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ダーツの始まりは「ラブストーリー」その後の日々 19 人気トッププロ同士の結婚にまつわる話 作家・波止蜂弥(はやみはちや)


ダーツの始まりは「ラブストーリー」その後の日々 19

人気トッププロ同士の結婚にまつわる話

作家・波止蜂弥(はやみはちや)

日本のダーツ3世代

カラオケが日本全国、どこにでもあるようになって「ダーツ」も、そのカラオケやゲームなどのエンターテインメントと一緒に、いつの間にか、どこにでも見かけるようになっている。

日本のダーツは、現在、第何次ブームなのかは諸説あると思うが、毎月のように会っては、食事とお酒のついでに、ダーツにまつわる話を聞いてきた元・日本代表の小熊恒久氏と彼をダーツの世界に引き込んだ先輩「青柳運送」の青柳保之代表取締役は、その第1次ブームを演出した第1世代である。

そして、小熊氏と最初に会ったときに、同席していたのが、東京の「ダーツの聖地」とされる中板橋「Palms」オーナーの浅野眞弥氏と「ソフトダーツの神」と称される現役のプロ佐藤敬治氏である。史上最強の女子プロの一人であり「絶対女王」と呼ばれた西川ゆかり氏と結婚した浅野氏と、いまなお現役の佐藤氏は、日本のダーツの、いわば第2世代である。

日本各地で、いまも定期的にダーツ大会は開催されている。浅野氏と佐藤氏の2人は東京・池袋の「ロサ会館」で行われてきた「チームバトル」の主催者でもあり、そこには全国から現役のプロやアマチュアが集まってくる。

そんな彼ら第3世代やその下の第4世代(Z世代)から見れば、2人はすでにレジェンドとはいえ、表向きは例えば浅野氏はダーツバーのオーナーである。昔を知らないまま、気軽に会話を交わしているうちに、あるいは他の客の話などを耳にして、いわば伝説のプレーヤーとして一世を風靡した人物であることを知り、驚いたりもする。

佐藤氏もまた第2世代ながら、いまも現役のプロである。頭を見てもわかるが、はるかに先輩ではあっても、同じプロ仲間として、若い世代から「K-PON」と呼ばれる親近感がある。「スポーツダーツ」という言葉はあるが、イギリス発祥のダーツの世界のつきあいは、いわゆる日本の体育会系の先輩・後輩の関係とは明らかに異なる。

人生めぐり愛?

2026年6月12日、浅野眞弥・ゆかり夫妻のラブストーリーを聞くため、青柳社長と小熊氏と待ち合わせて、都営地下鉄線「板橋本町」にある炭火串焼「ゆう」に行った。「Palms」は夜7時オープンのため、軽く食事をした後、店に行くことにしたためである。「ゆう」から「Palms」までは、タクシーでワンメーターほどの距離である。

6時過ぎ、店に着くと、われわれが行くと聞いていた浅野夫妻が、すでに店にいたのはさておき、ビックリしたのは、K-PONこと佐藤敬治夫妻が懇意にしている家族と一緒に店にいたことである。「あっ、どうも」。その日は、偶然ではあるが、家から遠くないこともあって、そこは彼らもよく利用している店ということであった。なるほど、人生めぐり愛(?)である。

「何が幸せかは、結局、人生の最期の瞬間まで誰にもわからないのです。過ぎたことをぐずぐず言うのは好きではありません。後悔することは限りなくあるのかも知れないけど、それは自分が選んだ行いの結果です。つべこべ言わずに、信じた道を外れずにやっていれば、きっとよいことがある。そう信じてやってきて、私のこれまでの人生は上出来だったと思っています」

伍代夏子著『人生めぐり愛』(KKロングセラーズ)の本のカバー袖には、こう書いてある。「まえがき」の一節をピックアップしたものだ。

なぜ、伍代夏子なのかは、東京渋谷区の代々木八幡商店街で生まれた浅野眞弥氏の小学校・中学校の同級生だからである。彼女は歌が大好きな商店街の魚屋「市六水産」の看板娘だった。浅野氏の家は、商店街にあるお風呂屋だった。彼女がつきあっていた彼氏が、浅野氏の仲間だったり、彼女と仲良しで美人の野村律子氏が浅野氏と親しかったり、当時のちょっと不良っぽい男女の、たぶん見た目はグループ交際のようなつきあいだったのかもしれない。

本名でデビューした彼女は、何度か芸名を変えながらも、なかなかヒットに恵まれなかった。そんな下積み時代の彼女の苦労を身近に見てきたためか、いまでも連絡が来るという浅野氏の話を聞いていると、伍代夏子氏の本の一節がゆかり夫人の言葉のようにも思えてくる。

