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キリスト教信仰と「禁酒」を店則とした禁酒事業への取り組み  「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(9)

更新日:6 時間前

キリスト教信仰と「禁酒」を店則とした禁酒事業への取り組み

 「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(9)


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 キリスト教徒と慈善事業

 ライオン創業者の人生は、今日に見るようなライオン歯磨の大成功というビジネスストーリーとは別に、あるいはそのベース並びに背景には、大きく分けて2つの顔がある。小林氏の後半生を、東京開店までの10年と大病後の10年の2つに分けた筆者・加藤直士氏の指摘によれば、前半の10年間も世のため人のために尽くしてきたとはいえ、後の10年は自分の身を神と人とに捧げたものであった。

 その人生は同時に、キリスト教徒と慈善事業家という2つの顔に分けられる。とはいえその2つもまた人生同様、密接に関わる同じものの異なる側面でしかない。

 自伝では、それを第15章で「本郷教会員としての小林氏」として、また16章で「小林氏の禁酒事業」、17章で「小林氏の慈善事業」として描いている。

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 第15章「本郷教会員としての小林氏」

 前述のように、小林氏が神戸で初めてキリスト教に接し、意を決して洗礼を受けたのは明治21年(1888年)、彼が36歳のときであった。25歳で酒造業から足を洗い、裸一貫で東京に出てから、各地を流浪し、ついに神戸で洗礼を受けるまでの10年間は、才能がありながら不遇をかこつ、逆流に棹さすがごとき奮闘の時代であった。

 とはいえ、小林氏の生涯において、もっとも惨憺たる逆境の時は、氏がキリスト教徒になってからの10年間だったことを忘れてはならない。

 事実、石巻のマッチの軸木事業の大失敗の時には、自殺を企てたことがあるくらいである。しかも、その名状しがたき艱難に際して、なお一筋の光明を彼の前途に示して、絶望の淵より、彼を救い出したのは、ひたすら天の摂理を信じる彼の信仰であった。

 そして、彼があらゆる境遇にあってもその信仰を維持することができたのは、自ら聖書によって、キリスト教の真理を味わえたからだけではない。最初から彼がもっとも忠実な「教会の信者」であったことによる。信仰さえあれば、教会に属する必要がないなどということは、謙遜なる小林氏の思いも浮かべぬところであった。彼は教会に尽くすことによって、自らの信仰を生きた人である。

 小林氏は明治25年に、神戸の多聞教会より東京の本郷教会に移った。これは、小林氏が神田柳町に店を開いた翌年のことである。

 当時、本郷教会は本郷東竹町にあって、横井時雄氏が牧師をしていた。本郷教会は横井氏が洋行から帰国した後、会堂を新築したこともあり、一時はずいぶん盛んであった。しかも、教会員は大学生その他の青年であったので、元気のある代わりにずいぶん議論の活発な教会であった。

 小林氏は年長者でもあり、ほとんど唯一の実業家という会員であったので、いつしか教会の有力な信者の一人となっていた。ところが、不幸なことに明治31年(1898年)

3月に、教会は火事の類焼の被害にあった。

 当時、時勢の反動もあり、教勢はすこぶる不振であった。創業当時の本郷教会がいかに微弱なものであったは、当時のクリスマスの費用、わずか金3円の予算であったことでもわかるだろう。

 海老名弾正牧師が大学生の力を借りて、初めて雑誌『新人』を発行したときには、当時の教会会計担当者に向かって、小林氏がため息をもらして「海老名先生は困った仕事を始められた。雑誌は月に5円以下の費用ではできません」と語ったこともある。

 その5円さえ、教会から支給する余裕がないので、会員の秋元尚寿氏が独力で引き受けて、最初の2~3号を出した。今日、宗教雑誌の覇王たる『新人』も10年前には、こうして呱々の声を上げたのであった。

