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日本企業の社会的貢献の先駆けとなる「ライオン歯磨」慈善券の発行  「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(8)

更新日:11月4日

日本企業の社会的貢献の先駆けとなる「ライオン歯磨」慈善券の発行

 「ライオン」創業者・小林富次郎の実像(8)


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 明治期の広告代理店

 明治期における音楽隊によるライオン歯磨宣伝の全国行脚、大相撲招待など、ライオン創業者・小林富次郎氏の広告戦略は、実にユニークなものである。

 その手法並びに社会的な影響力は、今日における電通・博報堂を味方につけたかのような勢いである。

 だが、明治期の広告代理店は、1883年(明治16年)に福沢諭吉が「広告」という言葉を発案。各種新聞の発刊とともに、広く使われるようになり、多くの広告代理業が誕生している。

 だが、博報堂(1895年)も、電通(1905年)も創業当初は、広告の取次ぎ、ブローカーとして「広告屋」と呼ばれて、とても今日のような社会的地位にはない。

 そんな中で、ライオン歯磨は広告代理店顔負けのユニークな広告戦略を、次々と打ち出して、世間の注目を浴びることになったわけである。

         

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 第13章 生涯の大転機

 ライオン歯磨の成功を記するに当たって、画期的な広告とともに特筆しなければならないことは、慈善券の発行のことである。

 この慈善券とは、当時、よく知られていたようにライオン歯磨の小袋を一枚一厘(一銭の十分の一)で小林商店が買い戻すという約束を、広く消費者と結んだものである。その仕組みはライオン歯磨の愛用者が、使用後の紙袋を取っておいて、これを自分が支援したい慈善団体に寄付をする。寄付を受けた慈善団体は、この券をまとめて小林商店に持ち寄り、その枚数に従って現金と交換する。

 ところが、その中には孤児院等に寄付されずに、そのまま棄却されてしまうものが、大量にある。この現金に引き換えられない分は、これを現金に換算して、その金額を全国の信用ある慈善団体に分配する。

 筆者がこの章を書いている前日に、全国の新聞に発表された第10回慈善券決算報告によれば、明治43年度(1910年)における年間の慈善券発行高は、実に2万1989銭2厘に上っている。即ち、1年間に売りさばいたライオン歯磨(小袋入り)は、総計2198万9892 個に達した。

 ところが、同広告に明記してあるとおり、同年度内に空袋を現金に換えた請求分は金9238円80銭3厘に過ぎない。残りの分は、いまだ消費者の手元にあるか、心なき人々によって捨てられたかのどちらかである。そこで、今回も広くその引換えを促すとともに未引換え分を適当な方法によって、慈善事業に寄付すると広告した。追って、その分配金額は例年通り新聞紙上に掲載される。この分配法は内務省の調査その他の統計により、出来るかぎり正確に公平に実行されたことにより、世間の信用を受けることになった。

 さて、このように年間2万円ほどの慈善券を発行し、その全額を全国の慈善事業に寄付するとの大事業を毎年、繰り返していくわけだが、そもそも、いかなる動機で始められたのであろうか。

 明治33年(1900年)に小林氏は重い腸閉塞(イレウス)にかかって、一時は危篤に陥った。10日間、絶食状態となり、最悪の事態を覚悟して、遺言まで残した。

 ところが、不思議なことに、一度は葬式の準備までした重病者が全快するに至った。そこで小林氏は、病中の決心を実行する覚悟を固め、出来る限りの力を慈善事業その他の方面に尽くして、万事において大衆とともに楽しむ生活を送るようになった。

 実にこの大病は小林氏にとっての生涯の転機であった。一生の分水嶺であった。もしも小林氏の晩年20年を2つに分けることができるとすれば、東京開店より、この大病までは自分のための10年間で、この大病から亡くなるまでは人のための10年と評することができる。

 もちろん、前の10年間にも世のため人のために尽くしたことは、数え切れないが、後の10年間はまったく自らの身を神と人とに捧げた生涯であった。思うに小林氏は病中、これまでの生涯を思い巡らし、いくたびか天の恩寵の恵み深さに感泣したであろう。

 以前は、心残りがあっても日常のことに追われて、何らの慈善を社会に尽くすことができなかった。けれども、自分は決して己れの幸福のために生きている者ではない。己れの成功はすべて天からの賜り物である。即ち、我が財産は社会の不幸な者に幸福を分かつべく天より委託されたものである。

 これを私するは、天意に背くのみならず、断じて自らの一身一家の幸福を全うする道でもない。過去のことは忘れて、この度の大病より快復することができれば、余生はすべてを神と人とに捧げて、少しでも社会の幸福を進めるために努力したいものだと堅く覚悟を決めた。

 この覚悟を実行するため、第一に我が国の慈善事業の力になりたいと考えたが、いかんせん限りある資力では限りなき要求に応じるわけにはいかない。何か妙案はないかと病床にあって、いろいろ思いを巡らしていた。