ヤクザと暴走族

昔、テリー伊藤氏と2人で、ある右翼からの紹介で、東京・赤坂にあったヤクザの組事務所を訪ねたことがあった。そのとき、聞いたのがいわゆるヤクザ予備軍の話である。

単純に「人はどのようにしてヤクザになるのか?」 まさか就職試験があるわけではないので、二代目などの家業ではない場合、特別のルートでもあるのかと思ったら「暴走族に声をかける」ということであった。

同時に、彼ら暴走族の連中も組に入ると、表向き「麻薬・覚醒剤には手を出すな」とか「カタギ(素人)には手を出すな」と、組員としての心得から御法度、破門の条件などを伝えられるのだが、しょせんヤクザである。どこまで言った通りのことをやるかは、本人次第である。それでも、世間が持て余していた暴走族の連中は、組に入って、それなりの社会的訓練を受ける。それは一見したところ、不良たちの社会更生施設のようにも思える。

元・暴走族のその後の進路の一つがヤクザだったことはさておき、もちろんちがう進路もある。

本人は口を濁すが、浅野氏は青柳社長の説明でも、浅野夫人の話でも「昔、暴走族だった」というように、若いころ特有の無茶をしたくなる時代があったということだろう。嘘ではないので、その片鱗はいまでもある。「族」と称するぐらいで、同好の士の集団であり、世間からは白い目で見られがちなこともあって、仲間同士の結束は固い。

浅野氏は青柳先輩や浅野夫人からも、その人となりについて「男気がある」「仲間を大事にする」と言われている。小熊氏も「ああ見えて(?)、女性に優しいので、女性にも人気がある」と話していた。生活を共にするゆかり夫人が、彼には「カリスマ性がある」と語るように、周りを引きつける力とエネルギーの持ち主のようである。

それでなければ、ダーツのレジェンドである青柳先輩や小熊氏に気に入られるはずもなく、ダーツの人気プロ同士のラブストーリーなども生まれない。ダーツバー「Palms」が続いているのも、ゆかり夫人のおかげと小熊氏は、それとなく話していたが、プロポーズなどないまま一緒になったあたりに、二人のラブストーリーの人にはわからない本質があるのではないか。つまり、聞くのは野暮ということだ。

誕生パーティ

暴走族を卒業後、社会に出た浅野氏は、家業のお風呂屋の手伝いではなく、損保会社に勤めたという。どういう経緯かはきいていないが、営業する力は、どの業界・分野でも通用する。

「Palms」が始まる7時を過ぎたころ、炭火串焼「ゆう」を後にして、散歩がてら歩いて中板橋駅方面へと向かった。ゆかり夫人が語った浅野眞弥像は、その途中で聞いたものである。

まだ始まって間もない店内は、すでに何組かのダーツファンが来ていて、ハードダーツなどで盛り上がっていた。筆者には店のスタッフと客のちがいが明確ではないが、数人のスタッフを抱えて、長年店を切り盛りしているのだから、さすが東京のダーツの聖地である。

改めて、ジンフィズに最後はギネスを飲みながら、ダーツのレジェンドたちの話を聞いているのだが、とても付いていけない。それでも、ところどころに意外なつながりというか、思い出の場所が登場する。

1961年6月生まれの浅野氏は、2日前に65歳の誕生日を迎えた。その日、伍代夏子が来たかどうかは聞いていないが、面倒見のいい浅野氏は、誕生日には小中学校の同級生を集めて、誕生パーティを開いていたという。以前、小熊氏も誘われたことがあって、そのときは伍代夏子が野村律子氏と一緒にやってきたという。

筆者は伍代夏子とはどこかですれちがったぐらいの関わりしかないが、結婚相手の杉良太郎とは水谷八重子の紹介で会って、その後、2〜3回取材や撮影で会っている。人の縁とは不思議なものだが、それだけで親戚になったような気分になる。

チーム戦での敗北

浅野氏がダーツをやったのは、25歳(1986年)のとき、すでにダーツの日本代表だった同級生の野村律子氏から誘われてということだ。そのとき行ったのが、後に小熊氏と出会うことになる目黒のダーツバー「ブリーブルズアイ」である。

聞き慣れない英語だが、ブリーはイギリスのダーツ系クイズ番組の牛のキャラクターで、一般には「いじめっ子」を意味するとか。ブルズアイは文字通り牛の目玉=的の中心の意味である。ダーツ特有の用語でもある。

小熊氏によると、もともとは古くて汚い店であったが、改装して、浅野氏が来た当時は、ダーツボードを4面置いた、すっかりきれいな店になっていたという。その店をたまたま同い年のママがやっていたため、仲良くなって、よく通っていたのだとか。初めて行ったその店でダーツをやったのが、浅野氏のダーツとの出会いである。