 要するに、海老名牧師の築き上げた本郷教会を双肩に担って立ち、その後顧の憂いを断ったのは、実に小林氏である。

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 第16章「小林氏の禁酒事業」

 小林氏は酒造家の次男として生まれたため、幼少の時から酒蔵の中で育った。壮年に及んでは、仕事をする前に茶碗酒の5~6杯も引っかけて平気であった。酒癖は別段、悪いわけではないが、一度に3升ぐらいは行けるとの酒豪であるから、飲みはじめると一つ所にジッとしていることができない。いわゆるはしご酒で午前様ということも珍しくはなかった。

 田舎相撲の関取だった頑強の体格を備えていながら、ついに健康を損ない、多病にして脆弱な身となったのも、一つは身に余る苦労をしたためだろうが、もう一つは若い時からの飲酒の結果であると思われる。小林氏もまた、世間の人のいう通り、酒は交際の利器、商売の道具と心得ていた一人であった。

 彼のような実業界の敏腕家が「下戸の建てた蔵はない」と豪語して、酒杯の間に大きな取引をすることを優先したのは、あえて疑う必要はない。

 ところが、人の運命は妙なものである。それだけの飲酒家の小林氏が一変して、我が国における禁酒事業界の大立者となったのである。

 明治33年(1900年)ごろと思われる。小林氏は東京・大阪の同業者とともに、伊勢・山田において大懇親会を開いたことがある。何か同業組合に関する相談会を兼ねたものだが、3日間も飲み続けたので、相談もろくにまとまらず、おまけに仲間同志で大ゲンカが始まった。その喧嘩の仲直りに、またも酒宴を張って調停どころか、再びケンカが始まるという不始末を演じた。

 小林氏はその時、とんだ懇親会もあったものだと、いささか残念な思いで帰京した。その時の大酒が元であったのか、その1カ月後、あの腸閉塞の大病を患ったのである。

 一時は危篤に瀕したが、病床に呻吟している間、飲酒のために、健康を害した過去の不摂生を悔いる思いが募って、自らの不心得を責める良心の声が病苦以上に彼を悩ました。

 幸いにして、この大病も回復に向かったので、感謝の念、禁じがたく、一夜床上に端座して。そこで人知れず、神に向かって「幸いに全快の身となったならば、今後は思い切って禁酒を実行致します」との誓いを立てたのである。

 その時、病気の賜物となったものは、禁酒の決心ばかりではなく、慈善券の発行を始めとし、残る生涯を世のため人のために捧げようと堅く決心したことである。

 小林氏は自分一人で、禁酒を断行しただけではなく、一切の困難を排して、これを小林商店の店則にした。禁酒を店則にしたことについては、いかにも小林氏ならではというべき一事がある。

 この病中、諸方から来た見舞い状が枕元に積み重ねてあったが、その中でただ一通、小林氏の記憶にない名前がある。開いてみると、それは自分の店に来ている丁稚(使用人)の父親から送られたものであった。内容は彼の病気について、もっとも深き同情を寄せ、かつその全快を祈るとの真心が、流露として手紙の中にあふれている。

 そのとき、小林氏はたちまち大いなる感に打たれて「ああ、これもまったくわが子が可愛いためである。こんなに可愛いと思う人の子を親から預けられている我が身の責任は真に重い。過ちをさせては親たちに面目ない。若い者がその身を誤るのは、たいていお酒から生ずるものだから、彼らを善良な者にするには、断然、大衆と共に、この善事を行うほかはない」と考えが定まったので、未だ病床を離れないうちに、店員一同を枕辺に呼び寄せて「総店員禁酒令」を発布したのである。

 そのとき、小林氏は店員一同に向かい「さて、我が店で、この度『禁酒』を店則の第1条に掲げたことについて、誓ってこれを守り、禁酒を実行しようと思う者はこれまで通り働いてほしい。もし、実行覚束ないと思う者はこの際、進退を自由に任せる」と言い渡した。同時に、小林氏の保証や世話によって他店に奉公している者に対しても、当日より禁酒を行うなら、保証人を続けるが、もしその決心が付きかねるなら、気の毒だが、当日限り保証を断ると申し渡した。

