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失敗は成功の元、そして「ライオン歯磨」大成功へ  「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(7)

更新日:10月4日

失敗は成功の元、そして「ライオン歯磨」大成功へ

 「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(7)


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 好運始めて循環し来る

 これまで「ライオン」で出している創業者・小林富次郎氏の小伝などに、越後には多いという「眼病」を患うとの記述を目にしていた。加藤直士著『小林富次郎伝』の「故郷と幼時」の章にも、その記述があり、一時は失明の危機もあって、十分な読み書きも習うことができなかったと、すでに紹介している。

 だが、第11章の「好運始めて循環し来る」は、幼時とは別に、すでに事業を始めて上海にも行って、帰国した後のことである。

 経済的な余裕もない中、8カ月の間、入院して何とか一眼だけは見えるようになった。

意外な闘病生活は、それこそ、彼の「生涯、最大の試練の時だった」わけである。

 そこからの再出発は、まさに「失敗は成功の元」「災い転じて福となす」である。

 以下、第11章「好運始めて循環し来る」から、第12章「ライオン歯磨の大成功」へと続く。

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 第11章「好運始めて循環し来る」

 石巻におけるマッチの軸木事業は、時期尚早との事情に加えて、様々な災難のため、まったくの失敗に終わった。だが、これは事業そのものが悪いのではなく、ただ大規模な製造が時勢に合わなかったためである。

 そこで、小林氏は播磨氏の承諾を得て、機械を売却。工場を縮小し、誰にでもやれるような小規模の工場にして、後事を神戸から来た店員の一人に託して、自分は一先ず職を辞し、病身のまま、悄然として東京に帰ってきた。

 明治24年(1891年)の春のことである。

 7年前、海外発展の大志を抱いて、上海に渡るべく東京を去って以来、悪戦苦闘を続けて、成功と見えて、その果ては失敗と病苦を身に負いつつ、東京に帰って来た小林氏の心境はどんなものであったであろう。氏は東京に来て、慎ましやかな日々の中、療養生活を送っていた。

 約8カ月間、桐淵眼科医院に入院して、診察を受けたので、何とか一方の眼だけは見えるようになった。(小林氏の眼は二つとも開いていたが、一眼はまったく視力がなく、他の一眼だけが、強度の近眼鏡によってわずかに見ることができた)。

 この間、一家の窮乏生活は極点に達し、加えて事業の失敗の影響から来る様々な内憂外患もあり、周囲のあざむきや友人の誤解など、交々一身に集まり来て、小林氏は時折、人目のないところで熱い涙を流したそうである。

 小林氏が筆者に語って曰く「私が一生において、もっとも困窮したのはこの時である。

当時、私にキリスト教信仰がなかったならば、恐らく自暴自棄に陥って、いかなる無謀の挙に出たかわからない」と。

 小林氏はちょうど良い時期にキリスト教徒になっていたのである。

 経費の都合もあり、長く入院しているわけにも行かないため、その後、眼科医院の近くに小さな家を借りた。播摩氏の好意で月々わずかな手当てを受けて生活していたが、妻ハンは夫の眼病の到底不治なるを知り、日本橋近くに労働者相手の飲食店を開業し、幼少の養女いつ子を育てながら、辛うじて糊口の途を講じた。

 もっとも飲食店といっても、主に仕出し弁当だったが、女手一つで病める夫を看護し幼き子を育てて、一家の生活を支えた妻ハンの苦労は名状しがたいものがあった。

 当時、家人はもちろん自らも失明の覚悟をしていたが、幸いにしてその年の秋、一眼を快復した。一家の喜びは例えようもなく、小林氏もいずれ再起を図ろうと思っていたという。

 ちょうどそのころ、播磨氏が所要があって、東京にやってきた。一家の状況を目にして気の毒に思った彼は、自分が後押しするから、何か事業を始めたらと勧めた。そこで小林氏は7年後に東京に帰ってみたら、石鹸事業は30~40軒もある中、自分が鳴春舎時代に使用した人たちは主任または職工長になっていて、すでに居場所がない有り様である。

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 一方、マッチ業者には神戸以来の取引上から懇意の人が多い。そこで石鹸及びマッチの原料の取次業を開始することができたら非常に好都合であると答えた。

 折りしも当時、播摩氏はいささか多めの牛蝋(牛脂入りのローソク)の在庫があって、

その売りさばきに苦慮していた矢先であった。早速、小林氏の計画に賛成し、差し当たりこれらの原料を送ることとなった。

 小林氏はこのとき、初めて本所・小泉町に小さな店を開き、病み上がりの身ながら、終日、熱心に売りさばきに従事した。しばらく後には、店は大いに盛況を呈することになった。

