top of page

ベルマーク、ブルーチップ活動の先駆けとなる「慈善券」とは?  「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(10)

更新日:1月6日



 ベルマーク、ブルーチップ活動の先駆けとなる「慈善券」とは?

 「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(10) 


 小林氏の「陰徳」

 ライオン歯磨の慈善券については、今日のベルマーク運動やブルーチップ活動に先んじる慈善事業として、すでに第13章「生涯の一転機」で紹介している。

 第17章では、改めて小林氏の慈善事業をキリスト教信仰と関連して取り上げている。

また、第18章「小林氏の徒弟教育」は、従業員に対する教育について、大企業に先駆けて行っていることが、よくわかる。

 ライオン歯磨の成功に関しては、これまで電通を引き合いに、大胆な広告、アイデアなどをクローズアップしてきたが、そうした目立った活動とは異なる社会貢献、奉仕の活動こそ、小林氏の面目躍如たるところである。

 筆者・加藤直士氏は、その慈善事業を小林氏の「陰徳」として、明らかにしている。

          *                  *

 第17章「小林氏の慈善事業」

 小林氏の慈善心は、ほとんど天性のものであった。彼ほど物の憐れに感じて涙もろい人はなかった。とりわけ、可憐なみなし子や気の毒な老人などを見るときは、たちまち人前でも涙した。そのため、自分の力の許すかぎり身寄りのない人たちを助けてやりたいとの一念が一生の大目的となっていた。

 彼は非常に情に脆い人であるから、憐れな人の話を聞くと、財布の底を払うのを常とした。そのため、しばしばだまされたこともあったようだが、幸いなことに、氏の慈善心はそうしたことに左右されることはなかった。

 信用するに足る慈善団体にはいつも協力を惜しまなかったが、多少、趣旨があいまいで利益優先の者には断じて助力を与えなかった。

 かつてある宗教で営んでいた孤児院の主任が、小林氏の店に来て、寄付を請うたことがあった。そのとき小林氏はその人の連れてきた孤児の着物の襟に第何号と書いてある布切れがあるのを見て、温和な顔に怒りを浮かべた。子どもを物品の見本のように取り扱う孤児院には残念ながら寄付はできぬと、厳しく言い放ったそうである。

 小林氏の慈善心は最初は、単に天性のものであったが、後にはキリスト教に学んだ人間の神の子たる尊厳との思想に、大いに影響されたようである。そのため、事業の基礎の確立しておらず、維持の困難な孤児院には早く解散して、ちゃんとした慈善団体に孤児院を託してしまうことを、何度も当事者に勧告したことがある。

 一方、誠実なる慈善事業の当事者に対しては、小林氏は惜しみない同情と敬意とを持っていた。彼が商業上などの旅行に出かけたときには、必ず時間を割いて、その地の孤児院を訪問して、親しく当事者と物語り、共に院内を観察することを無上の楽しみとした。

 もちろん、その時には多少のお金を寄付して、同情を表せざるを得なかった。このことは多忙な海外旅行の時にも、必ず実行した。米国のシカゴ市において婦人労働者の嬰児を就業時間だけ預かる事業をしているところを見た時には、保母らの手ですやすやと眠っている頑是ない赤ん坊の様子に、ハンカチを両眼に当てたまま部屋の戸口に佇んで、容易に去ることができなかった。その姿は、筆者が身近で目撃したことである。

 また、ドイツのハンブルグ港でカラフト人の一婦人が経営している孤児院を見た時にはその秩序の整然たる様と、その児童の服装が良家の子女と一見、見分けのつかぬほどであることにひどく感動した。のみならず、同夜、小林氏はその地の劇場に案内されると、その孤児院の児童らがある紳士の好意によって、揃って劇場に来ているのを見て、さらに驚いたことがある。

 孤児院は決して、児童の肉体を養育するだけのところではない。その父母に成り代わって教育を施すのはもちろん、適当な娯楽までも与えて、彼らに孤児院にいることを忘れさせるくらいにするのが第一の義務である。

 小林氏は慈善事業に関するこれらの感想を抱いて日本に帰り、一層、我が国の慈善事業を改善・発達させようと思ったようである。

 小林氏の大仕掛けの慈善的行為は、毎年2万円に近い慈善券の発行等によってなされていることは、すでに述べた。彼はしばしばこの事業によって、少しでも我が国の社会に慈善思想の普及を図ることができれば、それで満足であると語っていた。

