊かに実る国である。

 禁酒法は、アル・カポネが活躍したアメリカで猛威を振るったものだが、宗教上の制約がある国は別にして、基本的に禁酒法を国是にした国はない。その事実に照らしたとき、小林氏の主張はあくまで個人的な体験としては貴重であっても、人間の歴史とともにある酒には、古来、禁酒とともに飲酒の伝統文化がある。

 事実、2024年12月に、日本酒はユネスコの無形文化遺産に登録されている。日本酒業界が衰退する中、麹など様々な菌(微生物)が共存する発酵法は、日本の「和」のなせる技である。

 小林氏から「将来性はない」と見限られた酒造業界だが、日本酒の伝統文化を守って、世界に輸出している酒造会社もある。彼の禁酒事業への思いはよくわかるが、それは日本の祭りには欠かせない日本酒並びに酒造会社・業界を「害悪を売り、健康を阻害する商品をつくる悪徳企業」と言っているようなものである。

 いずれにしろ、酒に罪はない。本来の酒造業を考えれば、その言葉の由来を深く自覚すべきだろう。酒とは辞書を見ればわかるように、水に由来するものだが、健康・病気との関わりでは「薬酒」として医療に使われている。

「医」の旧字「醫」の下の字は、サンズイを省略した「酒」である。つまり、その語源は病気を治し、痛みを除くために与える薬酒。それを使う医者の意味である。

 アル中の対極には百薬の長とされてきた歴史と伝統があるということである。

 富次郎氏は、小林家の家業を継ぐ立場ではないため、別の新しい事業を始めることになったが、逆にもし富次郎氏がそのまま酒造業に携わっていたら、どのような展開になったのかは、大いに興味深い。というのも、彼のベンチャー精神並びに企業経営の手腕が並外れているからである。

 次の4章は「開運の首都」。いよいよ本格的な事業へと進んでいく。今日でいうベンチャーへの道である。


 
 
 

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