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ダーツ 始まりは「ラブストーリー」その後  ダーツバーとビジネス展開          作家・波止蜂弥(はやみはちや)

ダーツ 始まりは「ラブストーリー」その後

 ダーツバーとビジネス展開          作家・波止蜂弥(はやみはちや)


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 ビーガン麻婆豆腐!?

 日本のダーツ草創期、1960年代後半のころである。

 当時、日本在住の大使館員や航空会社スタッフなどの外国人たちに混じって、六本木界隈のダーツバーに集まる日本人の中心にいたのが「青柳運送」代表取締役の青柳保之氏だったと言われている。

 その青柳氏から誘われてダーツを始めたのが、元日本代表の小熊恒久氏である。初めての日本人だけのダーツチーム「白山チーム」にも参加した。

 文京区白山は青柳氏の地元であり、当時、東洋大学に通っていた小熊氏と出会った場所でもある。

 ダーツのレジェンド・小熊氏を案内人としてスタートした「ダーツを巡る旅」である。

2人の出発点となった白山を知る必要があるのでは?と気がついて、遅ればせながら、2025年6月半ば、青柳運送がある都営地下鉄「白山駅」で待ち合わせることにした。

 白山なら、忙しい青柳氏にも都合がいいだろうとの事情もある。

 だが、当日、行く予定にしていたイタリアンレストランは、休みということで、急遽、西新橋(虎の門)にあるビーガン「罪無き麻婆豆腐」に行くことになった。以前、一度、行こうとしてタイミングが合わなかったこともある。白山からは都営地下鉄の「内幸町」で降りれば、便利でもある。

 ちなみに、そこは筆者の長男が相棒と2人で始めた、一部で話題の店である。ベジタリアンや肉が食べられないインバンウド客がネットで探してやって来る。先日はNHKの麻婆豆腐特集にビーガン麻婆豆腐の店として紹介されていたとか。

「店に来るときは予約して」と言われていたが、その日は予定外だったため、とりあえず行ってみた。ちょうど、客が帰る時間帯のようで、予約なしでも問題はなかった。

 ビーガン麻婆豆腐定食にビーガン餃子セットなど、ランチタイムは食事中心だが、夜はお酒のツマミになる枝豆のペぺロンチーノや冷や奴、糠漬けきゅうりなど、その日のお薦めメニューがある。どれも一工夫あって、食に厳しいはずのレジェンドたちにも好評のようであった。

 ふと気がつくと、満席の店内はわれわれの他は、すべて外国人であった。

 まるで、ダーツ草創期の六本木界隈、ダーツバーと同じではないか!

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 ダーツとマージャン

 白山のレストランへ行く予定がビーガン麻婆豆腐の店とは、意外な展開だが、人生とはそんなものだ。しかも、何が正解かわからない。

 ダーツ草創期の六本木での話である。以前、青柳氏について「ダーツバーでアルバイトをしていた」と紹介しているが、真実は異なる。

 実際はアルバイトでも従業員でもないのだが、バイト学生に間違えられるほど、店に馴染んでおり、よく店の手伝いなどをしていたとのことだ。

 ダーツバーに入り浸って、ダーツ草創期を盛り上げるのに尽力したことから、当然ながらダーツも上達したが、ダーツに命を賭けるつもりはない。やがて家業を継ぐ身である。

 とはいえ、人生は何事も修行である。

 当時のダーツ人脈はいまでも役立っていると、以前も語っていた。ビジネス上の利点もあるとはいえ、青柳氏がダーツに魅力を感じていたのは、ダーツバーに来てお酒を飲みながら、ダーツを楽しめること。つまりは一日の終わりに、お酒とゲームで、1日をリセットすることができる。

「ダーツをやっている間は、その日のすべてを忘れて夢中になることができる」と、青柳氏は語っていた。

 ビジネスマン・ビジネスウーマンが一日の仕事を終わって、アフターファイブにお酒を飲んで、ダーツを楽しみリラックスできる。その日一日をリセットして、また明日頑張れる。そのためのダーツだとの考え方である。