 この慈善券の発行による寄付行為は多くの意味において、もっとも進歩したやり方である。

 第一に、これを受ける団体に確実な収入を与える。第二に、内務省その他の方面で調査した事業成績に基づいて分配するため、比較的公平の処置ということができる。第三に、社会の人々をして、もっとも広く慈善事業に関与する機会となる。

 このように、ためになる方法であるにもかかわらず、他の製造業または商人が、これを試みず、また試みても永続できない理由は何であるのか。これには少なくとも二つの理由があると思う。

 その一つは、慈善心の足りないことで、もう一つは宗教心の欠けていることだ。いかに慈善心があっても、天父を信じて、その前に恥じることなき者でなければ、到底、永続はできない。

 慈善券に関して、小林氏がなぜ実現できたのかは、まったく神の前での偽りなき宗教心の賜物であるというべきだろう。小林氏は常に、なぜ世間の商人らが、この有用にして有効な方法を採用しないのか不思議がっていた。実際、彼は多くの人々に、この方法を勧めたことがある。

 小林氏の慈善の行為に関連して、一言しなければならないことは、彼の隠徳である。隠徳を暴くのはその人の精神には背くかもしれないが、ここでは小林氏の慈善心について書くのが筆者の務めである。

 もとより隠れたる行為であるから、人に知られているところは極めて少ない。いわゆる「右の手のなすところを、左の手に知らしむるなかれ」との聖書の教訓を胸に刻んでいたので、小林氏は世間の人に慈善家と呼ばれることをもっとも恐れていた。

 そのような場合には「いや、恐縮です」といつも頭を垂れて沈黙した。そこで、わずかに筆者の知っている慈善の一例を述べれば「ライオン歯磨」発売後、数年のころである。

 ライオン歯磨の売行きが朝日の昇るように盛んになっていくのを見て、その模造品を売った者も多かった。中でも、ある一人は巧みに袋の商標を模造し、粗悪品を発売して不正の利益を得た。もちろん、このようなことが知られずに済むわけがないので、間もなく模造者は捕らえられ獄に投じられた。

 こうなってみると、哀れむべきは、後に残った家族である。悪銭身につかずで、一家窮乏の極に達し、日々泣き暮らしているとの噂を聞いた小林氏は、ごくごく内密に出入りのものを使って、若干のお金を月々その家に投げ込んでいた。

「不思議なこともあるものだ」と、残された一家の者は長い間、誰とはわからぬ慈善家を拝んでいた。後に、とうとうその行為が小林氏によるものであることが明らかになった。

 このことを聞いた獄中の人は果して如何なる感があったのであろう。彼は心の底から前非を悔いた。悪に報いるに善をもってする小林氏の恩に感激して、まったく精神的に蘇った。

 出獄の時、彼はその日のうちに小林氏のもとに走って罪を謝し、かつ検挙の際に巧みに隠蔽していた慈善券数万枚の模造袋を自ら持参して、これを小林氏に引き渡した。小林氏は泣いて喜んで、その者を慰め、その前途のために力になってやったとのことである。

 小林氏の所持する聖書には「新約聖書」ローマ書第12章20節以下の「この故に汝の仇、もし飢えなば此れに食わせ、もし渇けば、此れに飲ませよ。汝、こうするのは熱炭を彼の首に積むなり。汝、悪に勝たるるなかれ、善をもって悪に勝つべし」とあるところに赤鉛筆で、次のように書いてあった。

「これは勝ち得るの秘訣なり。模造者の入獄中、図らずも実行して喜べり」。小林氏はこの時に聖書の意味がわかったのだろう。

 この他、密かに友人または店員の窮乏を救い、直接間接に彼らの幸福を願った事実を知らぬでもないが、これらは公にすべきものでもなく、またその数個の事実をあげても、全体を語ることにはならないので、ここでは省略する。

 小林氏の葬式において、日本の社会福祉の先駆者である留岡幸助氏が全国の慈善団体を代表して弔詞を述べられた。その際、小林氏の今日までの慈善費を概算して、約20万円としたのは、公表された寄付金の額であって、人知れず小林氏の手より支出された無数の慈善金を合計すれば、とてもそれくらいの金額ではあるまいと思う。

 晩年のことであるが、小林氏はその教友・荒木眞弓氏と共に、大隈重信伯(元・総理大臣)を早稲田に訪れたことがある。そのとき、大隈伯は同席の某博士に向かい、小林氏を紹介して「孔子は仁をなせば富まずと言ったが、この小林君は仁をなし、かつ富める人である」と言われたそうである。

 筆者はこの章を結ぶに当たって、大隈伯のこの一語を上げることがもっとも適当だと考える。しかしながら、ここにいささか一考すべき問題は、小林氏は果して何十万円という金額を慈善その他の公共事業に寄付するだけの資格を持っていた富豪であるのかということである。