 これは一つには鳴春舎時代の小林氏の人望があってのことだが、もう一つには石鹸及びマッチに関する小林氏の経験・知識が、役立つことになったためである。

 もともと小林氏の持って生まれた親切心は、単に友人との交際上だけではなく、商売取引の上など万事に及んでいた。何でも取引先の便利を図って、我、人ともに利益を得るのが商売の道であると心得て、普通の商人なら利益を独り占めにするため秘密にすることでも、得意先のためには惜しまず秘伝を授けるという態度を取っていた。

 これは何も国家の利益と国民の幸福のためなどといった高尚な理想のためばかりではない。まったく人に対する親切心から来るものであった。しかるに、このことが期せずしてその商売の成功の一大秘訣となった。原料の取次業の意外な繁盛によって、自らも利益を得て、得意先も喜んだためである。

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 こうして、ようやく手ごろな商売が見つかり、将来の見込みも立ったため、明治24年10月には神田柳原川岸の現在の店舗のところに移って、小さいながらも少しは店らしい店を開いた。この店はいまの小林商店の最西端に当たる一部で、現在の10分の1の広さであった。

 当時、取り扱った商品は牛蝋、ヤシ油、カセイソーダ、香料、軸木、塩酸カリ、赤燐などもあって、あるものは播摩商店より、あるものは横浜の松村商店より委託されたものである。

 時運いよいよ到来したと見え、移転の当日にも荷物の出入りはなかなかたくさんで、引っ越し荷物の散乱する中でも、多くの取引が出来たほどであった。

 内外の形勢も、おいおい好況を呈したので、日本橋の飲食店は早速引き上げさせ、最初は親子3人と一人の見習い店員だけで、何もかもやっていた。翌年には業務の発展とともに、月々店員の必要を感じるようになり、その年、金港堂書店に奉公に出していた養嗣子・徳治郎氏を呼び寄せて、家業に従事させた。

 これより、数年の間は商運ますます順境に向かい、毎年毎月多少の純益を収めて、一月として損を生じたことはなかった。特に、明治25年に始めて南洋産のヤシ油を石鹸に使用することを計画し、試みに横浜「英一番館」から20トンのコプラ(ヤシ実)を買い入れて埼玉県の大畑製油所に搾油したのが、大いに当たって、それから毎年、南洋からくるコプラを買占め、莫大な利益を収めた。

 この事業は数年間、小林氏の独占事業ともいうべきもので、小林商店の基礎はこのときに固まったのであった。

 ここで一言すべきことは、ヤシ油を搾ることはまったく小林氏の創意によるものではなく、当時高橋某がこれを試みて、広く販売を試みたものだが、ついに成功しなかった。その理由は、日本製のヤシ油を外国製の商標で販売したので、使用者は多少、品質に劣るため、これに懲りて、再び使用する者がなかった。

 小林氏は最初からこれは日本製である、品質は少し劣るが、値段は安いから辛抱して使って見てほしいと、あからさまに打ち明けて販売した。製造メーカーは値段と相談の上、どしどし舶来の代わりに、和製のものを使用することとなったのである。正直にまさる商略はないとの言い伝えの通りである。小林氏のこのときの成功は、まったく正直の賜物であった。

 ヤシ油事業についで、大いに利益が上がったのが、東北産のマッチの軸木をついに神戸に搬出したことである。奥羽における3年間の苦心は一時はまったく水泡に帰してしまったが、その時に得た知識と経験とは、遂にことごとく成功の原因となった。即ち、東北産の軸木原料並びに製造に精通していた結果、小林商店の軸木部の事業は多大の成功を収めた。先に小林氏のために損害を受けた播摩氏も、この時の取引によって、優にこれを回復したとのことである。

 小林氏はこの時のことを回想して、以下のように語った。「播ける種はついに葉を出した。禍変じて福となった。石鹸といい、マッチといい、昔日の失敗はことごとく変じて、今日の成功を生んでくれた。天は決して、無意味に人を苦しめないことをしみじみ実感したのは、実にこの時のことである」と。