 そのとき、ふと思い出したのが、かつて米国の一新聞に出た事例を「時事新報」(福沢諭吉が創刊)が、詳しく紹介したことのある慈善券発行のことである。小林氏はつくづくこれは妙案であると考えた。

 一個人の力はいかに大きくとも知れたものであるが、もし全国民に慈善思想を普及させたならば、結果的に慈善事業普及のための大いなる基礎を与えることができるだろう。

 従来、我が国の孤児院その他の慈善団体を見るに、その経済上の基礎、いずれもみな不安定である。少額ながら、年々定まった収入の道を与えることは非常に重要である。

 慈善券の発行は、確かにその一端を補う方法であると考えついたため、小林氏は当時約6700万個売れていたライオン歯磨の小袋の一個一個に1厘ずつの慈善券を印刷して、

これを発行するとともに、その趣意書を書いて東京都下の各新聞に1ページ大の広告を出した。明治33年11月、小林氏が危篤に際し遺言をしてから、間もないことであった。

 この広告が新聞紙上に出ると、世間では一方ではこれは感心なりと誉める者もあれば、一方にはまたも小林氏の広告戦略かと嘲笑をもって迎える者も多かった。

 ところが、翌年になって前年度の諸慈善団体に分配した金額の報告を見るに及んで、世間は初めて驚いた。

 このことに関して、面白い話がある。それは小林氏の大得意だった某商店主人が、真面目な顔で忠告したいきさつである。

 某氏の言うには、引換え済みになった分はともかく、未引換え分まで馬鹿正直に現金に

換えて分配する必要はなかろう。すでに発行したものを引換えに来ないのは先方の落ち度である。そこで内密の話だが、世間には全部引き換え済みになったことにして、その未引換え分を、我々ライオン歯磨の特約店に分配してくれたらいかがであろう。そうすれば、我らもどれだけ恩にきて、商品の販売に精出すかわからない

 そう小林氏に説いたところ、小林氏は「ご説ごもっともであるが、発行した慈善券はいったん社会に提供したものであるから、これは社会のものである。私のものではない社会のものを横領したら、それこそ社会の犯罪人である。犯罪までして、ご同様の利益を図らぬでも良いのではないか」と、微笑を浮かべて答えたので、某氏はその後「小林氏の馬鹿正直には付ける薬がない」と嘆息したそうである。

 当時の売上高6700万個に対する慈善券は、わずか6700円に過ぎなかったのに、そんなことが言われたのだから、10年後の今日、2万円の発行高となれば、さぞ同様の評言をする者が多かろうと思われるが、事実はまったく逆で、小林氏の誠意を疑う者は誰一人いなかった。

 なお、この件に関して付記すべきことは、慈善券発行による商品への影響である。ある人は小林氏があれだけの金額を慈善事業に寄付する以上は、その分、商品の品質を落とさなければならないはずである。となれば、慈善の行為は小林氏のものではなく、愛用者のみの負担と考えることもできると。

 これは確かに一面の真理ではあるが、全面の真理ではない。なぜならば、一枚につき1厘の慈善券は、決して品質を落としたのではなく、ただこれまで小袋を入れてあった外箱が非常にきれいなものであったのを、粗末な段ボール箱に改めたので、少しも商品の品質を落とさずに1厘ずつの節約ができた。

 要するに、慈善券はライオン歯磨の愛用者が知らず知らずのうちに節約して慈善事業に寄付することになる。こうして、小林氏は余計に儲けようと思えば儲けられた分については、愛用者の慈善の行為をそのまま取り次いだに過ぎない。これが即ち小林氏のいわゆる慈善は少数者のすべきことではなく、社会全体で協力すべきことであるとの証明というわけである。

 小林氏はこうして大衆とともに楽しむという慈善事業を、大衆とともに実行した。大衆とともにする事業であるから、徹頭徹尾正直と公平を保たねばならぬ。ある人の疑ったような誘惑は、小林氏の夢にも思わなかったことである。

 まさに小林氏は、この慈善券の発行を、天意に基づくものと心得。一種神聖の感をもって、終始、この事業を進めたのであった。「慈善券のことだけは、確かに神様の御告げでした」とは、小林氏の常々、口にしたことである。

 ちなみに、米国で初めてこの種の慈善券を発行したのはシカゴの石鹸会社カーク商会であった。偶然にも小林氏が渡米の際、米国でのライオン歯磨の一手販売を契約したのが、このカーク商会である。渡米中、この事実を発見したときの、小林氏の喜びは例えようがなかった。

 カーク商会は自社製造の石鹸に、この方法(慈善兼発行)を応用したのだが、一時的な企画だったため、間もなくして止めている。小林氏がその方法を採用して、これを継続することになったのは、その最初の動機がまったくの慈善心に基づいていたからであろう。

