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キリスト教信仰との出会いとベンチャー最大の試練! 「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(6)

更新日:2025年9月5日

キリスト教信仰との出会いとベンチャーとしての試練!

 「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(6)


 小林氏キリスト教信徒となる

「ライオン」創業者について『小林富次郎伝』の著者・加藤直士氏は、ある人物が小林氏を評して「法衣を着たる実業家」と呼んだのに対して「算盤を抱いた宗教者」と評するほうが適切であると記している。

 今回、掲載する第9章と第10章は、後の「ライオン」の経営に大きな影響を与えることになるキリスト教との出会いのエピソードと、マッチの軸木事業における大失敗を「聖書」の言葉によって救われ、切り抜けるという人生の岐路を描いている。

 

         *                  *

 第9章 小林氏キリスト教信徒となる

 小林氏は幼少の時より、宗教心が強かったようである。たぶん、父の遺伝を受けたこともあろうが、大体、越後の地は非常に仏教の盛んな地方である。とりわけ真宗の根拠地と言われるほどで、小林氏は父母の懐にある時分から、早や阿弥陀如来の信者であったと言ってもよい。

 現に、小林氏はよく朝の勤行の読経をなし、真宗の御文章など、実に上手に暗唱していた。また、12歳のころから重い眼病に罹って、危うく視力を失いそうになった。このとき、小林氏は郷里の山奥の某神社に日参して、全快を祈ったこともある。

 しかし、このような習慣上の信仰は、いつまでも明敏な小林氏の心を支配することはできなかった。迷信は受け入れらなくても、道理に叶った信仰ならば、喜んでこれを信じて生来の宗教心を満足させようと思っていたに違いない。

 少なくとも、真宗の信仰は小林氏をして後日、より高き宗教を受け入れるための準備となったものと思われる。晩年に及んで、小林氏は立派なキリスト教信者として世に立ち、また信仰者として安らかにこの世を去った。

 ある人は小林氏を評して「法衣を着たる実業家」と言ったが、私はむしろ「算盤を抱いた宗教家」と評するほうが適切であると思う。小林氏は非常に実業に熱心であった。晩年十数年間の小林氏は、実業を手段として宗教を目的としている観があった。いわゆるクリスチャン・マーチャントとして、神の栄光を現そうとしたのが、小林氏唯一の理想であった。

 そして、彼は立派にこの理想を実現した。彼がどうやって、このような立派な信仰を得たのだろうか。これには深い事情があったのだが、その前にまずは彼がどうしてキリスト教に改宗することになったのかを見る必要がある。

 明治21年(1888年)のことであった。小林氏が神戸の播摩方に在勤中、ある日の夕刻、友人らと市内を散歩していた。

 ふと、一劇場の前に差しかかると、そこに「キリスト教退治、反邪教演説」との看板が出ているので、面白半分で中を覗いてみた。

 だが、多少名高い仏教の僧侶たちが代わる代わりに演壇に立って弁ずるのはともかく、内容があまりにお粗末かつ不真面目であるため、小林氏は嫌になって出てしまった。

 その2~3日後のことだ。同じ劇場で、キリスト教の演説があるとの看板が出ていた。

「これはさぞかし面白かろう。キリスト教信者が今度は仏教の攻撃をするのだから、ちょっと見ものである」と考え、また友人を誘って、その劇場に行ってみた。

 ところが、案に相違して、聴衆の様子が前の演説会とはがらりと変わり、演壇に立つ人もみな謙虚で、真面目であった。しかも、その説くところ、理路整然としており、小林氏はそのことごとくに胸を打たれた。

「これはだいぶ、品性が異なる」と、心ひそかに感服した。だが、何たることか、劇場の一方の桟敷には、数人の僧侶らしき若者がいて、しきりに話し手の演説を妨害している。

あまりにやかましく罵詈雑言を浴びせるので、小林氏は呆れながら「聞いてから反論したら良さそうなものだが、聞きもせずに妨害するのは卑怯ではないか」と、内心、憤りを覚えていた。

 その後も、僧侶たちがますます妨害を続けるので、場内は騒然たる有り様であった。そのとき、楽屋から一人の大男が舞台に現れて、花道から桟敷のほうに歩いていった。聴衆の中から「あの男が現れれば大丈夫だ」という声が聞こえる。彼は元・柔道の師匠で、町内の夜の番をしているのだが、いまでは熱心なキリスト教信者なので、坊主の4人や5人は簡単につまみ出すに違いない。これは見ものだぞと話していた。

 小林氏もちょっと期待しつつ桟敷のほうを見ていると、あにはからん、大男はしきりに中腰になって、何か謝っている様子である。覚えのある腕で、外につまみ出すどころか、反対に頭を下げて「どうぞお静かに」と、頼んでいるのである。