 この他の商売においても、小林商店の商運は、不思議にも万事、都合好くいった。好運は始めて氏の上に循環して来たのである。

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 第12章「ライオン歯磨の大成功」

 明治29年(1896年)の夏であった。小林氏は嗣子・徳治郎甥友三郎及び今の大阪支店長・井口昌蔵の3氏の熱心なる希望により、一種の歯磨の製造を試みることにした。

 これより先、小林氏は神戸・播摩の製造した無水石鹸の関東一手販売店となったので、少しずつ他の化粧品の委託販売にも従事していた。また、そのころからかねて腕に覚えのある石鹸製造の事業も開始して、一小工場を新宿に持っていた。

 ところが、小資本の工場で、設備も不完全なため、雨天の時にはとかく職工の手が開くことになる。そこで、主任の友三郎氏は何か石鹸の傍ら、職工の手を塞ぐ仕事がないかと考えていた。同時に、店のほうでは当時、もっとも売れ行きの良かったダイヤモンド歯磨が月々3000円も売り上げがあるという噂を聞いて、これはなかなか有望な事業であるとの見当をつけ、折りに触れて、その製造法を研究していた。

 もちろん、誰かから製法の伝授を受けるわけにも行かず、最初は試みに片栗粉などでつくってみたが、うまく行かない。たまたま、当時、外国貿易に関係していた北山某という人物が、親切にも小林氏に外国製歯磨の製法の大体を教えてくれた。そこで、早速、新宿の石鹸工場で製造してみたところ、意外な好成績を得たので明治30年の春、いよいよこれを発売することにした。

 発売に先立っていかなる名前をつけようかといろいろ相談した結果、当時は鹿印とか象印とか、動物の名をつけることが流行していた。ライオンは呼び声も良く、それに百獣の王であるから縁起も良いと衆議一決して「ライオン歯磨」と命名した。

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 後には、獅子の歯牙が強くて純白であることに因んでライオン歯磨の効能を吹聴したこともあったが、これは後からつけた理屈である。

 さて、1年余りにわたる試験及び準備の上、発売の段になると、何よりも大切なものは広告であることがわかった。これには熱心な店員の要求もあり、いよいよ実行の見込みも立ったので、小林氏は思い切って、広告に資金を投じた。しかも、その広告の仕方は、当時の人々の意表をつくものであったため、ライオン歯磨の名声はたちまち国内至る所に行き渡った。

 即ち、明治31年(1898年)には小林氏自らが音楽隊を率いて東海道より広島まで、お囃子で練り歩いた。広島よりは、店員・山崎氏を別動隊として帰路、伊勢路を巡らしめ、小林氏は九州一円及び四国を巡回し、一先ず東京に帰って、再び東北及び北海道をも音楽隊で広告した。

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 販路の拡張に伴い、九州及び中国地方の客先の便利のため、明治32年(1899年)には大阪に開店した。かくして、ライオン歯磨の需要は関東といわず関西といわず、日に日に増加する一方であった。

 もちろん、実物広告の他に広く全国の新聞雑誌にも大仕掛けの広告をした。その小林氏の広告で、もっとも世間を驚かせたのは明治33年(1900年)に領国・回向院の大相撲を10日間買い切って、東京中の相撲ファンを招いたことである。

 この壮挙には数千万の大金を要したように見えたが、実は木戸銭代わりに10銭の歯磨大袋を入場者全員に売ったので、入場者はタダで相撲を見たつもりでも、小林氏の懐は商品の大販売により、大した損失もなく空前の大広告ができたのであった。

 この相撲買い切りの一事は、もっとも意表をつく広告の仕方として都民の人心を驚かせた。

 このように、最初はわずかに本業の傍ら、試みに始めたに過ぎない歯磨事業が予想外の盛況を呈するようになった。原料取次ぎの本業もライオン歯磨の成功とともに発展していくという具合で、小林商店の商運はさながら旭日昇天の勢いであった。

 ところが、このように一家の幸運が巡り来たった時に、小林氏にとり一生の心残りともいうべき出来事が起こった。それは明治32年2月に28年間辛苦をともにしてきた妻ハンを失ったことである。

 彼女は2、3年前よりリウマチにかかり、脚部不随に陥っていたが、小林氏に付き添われ、熱海に入浴療養中、肺炎を併発して、ついに不帰の客となった。この不幸に際し、小林氏は筆者に向かって、次のように語った。「筆者も妻の臨終まで看病し、療養いささかも怠らなかったが、妻は商運の開けゆく様子を見て、喜び、安心して永眠したのはせめての慰めであった。ただし、失敗の苦労のみで、成功の幸福を十分に分かつことができなかったのは、私の一生の恨事である」と。