ダーツをボードに当てる。簡単にできるはずなのに、なぜか当たらない。そんな状態でその日、いきなり団体戦に出場した。元日本代表の小熊氏は簡単に勝つと思ったフランス人女性に負けて、その悔しさから、その後、1日8時間、ダーツの練習を始めたというが、浅野氏の場合も、似たようなものであった。

相手はひ弱な「オタクっぽい」チーム。その相手にこてんぱんに負けたのである。「何で!?」という、その悔しさを晴らすため、彼もまた1日8時間ダーツの練習に励んでいく中で、ダーツに夢中になっていった。


鎌倉・海の家

レジェンドたちの話を聞いていると、ダーツに夢中になって、その後もずっとダーツを続けている連中は、みんなチーム戦を経験しているダーツファンだという。

どういうことかというと、チーム戦には、独特の緊張感があるのだとか。4人1組のため、当たり前だが、自分の一投が全体に影響する。その緊張感を知ると、止められなくなると話していた。個人競技と団体競技のちがいということか。助けたり、助けられたり、たぶん一人の喜びよりも、4人の喜びのほうがより満足感があるからだろう。

1999年の12月、浅野氏は友人と2人で、板橋の熊野町・首都高速5号線が頭上を走る山手通りに面した雑居ビルの4階に「Palms」をオープンした。初めて、ダーツと出会ってから13年後のことである。

浅野氏は父親と兄が、本格的に野球をやっていて、甲子園からプロを目指していた。次男の彼も運動神経は良いはずだが、そんな2人を見ていたので、とても野球では彼らに敵わない。結果、暴走族になったとも思えないが、ダーツに出会って、ようやく彼は自分のやるべきことを見つけたようだ。

もっとも、その店は「よく、こんなところに!」と、小熊氏も驚いたという古いビルの4階だった。決して、地の利がいい場所でもない。ダーツボードを2台を置いたのも、集客のためだった。そんな店だったが、ダーツ界で少しは知られた存在であったことと、仲間を大切にする彼の人となりもあって、人が集まってきた。

現在の「チームバトル」の原型となる「パームス杯」を始めて、試合の日は3階のアダルトショップの一室なども借りたそうだ。その店はAVの撮影用にピンクの部屋などもある若者には楽しい空間ということもあり、不便な場所にあっても、なぜか人気があった。

そのころ、浅野氏は日曜日になると鎌倉の海に行っていたようで、夏のシーズンには彼が店からいなくなったという。なぜか鎌倉・由比が浜の海の家の利権を得ていて、人に貸したりしていたのだが、ついに自分で始めて、壁にダーツボードを掛けて、ダーツ仲間が集まるようになった。そのダーツボードを見て、鎌倉の古い住人が、懐かしそうに「昔、鎌倉ミルクホールって、ダーツの店があったんだ」と語っていたとか。

そんな海の家の話を楽しそうに語っていたが、4〜5年やって、最後は冷夏のため海水浴客が激減して、大赤字を出して止めたと、小熊氏が代わりに教えてくれた。

ハワイでの結婚式

浅野夫妻のダーツ界における伝説は、ラブストーリーとは別に、ハードからソフトへの移行期。2007年にソフトダーツプロトーナメントの「PERFECT」が誕生。その一年後、ソフトダーツ機器メーカーのD-1を主体にした「D-CROWN」が設立されて、国内のプロリーグ、つまりは賞金の出るトーナメントの開催とともに生まれた。

「D-CROWN」がスタートした年の7月、2人はハワイの教会で結婚式を挙げた。出会ってから、何と20年後のことである。その「D-CROWN」の設立に深く関わり、「D-CROWN」のスタープレーヤーとして、いわば先頭に立っていたのが浅野夫妻だったのである。

当時、すでに「Palms」は2人の店となっていて、その後、現在の中板橋に移転。東京の「ダーツの聖地」と呼ばれるようになっていた。

どうでもいい話だが、以前にも書いているように、筆者夫婦もハワイの教会で結婚式を挙げている。

そんな意外な共通点を見つけて、やはり日本のダーツの始まりは、改めてラブストーリーだと納得したものだが、その日の「Palms」での話の中で、意外にも彼ら第2世代は、イギリス出身のアイヴァン・ブラッキンと妻である作家・森瑶子さんとのラブストーリーが、日本のダーツの原点だという事実を知らなかった。

まさに世代の差であり「そうなんだ」と思うしかないが、その事実は日本のダーツがイギリスをはじめとした世界とは一線を画しているとともに、世界とは異なり、愛と平和が日本のダーツの原点であることが、世界に語り継がれるべきストーリーだと、改めて思い知らされた。

 
 
 

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