 時間を忘れて夢中になれるゲームとしては、マージャンが有名である。徹マン(徹夜麻雀)との言葉があるように、卓を囲めばアッという間に時間が過ぎる。賭けマージャンともなれば、さらにヒートアップして「もう一回」「もう一回」という具合できりがない。

 出版界が仕事場の筆者も、よく付き合わされた。当時の体験からは、同じ時間を忘れるゲームでも、明らかにダーツのほうが洗練されているということだ。バカにするつもりはないが、ダーツは英国発祥。マージャンは中国である。

 2024年6月、郡山でのダーツトーナメント(東北大会)に行ったときのことだ。

 午前10時に開会して、終わりはいつになるのかわからないと言われて、驚いたことがあった。アマからプロまで、いくつものテリトリーで試合が行われていて、最終的なプロの決勝戦は、なかなか先が見えない。

 夕方、おおよその結果が出てきて、帰りの足が気になる向きは会場を後にしていたが、その間もゲームは続いていた。マージャンに匹敵するダーツの時間を忘れさせる実態を知らされて驚いたものである。

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 栴檀は二葉より芳し

『英国流ダーツの本』(大陸書房)で「英国・ダービー地方のパブであった、ほんとうの話」として紹介されているのが、ダーツバーと経営に関わる話である。

「ダービーの、とあるパブのダーツ・チームが、そのオーナーである亭主から全員、首にされた、というのが事の始まりだった」。

 そのチームには腕のいいプレーヤーが揃っていたし、リーグでの成績も上位だった。それなのに、パブへの出入りを禁じられ、リーグ選からも除外されてしまった。

 理由はチームの連中の「ビールの消費量が少なかった」ためだ。

 まさかの理由だが、さすがパブ(ビール)とダーツの盛んな英国である。

「このことはパブの親父にしてみれば、ダーツとビールの切っても切れない伝統的な関係に反する、許すべからざる行為である、ということになる」

「英国でのダーツとビールとの関係は、少なくとも当時は主要なダーツ・トーナメントを見ればわかるように、バス・チャリントン、ホワイト・ブレッド、ワトニーマン、ダブル・ダイヤモンド、テトリースなど、大手のビール会社の名がずらりと顔をそろえていた」というわけである。

 もっとも、ビール会社については、ギネスなら知っているが、ここに上げられているビール名は、浅学にして一つも聞いたことがない。1977年5月に翻訳出版された本だから、50年近く前のことだ。

 それはさておき、ダーツバーに行って、いつも感じることの一つは、別に大きな儲けは必要ないとしても「これで、商売になるの?」との疑問であった。

 事実、店の従業員と誤解された青柳氏が当時、店のオーナーの代わりに、来る客に言っていたことが、2時間も粘って、コーラ一杯ではまずいだろうということであった。酒が飲めない下戸の人がいたとしても、ダーツバーはウィスキーと言わずとも、ビールぐらいは飲むのが、英国流ダーツの流儀である。

 当時の日本で自分が一番ダーツの練習をしたという小熊氏は、アルコールは集中力を削ぐことから、現役当時は敬遠していたという。ちょっと意外だが、当時はとにかくダーツが上手くなることだけを目指していたためである。

 それは青柳先輩の考えるダーツの楽しみ方からは、邪道と見なされる。ダーツ日本チャンピオンを目指すためには、仕方ないことだが「ちょっと肩身が狭い思いをした」と、小熊氏は当時を振り返って語っていた。

 事実、青柳氏は店のオーナーの代わりに、時にはコーヒーやコーラで2時間も3時間も粘る客に対して「お酒を飲まないなら帰ってくれ」と言っていたという。

 アルコールなしでは店としては商売にならないためだが、学生の分際でも、ただダーツを楽しみ、酒を飲むだけではなく、いわば遊びの場面でも経営者としての意識が身についていたということだろう。

