ダーツの始まりは「ラブストーリー」その後の日々 13 元・タレント議員の八代英太氏と障害者 作家・波止蜂弥(はやみはちや)
- vegita974
- 1月5日
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更新日:1月6日
ダーツの始まりは「ラブストーリー」その後の日々 13
元・タレント議員の八代英太氏と障害者 作家・波止蜂弥(はやみはちや)

障害者のためのダーツ
2025年12月20日の土曜日、鹿児島土産の「かるかん」と言っても、宮崎空港で売っていた宮崎製のものを持って、ダーツのレジェンドである「青柳運送」青柳保之代表取締役と元・日本代表の小熊恒久氏と巣鴨駅で待ち合わせた。
青柳氏は自宅から、地下鉄に乗らずに、散歩がてら15分ほど歩いてきたという。
毎月、ダーツの原稿を書くに当たって、何となく2人に会わないと始まらないようで、
師走の週末の予定を聞いてみた。いつもはゴルフなどのため、山梨で過ごす青柳社長もさすがに東京にいる。
そこで、昼過ぎから元気な高齢者の特権である昼飲みを楽しむことになった。二人は夕方から、それぞれ忘年会があるとかで、貴重なタイミングである。
とりあえず一年の終わりに、少しはダーツの話を聞かなければと、酔っぱらう前に、ダーツに関する政治的な動きについて聞くことにした。
案の定、青柳社長は障害者雇用の関係の団体に関わっていたこともあり、知人を介して紹介されたのが元タレント議員の八代英太氏だったということだ。
障害者とダーツとの関係は「車椅子議員」の八代氏から「何か障害者のために貢献できることをしてほしい」と言われて、パラリンピック種目にはないが、障害者にもダーツの楽しみを知ってもらえたらということから始まった。
八代氏がリハビリを兼ねて親しんだスポーツ振興を、議員活動の一つのテーマにしていたこともある。早速、障害者のダーツ大会をやることになったとか。
車椅子の障害者が当時、ハードダーツをやるときは、ダーツボードから跳ね返ってくると危ないということで、投げる距離は健常者とは同じでも、ボードを掲げる高さは少し下に設定して、障害者の間でもダーツのゲーム大会がスタートしたという。
とはいえ「相手は障害者だから」と甘く見ていると、彼らの集中力は案外、健常者よりも優れている面もあり、意外にうまくて、プロ顔負けという一面もあったとか。
そんな上達者は、自分たちのボードの高さが、通常のゲームの規定より下にあることが不満で、同じ高さ、同じ条件で戦いたいと、あえて健常者と同じように戦うようになったということである。
障害者用のダーツイベントでは、シチズンなどがスポンサーになって、東京プリンスホテルで3日間ダーツ大会を開催したという。
すでに社会人になっていた青柳社長は「仕事をしながら、よく3日間もダーツ大会を開催できたなと思う」と振り返っていた。
もともと、テレビの司会業などで人気者だった八代英太氏は、1973年、演歌歌手・畠山みどりのショーのせり舞台から転落。脊椎損傷の重傷を負って、下半身不随となり、以後、車椅子生活となった。
その後、司会業に復帰。車椅子の司会者となったが、1977年7月に参議院選挙(全国区)で初当選。83年に全国区が比例区に改められてからは福祉党を結成。再選を果たすと、84年に自民党に移籍。89年に3選を果たしている。
青柳社長が八代英太氏と会ったのは、1980年代始め。日本のダーツ草創期にダーツを「オリンピック競技に」と、ダーツに命を賭けた小山統太郎氏が日本初のプロダーツ団体「JPDO」を結成したころ(1984年)のことである。青柳社長はJPDOの公設秘書として、協力していた。

日本障がい者ダーツ選手権大会
現在、障害者に関するダーツ競技については、公益社団法人「日本ダーツ協会」がスポーツ振興宝くじの助成を受けて開催されている。
その障害者によるダーツの世界がどうなっているのか、ちょっとネットを検索すれば、障害者のダーツ熱はいろんな意味で盛んなようである。その中で、もっとも歴史のある大会が、2025年3月に開催され、すでに41年の歴史を持つ「日本障がい者ダーツ選手権大会」である。26年3月には、第42回大会が開催されることになっている。
その他、障害者及び障害者予備軍である高齢者を含めた、ダーツを使った福祉活動や交流会など、街の活性化にもつながるとして、実は全国各地で様々な形での大会、活動が行われている。
2003年に、障害者と健常者・高齢者を含めた交流を掲げてスタートした「障がい者交流ダーツ大会」は、2025年7月に豊田市で第21回目大会が実施されている。
あるいは、特定非営利活動法人「日本ウエルネスダーツ協会」は、高齢者及び介護の必要な高齢者などを相手に、ダーツを通じた介護や認知症など健康に役立つ活動を展開している。
まさに、意外な広がりがある障害者ダーツの世界だが、その最初のきっかけを、青柳社長ら当時のレジェンドたちがつくっていたわけである。
障害者のダーツ大会は、すでに青柳社長らの手を離れて、およそ40年の年月が経っているが、いまなお盛んになっているということは、ソフトダーツに夢中の若者に限らず、障害者並びに高齢者にとっても、ダーツはやってみれば、老若男女、障害者まで、誰もが楽しめる手軽な健康法でもあるスポーツ、ゲームだということである。
いまでは日本ダーツ協会が、定期的に一般ダーツ講習会、公認指導者講習会とともに障害者ダーツ講習会を開催しているぐらいで、すっかりダーツと障害者は身近なスポーツ・ゲームになっている。