 まさに糟糠の妻を失うにまさる不幸は世上、何ものもない。とりわけ、小林氏が半生の逆境にあって、今日あるのは、まったく妻ハンの内助のおかげである。彼女がいかに貞淑賢明の人であったかは、永眠の当時、20余名の店員がみなその母を失ったかのごとく慟哭した一事でもわかる。

 ライオン歯磨の成功については、今日の姿を見れば、筆者は多くを語る必要はないだろう。ただ、後年、小林氏と英国に渡った時、年来、歯磨のある原料の供給者である某商会主人が小林氏に向かって「あなたは世界第一の歯磨製造家である。それは自分の商売柄よくわかることだが、世界中であなたほど多く、この原料を使用する人は他にない」と言われた一事を記すに止めよう。

 いかにも西洋諸国には有名な歯磨製造家もある。ただし、多くは他の化粧品の傍らにしているので、小林氏のごとき専門の大製造家は他にない。というのも、一つは日本人が比較的潔癖で、いかなる労働者でも幼児でも、歯磨を用いないものはないからだろう。

 欧米諸国では、歯磨は決して日本におけるような廉価な日用品ではない。小林氏はこの廉価な日用品の供給者であることを、密かに誇っていた。彼は日本の人口から割り出して日本国内だけでも少なくとも、いまの30倍の売り上げの余地があると、よく人に語っていた。

 それに欧米並びに東洋諸国を旅行の結果、これらの諸国に輸出する額も年々増加しつつある。米国のルーズベルト大統領がライオン歯磨の寄贈を受けた時、金子堅太郎男爵に向かって「この商品が多く米国に輸入される一事は、商売上の黄禍の一好例である」と冗談を言われたそうだが、これはあながち一時の諧謔だけではあるまい。

 まさに、小林氏は世界に販路を広める自信を抱いて、終生奮闘を続けた。世の小林氏の成功を語る者も、ライオン歯磨の由来について知ることは少なく、また現在いかなる販路を国の内外に持とうとしつつあるのか、想像できない者も多いと思う。そのため、ことの由来を記しておく次第である。

 また、世間では歯磨事業を暴利のあるものと考えるようであるが、それは大いなる間違いで、実際、莫大な広告費を見積もる時には、どうやったら引き合うのだろうと怪しまれるほど、薄利のものである。

 それにもかかわらず、小林商店が年々多額の利益を収めていくことができるのは、まったくその売上高の大きさによる。一銭五厘の小袋だけでも、1年間に2200万個以上の売上げがあるので、その額は30万円以上に達する計算になる。いわゆる数でこなす商売とは、このことであろう。

 ライオン歯磨の大きな広告などを見て、いかにもボロい商売のように想像する人々は、自分たちが毎日、使用する廉価な歯磨が、年々数十万円の売上高に達することを知れば、ライオン歯磨の驚くべき成功について、何ら怪しむことはないだろう。

 ちなみに、ライオン歯磨の姉妹品である万歳歯磨について、一言しておこう。小林氏が米国に渡航して、同地に販売を広めようと試みた時、ライオンの名前にしては、あまりに価格が低廉すぎる。

 あまり安いのでは、米国人は口に入れるのを不安に思うだろうとの注意を受けた。なおかつ米国には「ドクトルライオン歯磨」という有名な商品が売れつつあったので、これと発音の紛らわしい点もある。

 そんなことから、米国向きとして、さらに高級なるものを売り広める必要があり、新しい歯磨を製造するに至ったものだ。「万歳」は当時、日露戦争勝利の報もあり、米国至る所に万歳の声を聞いたことから、この「万歳」を商標に用いた。その後、日本にも同様の需要が起こって、いまは両方とも売られるようになったわけである。

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 日露戦争は明治37年(1904年)から翌38年にかけて行われたものだが、小林氏が香港から帰って、再出発する当時の世相がどのようなものであったのかを、少し紹介しておくと、当然ながら、それは遠い歴史の中にある。

 例えば、明治22年(1889年)は、明治憲法発布の年であり、立憲君主制のもとに日本の政治が進められることになった。そして、翌23年(1899年)に第一回総選挙が行われ、国会(衆議院と貴族院)が招集された。

 そんな中での石鹸・歯磨、そして斬新なマーケティング、広告手法というわけである。

 時代背景を振り返れば、まさに画期的なベンチャーなのである。

 次回、第13章は「生涯の一転機」である。音楽隊を用いた広告、大相撲への招待に続く秘策は、すでに明治期に、今日の企業の在り方を先取りする社会的貢献を形にしたものである。

 
 
 

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