 小林氏は決して、世人がいうような意味での富める人ではなかった。彼の事業は、もちろん盛大なものである。毎年の純益もすこぶる多額である。

 しかしながら、彼のなした慈善の行為は、決してその財産に相応しいものではない。いわゆる身分不相応の慈善的行為というべきである。

 では、なぜ彼はそんな身分不相応の慈善家であることができたのかは、ただ一言、小林氏は自らを飾ることには、極めて縁遠かったということである。彼はできるだけ、自分の身を詰めて、その節約した分を惜しまず他に施すことをなした。

 教育勅語に、いわゆる「恭倹、己を持し、博愛衆に及ぼす」とあるのは、そのまま小林氏に当てはめることができる。小林氏の慈善事業を語るに際して、終生一つの別荘をも有せず、店舗の二階座敷で電車の音の轟々たる中に、平然として最後の病床についていたことを忘れてはならない。彼は真の意味での大慈善家であった。

          *                  *

 以下、第十八章「小林氏の徒弟教育」に続くが、その徒弟教育の在り方もまた、社員に対する慈善事業のようにも思えてくる。


 第十八章「小林氏の徒弟教育」

 小林氏が徒弟教育を思い立ったのは、もともと神戸時代のことである。播磨氏の石鹸・マッチ工場の職工等を教育するために、私財を投じて、新田夜学校を開いたことは、すでに述べている。

 その後、小林氏は所々に流転して、長らく教育には携われなかったが、歯磨工場を東京・小石川に建てるに及んで、早速開始したのが、いまのライオン工場夜学校である。これを起こした動機は、いろいろあろうが、その一つはある日、一人の工女が突然、ヒマをくれと申し出たことである。

 小林氏が「どうしたわけか」と尋ねると、辞めたいわけではないが「ただ近々お嫁に行くことになったため、工場でばかり働いていたので、少しも針を持つことを知らない。他家に嫁いで針仕事ができなければ困るから、今のうちにお暇をいただいて、裁縫の稽古を致します」との答えであった。

 この一言は痛く小林氏の胸を衝いた。なるほど、これは私が悪かった。ライオン工場が他人の子にそのような気持ちを抱かせては、父兄に申し訳ないと、早速、工場の一部に男女の職工のための夜学校を開いて、元・小学校教員らを招いて、一般教養と裁縫を教え始めた。

 当初、賃金のもらえる夜業がなくなり、夜学校になったことで、職工らは不平をこぼし、だんだん他に転ずる者も出てきた。これには小林氏も、大いに閉口して、しばらくの間は止むなく夜業の賃金を与えて、夜学校への出席を促したぐらいである。

 ただ、そのうちに、教育の有り難みがわかって、父兄らが御礼を述べにくるようになった。「いろは」のいの字も知らなかった女工も、今では手紙くらいは書けるようになり、針を持ったことのない少女も、どうやら着物を縫えるようになった。「昼は賃金をもらって、夜は勉強ができるのだからありがたい」と、職工の申し込みも次第に増えてきた。

 なお、小林氏は青年店員らには英語を学ばせたが、後には人数も多くなり、希望の学科も増えたので、相当の教師を店に招いて、毎夜、勉強させることにした。

 これは本店のみならず、各地の支店でも同様に行っている。「これからの者は教育がなくてはダメである」と言って、盛んに店員の勉強を奨励した。これは小林氏の信条から来るものであり、店員や職員は決して、自分の利益を得るための道具ではない。自分と一緒になって、店を発展させてくれる協同者だからである。

「自分の教育が不十分であったので、とりわけ店員の教育が必要である」と常々、小林氏は話していた。葬式のときに、島田三郎氏が友人代表として読まれた弔辞の中に、普段、他人の多くが言わなかった、この点を強調した一節がある。

「君が事業家として立つや、ただ良好な物品を製するをもって満足せず、合わせて良好な人物をつくろうとした、故にその店員は君の門下生なり、その職工は君の子弟なり。

 君がその門下生、子弟に対するに勤勉克己、禁酒節倹、繰り返しこれを口にするのみならず、実践をもってした。君の業務の成功は世間はすでに知っている。しかしながら、まず人をつくり、その人と力を合わせて、共に業務を広めようとの主義に至っては、特に指摘しないわけにはいかない」

 小林氏が従業員を思う心は、自分の店員・職工のためのみならず、広く恩恵を他にも及ぼそうと務めた。キリスト教青年会が時々催す「実業家子弟歓迎会」のごときは、小林氏のもっとも賛同して、時間とお金とを提供したものであった。