 もとより、この禁酒令当日までの習慣を一変するのであるから、店員にとっても容易なことではない。いろいろ仲間うちにも議論が起こり、例えばこうした場合はどうしたものか、それで世間との交際ができようか、店の取引に差し支えは起こるまいかなどといろいろ心配する人々もあった。

 これを聞いた小林氏は「そんなことは心配無用である。店のことはちゃんとこちらに覚悟がある。ただこの際、決すべきは彼ら自身の覚悟である」と断言した。この一言に励まされ、あるいは思い切って禁酒を誓い、あるいは熟考の猶予を申し出た者もいた。だが、結局は店員中、多年の飲酒でアルコール中毒になっている一人をのぞいては、店員全員が禁酒の誓約をして留任することになった。

 小林氏の喜びは例えようがなく、これより店中、ますます一致団結して業務に精進することとなり、主人と店員は万事に喜憂を共にするに至った。

 さて、アルコール中毒の一人は、多年勤務の功労もあり、小林氏は別に店を出して、独立営業を始めさせた。その他の店員は番頭から見習いに至るまで、また工場の主任より職工に至るまで、一人としてこの禁酒の店則を守らぬ者はなく、その時より、店員各自の意志は強くなり、万事において克己心が養われた。各自の家計も次第に豊かになって家庭の幸福にも役立つこととなり、小林商店の信用はその店員の品行の修まると共に、ますます内外に高まることになった。

 小林氏の信じるところによれば、禁酒は一見ささいなことのように見えても、これを断行するとなると、大きな意志の力を要する。青年にして、もしこの一事をやり通すことができれば、彼は万事に当たって、成功する資格を備えることとなる。

 一方、禁酒ができぬような者は、万事に対して意志が弱く克己心に乏しく、種々なる誘惑にあって、到底これに打ち勝つ力がない。そこで、小林氏は店員を採用するに当たって第一に禁酒問題を持ち出した。

 禁酒を誓う者は採用し、躊躇する者は、他にいかなる才能があっても、断じて採用しない。元来、小林氏の眼には商業の秘訣は、信用第一である。しかも、その信用は営業手腕・才能よりも、むしろ誠実・勤勉というところに基づく。

 小林氏は従来から、その考えのもとに営業していながら、これまでの習慣に囚われて、禁酒を思い立つことができなかったのは、大いなる不覚であった。それも、つまりは禁酒では商売がしにくかろうという世間一般の誤解に基づくものであった。しかし、実際に禁酒をしてみれば、事実はまったくこれに反して、酒がなければ商売ができぬなどということは毛頭ないのみならず、商売上のたいていの間違いは酒の上の商談から起こる。

 契約違反、取引のいざこざの多くは、酒が原因である。主人がこの手を商売の秘訣とすれば、店員もこれにならう。次第に遊ぶことを覚えて、ついには店の金に手をつけ、身を滅ぼすばかりか、店の崩壊を招くことにもなる。

 このような実例が乏しくないのを見ても、小林氏は日本の実業界を振興し、商業道徳を高める上でも、禁酒は最大の急務であると確信して、我が国の実業界に速やかにこの美風を普及しようと、死に至るまで奮闘を続けたのである。

 その禁酒事業に対する熱心さは、ほとんど宗教めいていたとの印象さえあった。禁酒の福音を伝えるのは、小林氏にとって何よりも楽しいことであり、また深く自らの天の使命と感じていた。

 彼がひと度、禁酒会の演壇に立つや、その燃えるような情熱からなる一言半句、ことごとく聞く人の心胆に徹して、人をして禁酒の決心をさせることとなった。晩年における彼の禁酒演説を聞いた人は、常に一種の威厳に打たれて、まともにその顔を仰ぎ見ることができなかったとのことである。