 栴檀は二葉より芳しというが、家業を継ぐ運命にある彼には、すでに経営者の視点、思いが遊びの場でも働いていたわけである。


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 ダークインザムーン

 青柳氏に会うのは、いつもお酒を飲む場所ということもあり、まともな取材をすることもないまま、ダーツに限らず、何かと懐かしいシーンが話題になる。そんな具合で、草創期のダーツ同様、われわれの会合はダーツなどをサカナにお酒を飲んで一日をリセットする、そんな場になっている。

 お酒を飲みながら、ポロリといろんな話が出てきて、少しずつ青柳氏のプロフィールが見えてくる。そんな不思議な関わりというしかないが、日本のダーツ草創期をテーマにすれば、彼の存在はやはり「日本人の中心にいた」ということもわかってくる。

 日本のダーツ草創期から、およそ四半世紀たった1994年11月『ダークインザムーン』が創刊された。「東京ダーツオーガニゼーション(TDO)」の機関紙である。

 表紙をめくると、創刊第一号ということでMD・若き日の青柳氏が写真入りで登場して、いる。

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「TDO今年で6年目」とあり、以下のように書いてある。

「ダークインザムーンとは私たちがいつもお世話になっているパブの明かりを意味しています。月の明るさに似た雰囲気の中でダーツをプレイし、又お酒をたしなみ、たわいのない会話に花が咲く、イギリスでは紳士のスポーツなんです」

 創刊号にお祝いの言葉を寄せているJDO議長の盧誠孝氏は「1986年12月にJPDO(日本プロフェッショナルダーツオーガニゼーション)のパブリーグとして発足し、1988年3月に、プレーヤーによる民主的な自主運営による団体TDOに再構築されて早6年。いろいろな試練はありましたが」と述べた上で、青柳氏について、以下のように語っています。

「TDOのここまでの成長を可能にしたのは、当初よりマネジング・ディレクターを務めてこられた青柳保之氏の指導力、彼を補佐するオフィシャルの皆様の誠意と努力、更にプレーヤーの皆様の理解と協力、と言う要素が正に調和の取れた理想的な三位一体となって力を発揮したからだと信じます」

 盧誠孝氏の語る「いろいろな試練がありました」というのは、ダーツに命を賭けた小山統太郎氏が日本に誕生させたプロリーグ「JPDO」が、資金的な問題などで行き詰まって、TDOをはじめとした各地域団体の代表者が結集する形で、改めて1992年6月、JDO(日本ダーツ連盟)が発足することになったためである。

 そして、TDOの機関紙発刊という「会員による自主運営の形態が、第二の発展段階に脱皮した感があり、まさに同慶の至りです」と語っているように、青柳氏は作家・森瑶子さんの夫I・ブラッキンや小山統太郎氏世代の次を担う日本人グループの代表ということのようである。


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 ダーツに似ているゴルフ?

 これまでも元シャンソン歌手の小山陽子さんの強さについては、小熊氏から何度も聞かされてきた。

 以前、1987年に日本人として初めて「世界ランキング1位」に輝いた史上最強のプロとして紹介しているが、事実、当時のダーツ専門誌などの資料を見れば、どこにでも彼女の記事が登場している。

 そんな一つ「日本ダーツ協会」発行の機関誌『Darts』(1986年9月号)には日本代表として参戦した「アジアカップ」の女子シングルス優勝後のインタビューが載っている。

「優勝バンザイ、ダーツはリズムにのって!!」との見出しで、メンタルな部分が大きく左右するダーツこそ、基礎体力が大事になる。リズムが狂うと、ますますうまく行かなくなるとのことで、彼女はスポーツジムなどに通って、体力づくりに励んでいると語っている。

 メンタルが大きくモノをいうのは、どのスポーツも変わりはないが、現在、すでにダーツを卒業した形の青柳氏は、趣味とつきあいを兼ねて、ゴルフに精を出している。

 屋外でのグリーン上のプレーは、屋内のダーツとは対照的だが、メンタルな部分が大きくモノをいうという意味では、ゴルフはダーツに似ている。青柳氏がしょっちゅう行っている理由かもしれない。

 
 
 

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