 その様子を見て、小林氏は非常に感動した。なるほど、キリスト教は偉い教えである、驚くべき力を持っている宗教であると思い知った。このときの話し手は誰であったのか、またその演説はどういうものであったのか、小林氏はほとんど記憶していないが、ただこの柔和なる勇者の態度に感服して、生涯忘れられない印象を受けたのだ。

 小林氏は演説が終わると、早速、その思いとともに、主催者を通じて、求道の志を告げた。そして、近所に住んでいた小林錠太郎氏というキリスト教信者を介して、当時の多聞教会の牧師・長田時行氏に付いて、自らキリスト教を学び、鳴行社の同僚及び職工一同とともにキリスト教の講義を聴くことになった。

 当時の事情をよく知っているある人の話では、このとき小林氏が率先してキリスト教を聞き始めたのは、自分の求道心のためでもあるが、もう一つは当時、播摩商店の同僚に、一人の素行の良くない者があった。彼はその友のことを心配して、キリスト教によって友を救うつもりで、最初に自分が教えを聴いたのだそうである。

 長田氏は彼の求めに応じて、伝道を試みられたわけだが、結果的に数ある従業員・職工の中で、小林氏夫妻と故・今井樟太郎氏夫妻と、もう一人の男子だけは、決心してキリスト教信者になった。

 もちろん、鳴行社の同僚らは、小林氏の改宗に反対したが、小林氏は「ただ真理にかなう宗教だから信じるのである」と言って、断固、洗礼を受けてキリスト教徒となった。

 こうして小林氏は、ちょっとしたきっかけでキリスト教徒になったのだが、それはただの偶然ではあるまい。私は信ずる、小林氏のような性行の人は、機会さえ与えられれば、早晩、キリスト教徒になるべき運命を持っていると。

 見えざる手は小林氏を導いて、まずは仏教の信仰より入らせて、進んで道理にかなった宗教を求めさせ、反邪教演説の後にはキリスト教の演説会に導いて、ついに一信徒の姿を見せることによって、キリスト教を信じるに至らせたのである。

 聖書に「招かれる者は多しといえども、選ばるる者は少なし」とあるが、小林氏のごときは招かれると同時に、特に神の選びを受けた人ではないだろうか。

 小林氏が洗礼を受けたのは、明治21年11月4日、46歳のときであった。氏は常にこの日を記憶して「我が第二の誕生日」と称していた。

 第10章「軸木事業の大失敗」

 神戸の播摩商店における小林氏の立場は、最初は石鹸事業のみの関係であった。だが、播磨氏の要望もあり、間もなく播摩商店全体の共同経営者となった。かくしてその3年間の利益配当により、上海行きに当たっての松村氏の出資額は、元利すべてを返済できたばかりか、後には播摩氏の共同経営者として、世間に認められる存在になった。

 元来「鶏口となるも牛後となることなかれ」との小林氏の気質もあって、到底、長く単なる株主の立場に甘んずることはできないだろう。事実、小林氏は香港で実際に見てきた経験を生かし、我が国のマッチを重要な輸出品にするには、何よりもまず軸木の改良をする必要があると訴え、播摩氏にこの軸木改良事業の必要かつ有利なゆえんを説いた。

 播摩氏も自己の本業に対する貴重な意見であるため、小林氏の提案を受け入れ、いよいよこの事業を始めることになった。当時の軸木は主として、奥羽地方から産出されたものなので、まずはその産地に出かけていって、根本的な改良を加えなければならない。

 つまりは、工場を産地に設けて材料並びに製造法を改良する必要がある。そこで、小林氏は播磨氏と店員の推すところとなり、自らみちのくに赴いて、この事業に当たることとなった。明治21年、小林氏は最初に北海道及び三陸地方を踏査して、広く原木の調査に従事した。

 工場設置の土地選定上に様々な困難もあったが、結局、北上川運輸の便もあり、陸中・石巻港に工場を設置することになった。時の宮城県令(県知事)船越衛氏の特別の取り計らいにより、仙台侯の米倉をそのまま工場として貸与された。また土地の産業振興の意味もあり、原料伐採のために官林払下げを受ける運動も首尾よく運んだことから、小林氏はいよいよ東京の新燧社よりフランス製の大軸木製造機を買入れ、これを石巻工場に据え付けて、本格的な製造に着手した。

 元来、この新燧社というのは、当時の日本において、機械によって軸木を製造する唯一の工場だった。しかし、山から木を伐り出して東京・本所まで運んできて、それから製造にかかるため、その不便は名状しがたいものがあった。そこで、小林氏は機械を山に持っていって、そこで製造するのが一番いいと考えたわけである。

 この考えは、元より卓見であって、計画といい設備といい、何一つ不備はなかった。惜しむべくは、いよいよ機械を運転して製造に取り掛かると、予期しなかった多くの困難が生じてきたことだ。