 著名なる一教育家がある夕、小林氏を訪ねて、自ら従事する事業のための寄付金を申し出たことがある。この時、小林氏はその人物の酒気ふんぷんたる様子に、襟を正して寄付を断り「教育者たる者、自ら禁酒して、他に模範を示すべき」と説いた。その人、大いに恥じて、禁酒の約束を誓ったため、小林氏は翌朝、その人物の家を訪ねて、禁酒会員の徽章と共に多額の寄付金を渡したことがある。その他、禁酒に関する小林氏の美談・逸話は数多いが、いちいち列挙する余裕はない。

 こうして小林氏が日本における禁酒事業の発展のため、有形無形の援助と共に、いかに貢献したかは、筆者が言うまでもないことである。日本禁酒会の今日あるのは、小林氏の力に負うところが少なくない。同会の機関誌『國の光』(銀座会館)が小林氏の死後間もなく、『ライオン号』と題する特別号を発行して、詳しく禁酒事業家としての小林氏を伝えたのは、もっとも適切なる処置であった。

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 以下、第17章の「小林氏の慈善事業」へと続くが、理想と現実、不変と思われる正義が必ずしも通らないことは、昔も今も変わらない。

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 日本禁酒会の現在と酒造業

 ライオン創業者に限らず、誰かが言ったり、行ったからといって、世の中に「絶対」はほとんどない。あるのは、言葉=概念として、理想のモデル(理想型)としてである。例えば「愛」も「平和」も、言葉としては絶対だが、人間のかかわることだけに、中身のない愛と平和ばかりが氾濫する。言葉優先になるのは、明治も現代も変わりがない。

 小林商店の禁酒の店則は、全員にちょうど「踏み絵」のように選択を迫ったが、キリスト教信仰に関しては、そこまでの強制はない。

 小林氏が多大な貢献をしたとされる日本禁酒会だが、意外なことに、その日本禁酒会はネットで検索しても出てこない。代わりに出てくる一般財団法人「日本断酒同盟」が、明治期の禁酒運動にルーツを持つ組織との説明がある。

 もう一つは公益社団法人「全日本断酒連盟」である。公益社団法人だけに、こちらのほうが正統なのかと思ったが、同連盟の歴史を見ると、その前身は、昭和33年(1958年)11月「高知県断酒新生会」の2人の会員によって結成されたものとされている。

 両者に共通するのが、仏教並びにキリスト教関係者が中心になっていることである。

『國の光』は後に『禁酒之日本』に誌名が変わるが、禁酒並びに断酒に関する一連の流れを見ると、もともとは明治23年(1890年)3月、東京・築地メソジスト教会で、東京禁酒会が設立されている。明治31年(1898年)12月には、東京禁酒会と「日本禁酒会」に改称していた横浜禁酒会が統合して「日本禁酒同盟」が設立された。

 その後、大正7年(1918年)に、脱・宗教色を強く主張して、大阪の禁酒同盟会が脱会するなど、紆余曲折を経て、今日の「日本断酒同盟」に至っている。

 それら表向きの歴史には裏方に徹したライオン創業者の名前は出てこないが『國の光』の特集号になっていることからも、小林氏の貢献のほどが忍ばれる。

 とはいえ、現在のライオンは、もちろんキリスト教信仰はもちろん、禁酒の誓約も入社の条件にはなっていない。

 筆者の加藤氏もまた、小林氏同様、キリスト教信者という共通点がある。そのため、小林氏の考え、行動に期待するところも多く、今日、振り返れば、小林氏の極端に思えるキリスト教信仰並びに、その象徴である禁酒をクローズアップしたのかもしれない。

 酒造業の商いに関して、時代がちがうとはいえ、今日、参考になると思われるのが、小林氏縁りの新潟・樋木酒造の樋木尚一郎氏のつくった「酒を商う者の心得」であろう。

 そこには「酒を生業とする者は、利潤の追求を第一としてはならない」とあり、酒の飲み方によっては健康を害することから「命を預かる商売である」との責任の重さを説いている。

 その自覚の上に、樋木酒造の酒「鶴の友」は淡麗辛口の越後を代表する酒だが、その理想を食事に合う「食中酒」としている。

 食中の酒であれば、さほどの健康被害はあり得ないからである。

 
 
 

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