 また、神田・日本橋あたりの店主・店員に知識と理想を吹き込むために、率先して「神田会」を組織し、後に同業組合に属する商店の子弟のために「同業店員啓成会」を組織するなど、もっぱら青年の社会教育のために尽力した。

 彼は非常に青年を愛して、自分もその仲間に入って、活動することを好んだ。その進取の気性、積極的な態度は五十の坂を越えた後も、二十年前の壮年時代と少しも変わりはなかった。青年子弟に対する同情の強かったのは、一つはその活動的なる性格のしからしむるところであろう。

 徒弟教育に因んで、記載すべき一事がある。それは小林氏の洋行土産の一つとして、語学蓄音機という機械を我が国に輸入したことである。元来、小林氏は自分の営んでいる商業に無関係な事業には一切、手を出さぬという方針の人である。ところが、この時ばかりは非常に熱心にこの蓄音機の輸入販売を試みた。

 小林氏と筆者の2人が米国ニューヨークに滞在中、酷暑の候であった。ある日のこと、小林氏を一人ホテルに残して、筆者は所用のために外出した。

 小林氏は昼の暑さに耐えかねて、一人、自分の部屋のベッドで、うとうとしていた。すると、隣にある筆者の部屋の電話のベルが鳴り出した。

 寝ぼけ眼の小林氏は不意に立って、電話口に行くと、そこが外国であることを忘れて、「もしもし、どなたですか」と聞いた。すると、先方は西洋人の声で、何やらしきりに話しかけるのだが、さっぱりわからない。

 ただ、時々「ミスター加藤」という言葉だけがわかる。小林氏は受話器を手にしたまま一言の返事もできずに、立っていた。先方はますます何か話かけるので、とうとう「加藤はおりません。加藤君は不在です」と言い放ったので、先方は初めてそれと察したのか、如何にも力の抜けたような口調で「オーライ」と言って電話を切った。

 やがて、筆者が外から帰ってくると、小林氏は何やら申し訳ないような顔をして「実は大失敗をやりました」という。「何かありましたか?」と尋ねると「あなたの留守中に電話が来ました」という。「どこからですか」と尋ねると、小林氏は頭を掻いて「さあ、そのどこからがわかるくらいなら良いのですが、ちっともわからないまま終わりました」と、一部始終を語った。

 その時、小林氏の思ったことは、世の中には「猫の子の役にも立たぬ」ということわざがあるが、自分はそれであると。

 電話がかかってきたとき、いっそのこと、自分がいなかったら、ホテルのフロントで用件だけはメモしておいてくれるのに、なまじ電話口に出たために、肝心の用件は皆目わからないままになった。

 ということは自分はいないほうが、よっぽどマシな人間である。外国語ができないようでは、まったく一人前の人間とは言えぬ。「これからは日本人に英語の勉強を奨励するのが、第一の急務である」と、小林氏はつくづく考え込んだのである。

 そこで、小林氏は筆者に、何でもよいから英語の研究に便利なものがあったら、書物でも機械でも特約して、帰国後、輸入を試みたいものだとの相談があった。

 ちょうど、ニューヨークにいた日本の友人が語学蓄音機を見て来たというので、早速、その店に行ってみた。なるほど巧妙な機械で、これなら英語の発音や会話を学ぶのに、外国人の教師を雇ったも同然である。そう考えて、早速、この製造元と交渉を始めた。最初に数百台の注文をするとともに、日本及び東洋での一手販売権を得ることになった。

 帰国後、しばらくの間、筆者はそのための事務を担当して、これに伴う教科書をつくり、さらに中国語にまで翻訳させて、機械とともに広く全国及び中国に販売するようにした。

 語学蓄音機が果して、生きた教師の代用になったかどうかは疑問であるが、これが日本の語学界に強い刺激を与えたことは疑いない。

 いまは、一応、行き渡って、あまり売れなくなったと聞くが、当初は数万円の輸入品が間もなく、売り切れた。

 東宮侍講(皇太子の教育係)の某氏がしばしば実験に来られて、英・仏・独の三国語の分を御買上になった時などは、小林氏の満悦ぶりは、例えようがなかった。

 これは小林氏の洋行土産の一つに過ぎないため、直接、徒弟教育に関係はないが、いかに小林氏が青年子弟の教育、とりわけ外国の知識を普及するのに熱心であったかを示すものだと思うので、紹介した次第である。

          *                  *

 以下、第19章「店主としての小林氏」に続く。


 
 
 

コメント


bottom of page