元・銀後「みゆき族」
ダーツの始まりはラブストーリーとはいえ、森瑶子さんとブラッキン氏のラブストーリーの終わりと、彼女の眠る与論島でのブラッキン氏の様子も、すでに島崎今日子さんのレポートを通して見てきた通り。ラブストーリーに終わりはないようでも、確実に時は風化していく。
振り返ると、ダーツとは無縁だが、筆者としても、遊びをはじめ人生の無茶な要素はすべて任せた兄に呆れつつも、いまになって見れば、様々な分野の人たちと接する上で、その兄から貴重な知識と体験とともに、興味深い情報を教えられてきたとも言える。
結果、1960年代の銀座を闊歩した「みゆき族」だったという青柳社長との接点を、兄が用意してくれていたようにも思えてくる。個人的にはみゆき族は、当時の週刊誌『平凡パンチ』やテレビなどのメディアでしか知らないが、週末になると、アイビールックを身にまとい、麻のずた袋を抱えて、銀座に繰り出す兄の姿はよく目にしていた。
VANやJUNのお古、といっても新品でも気に入らないと筆者が着ることになったので、学級委員でもあった優等生とはいえ、黒い学生服に淡いピンクのシャツを着ていたこともある。
周りが敬遠する在日朝鮮人のちょっと危険なニオイのする不良や少年院帰りの不良、卒業後、暴力団の舎弟になった同級生たちとも、普通に付き合えたのも、ピンクのシャツなどの効用かもしれない。
都立高校時代には、遅刻しそうになると、たまにバカでかいHONDAのバイクで送ってくれたりしていた。
万事控えめな筆者が、校門前に派手なバイクの音を立てて乗り付けるのだから、周りの学生たちが驚いていたのも無理はない。不良のいない進学校だったが、筆者の場合、単なる地味な優等生ではなかったのも、兄のおかげである。ついでに、高校で応援団をやったときは、兄から教わった空手の型をアレンジして、女子にも受けていた。
人生は何が有用で何が無駄かなどは、死ぬまでわからないというか、他人にとっては無駄でも、その人にとっては有用なのが、人生の不可思議な点でもある。
家庭内暴力
あわてて学歴を得るため、大学に行ってまで結婚したかった従姉妹に振られた兄は、銀座の有名テーラーに務めて、役得でパリッとしたスーツなどを仕立てていたかと思うと、気に入らないことがあると、いつの間にか辞めて、家で燻っていた。
新潟の叔母さんが兄について、フーテンの「寅」と呼んでいたぐらいで、バカなことばかりしているのだが、不思議にどこに行っても可愛がられる。内弁慶が基本の楽しいキャラクターであった。
だが、本物のフーテンの寅になれるわけでも、暴力団の舎弟になる度胸もなく、筆者が気がついたときは、母親相手に家庭内暴力を振るっていた。どこにも持って行き場のない怒りとフラストレーションを持て余していたようで、そんな歪んだエネルギーを母親や時に父親に向けていた。
あるとき、さすがに兄の暴力を持て余した母親から、助けを求められた。「何で、私がそんなことに関わらなければならないのか」と思いつつ、無視するわけにもいかないため「いい加減にしろ!」と、兄を一喝した。「死んでしまえ!」とは言わなかったが「生きている価値がない」とは言ったようで、その後、自殺未遂の一酸化炭素中毒で救急病院に運ばれて行った。
不思議に思ったのは、筆者が「いい加減にしろ!」と怒鳴ったとき、段位こそ、持つとケンカの際、凶器になるため、あえて取得しなかった空手使いの兄が、なぜペンぐらいしか持ったことのない筆者に対して、何もできなかったのかということだ。
そのなぜかは、筆者のほうが人生の修羅場を、社会人になってから数多く体験してきているからというしかない。命を気にしていては、取材などできない、そんな日々の覚悟のようなものが、たぶんそのような瞬間には現れるからだと思う。
もっとも、死ぬことのできなかった兄は、その後、多少は心を入れ換えたのか、周りがみんな結婚していくのを見て、自分でも結婚を考えて、結婚相談所に通い始めた。デートのときには、財布に万札ではなく、千円札をドサッと入れて、いかにも金持ちのように見せていたと話してくれた。
どこまで行っても見栄っ張りなわけだが、ついにお互い気に入った相手が見つかって、結婚することになった。結果、2人の子どもを得て、都内に自宅マンションまで持つことになるのだから“フーテンの寅”も変われば変わるものだと感心したことがあった。
もっとも、女房に先立たれてからは、すっかり意気消沈したのか、気楽な家業だけは続けながら、この世に未練などなくしたかのような晩年を過ごして、70歳過ぎ、呆気なく望みどおりの死を遂げた。
ラブストーリーとはとても言えない最期だが、少なくともあの遊び人の兄が、しっかり者の女房を亡くした後、2人の子どもを大学にまで行かせたことは、まさに「人は変われる」証明のように思えて、単純に人のことを「こうだ!」と決めつけないほうがいいと、思い知らされた。
現在、一回り下の、こちらもしっかり者の女房の扶養家族になっている筆者としても、人のことは言えないと、改めて思ったものである。







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