 その一つは、いかにも豊富と見えた原木も、いよいよ伐採してみると、大きな機械を常時運転するだけの原料を供給することができなかった。加えて、三陸の山林より伐り出す木材を北上川に流して運ぶには、木材の比重が重いため、莫大な材木を筏に組み立てる必要があり、多くの費用を必要とした。これらの不便は、仮に我慢したとしても、明治23年(1891年)には、あの歴史的な大洪水に遭遇して、1年間の原料である無数の筏を一日にしてすべて流出する不幸に直面した。

 このときの小林氏の苦難は、まことに言い尽くしがたいものがある。心労と多忙のために3日間、絶食したことがあったのは、このころであった。

 小林氏の筏は恐ろしいことに、洪水に押し流されて、北上川の下流にかかる多くの橋梁を流し去った。両岸の人家は、早鐘を打って危険を知らせたという。

 かねてからの競争相手である旧来の軸木屋は、この機に乗じて、あらゆる手を使った攻撃を小林氏一人に向けて、果ては危害を同氏の身に加えようとまでした。

 このときのことである。天災事変こもごも起こって、進退ここに極まった小林氏は、ついに自殺するしかないと、ある夜、北上橋上に佇んだ。だが、不思議なことに、ふと聖書の一句が思い浮かんだことによって自殺を思い止まり、同時に大いなる決意をもって、この難局を切り抜けることになった。

 その聖書の一句とは、神戸の長田牧師が偶然にも葉書の端に書いて送った「新約聖書」ヘブライ書の第12章11節にある「すべての訓練は、当座は喜ばしいものとは思わず、むしろ悲しいものに思われる。しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」という、いわゆる「神の訓練」と称される聖句である。

 小林氏はふと、この句を思い出し、さらに家に帰って、ヘブライ書12章を熟読玩味することによって、今日の艱難はみな神様からの愛の鞭であることを悟り、再起を誓い、再び立ち上がる勇気を得たのであった。

 小林氏が生涯、このヘブライ書を愛読されたのは、このような深刻なる経験があったからである。

「不幸は単独にして来たらず」とことわざにはあるが、小林氏は雪中の山林を跋渉して、原料の伐採に従事するため、遂に深刻なる眼病を患い、一時はほとんど両眼の視力を失うに至った。そればかりか、過度の心痛の結果、激しき脳病をさえ起こして、病臥の身になった。地方の医師は誰もが、一時は彼を見放してしまった。

 こうして小林氏の3年間の労苦はことごとく徒労に帰し、軸木改良の困難に関する体験と身体上の疾病の他、一物をも得ずに終わったのである。

 小林氏は後年、当時のことを、下記のように振り返っている。

「あの時、3年ほど早かったら、売りさばく上での競争者もなく、市場を制することができたであろう。また、あと3年、遅かったならば、青森までの汽車が開通して自由に材木の運搬ができて、うまい具合に機械を運転することができていたであろう。

 時期的にもっとも悪く、ついに失敗の悲哀を味わうことになったのは、いかにも残念である。ただし、これはみな愛する者をる鞭打ちたまう神様による鍛練と思えば、いまさらながら感謝の外はない」と。

 まさに、小林氏は将来の自分の成功が、この惨憺たる失敗の中に芽生えたものと確信していた。

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 宮城県令・松平正直と船越衛

 マッチの軸木事業について、三陸・石巻で展開するに当たり「時の宮城県令(県知事)船越衛氏の特別の取り計らいにより、仙台侯の米倉をそのまま工場として貸与された」と書いた。加藤氏の原文に、そう書いてあるためである。

 だが、実際には船越衛氏が宮城県令に就任したのは明治24年のことである。

 少し、歴史を振り返ると、明治11年7月から24年4月の宮城県令は、福井藩出身の松平正直氏(後の男爵)である。初代宮城県令であり、退任後、熊本県令に転じている。

 長く宮城県内の産業振興、教育、土木事業などを手がけてきた。

 その松平氏の後任が、千葉県令の後、石川県令を経て宮城県令になった船越氏である。

任期は明治24年4月から27年1月に辞職するまで宮城県令を務め、その後、貴族院議員になっている。

 ということは『小林富次郎伝』の記述は、間違っているわけだが、その船越氏はもともと広島藩士の生まれで、幕末、第一次長州征伐などに参加。明治維新後に、新政府の一員として、内務省が成立後、内務官僚となった人物である。

 千葉県令の時代には、利根川水運と千葉県における鉄道敷設の動きなどに深く関わっていることから、何らかのツテがあって、力添えを得たということだろうか。

 あるいは、実際には船越氏ではなく、当時の宮城県令・松平氏の間違いかもしれない。

いまとなっては、知る術がない。

 以下、第11章は「好運始めて循環し来る」。そして、第12章の「ライオン歯磨の大成功」へと至って、ようやく、われわれの知る「ライオン」のスタートとなる。

 同時に、それは今日のライオンとは、ずいぶん違ったもののようにも思える。企業が100年続けば、同じ一つところに止まっていては、企業生命は途絶えるからである。そこでは変化こそが、生き残るための知恵ともなる。



 
 
 

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