 しかも、この慈善券の発行の一事によって、ライオン歯磨の名声はますます高まり、わずか10年間に数倍の売れ行きを示すことになった。それこそ、その慈善の結果だというほかはない。

 病中の決心を実行した小林氏の慈善的行為は、図らずも氏にとって最善の商略ともなった。小林氏は、常にこのことを語って「神様はもったいないほど、私を選んで下さった」

と言って、感謝の涙を流していた。

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 第14章 小林氏の家庭生活

 逆上ること明治27年(1894年)に、小林氏はその養嗣子・徳治郎氏の嫁に養女いつ子を迎えた。前にも述べた通り、徳治郎氏は小林氏の実兄・虎之助(後に喜助と改名)の4男であるから、実子も同様の甥っ子である。しかも、いつ子は妻はんの姪であるが、4歳のときから引き取って育てたので、実の娘も同様である。

 そのため両人は実の兄妹と思って暮らしていたのだが、小林氏夫妻は始めから両人を結婚させて、子なき一家の跡を継がせようと考えていた。

 越えて明治30年(1897年)には初孫・浜子を生んだので、病中の妻はんの喜びは名状し難く、孫の顔を見る度に、いつ子の実母・あやどのに一目でも見せたいと話していた。

 このあや子は、越後の郷里・柿崎村の親松治平氏の娘であるが、妻はんの弟に嫁いで、いつ子を生み、間もなく止むを得ざる事情から離縁の不幸に陥った。離縁後、彼女は様々な艱難をなめ、一人で暮らしていたが、当時はその住所すら小林家にはわかっていなかった。

 しかし、明治32年(1899年)の春、小林氏は不幸にして妻はんに先立たれた。その後、あちこちから後妻として、教養もあり、また美人の候補者があったにもかかわらず「孫の顔を見せたい」と言った亡き妻はんの一言が脳裏にあったため、あたかも遺言のように思い、養女いつ子の母・あや子を後妻として迎えることが、何より一家和合のためである。と同時に、いつ子の切なる願いでもあったため、不思議な縁で愛でたくあや子を迎えることができた。

 16年目の母子の再会、それにあや子の父である親松老人が孫のいつ子と二人の曾孫と一堂に会する奇遇など、実に小説以上の小説的出来事であった。小林氏はその時、到底、その場にいることができずに、2階を降りて、声を挙げて泣いたとのことである。

 小林氏の新家庭に関して、感心すべき話は数多い。その一つだけを語るならば、夫人あや子はその不幸な境遇上、少しも教育を受ける機会がなかったため、小林氏に嫁いだときは「いろは」も読めないほどであった。また、これまでの経歴上、少しもキリスト教の信仰などはなかった。

 そこで、小林氏は新夫人を教育して、同趣味同信仰の人にすることが、自分の第一の義務であると覚悟したようで、まず自らいろはを教え、手習いを授け、わけても聖書を読むことを教えた。一年365日、一日もこの日課を怠ったことはない。

 10年後の今日になって、あや子夫人は一通りの読み書きはもちろんのこと、熱心な信仰の道にも進んで、小林氏の晩年においては、実に立派な内助の妻となられた。

 筆者は多くの意味で、小林氏の偉大なる人格をその家庭生活において見い出した。いかに円満とは言いながら、ずいぶん複雑なる家庭の中をよく調和して波風一つ立たせなかった小林氏は、父たり夫たり家長たるの長をほとんど完全に尽くされたものと言わねばならない。

 小林氏はその家庭において、忍耐、柔和、慈悲、謙遜、公平などのあらゆる美徳を自ら養成しえたのである。彼は家庭の神聖を信じ、その円満なる和合のためには、何物をも犠牲に供して、いささかも顧みることがなかった。

 クリスチャン家庭の美しき光が、常にその場に満ちていたのは当然のことである。

 小林氏の死後半年ほど経ってから、未亡人あや子夫人が雑誌『新女界』のために亡き夫の思い出を記した一文がある。小林氏の高き人格が未亡人の信仰に反射しているのを見ることができると思うので、以下にその一部を転載する。

「また孫たちをたいそう可愛がりまして、病気にでもかかりますと、逗子や鎌倉、方々に自分で連れていって養生させました。自分も弱い体でしたが、自分ひとりのためにわざわざ転地にも湯治にも行ったことはございませんでした。あまり、自分のことには重きを置きませんで、どうかして慈善のため、困っている人のためにと考えておりましたようでございます。

 平常、病気でございましたから、私はとうに覚悟はしておりましたが、昨日まで今日まで口をきいた人が、こんなに変わり果てるのを見ましては、ほんに人間ははかないものと深く感じました。そして、永久に変わりたまわぬ神様を、しみじみと考えずにはおられませんでした。

 この世ではまったく人を頼まぬわけにはまいりませんけど、私のようにあまり頼みすぎますと、万一の苦痛が一通りではございません。いつまでもいつまでも、変わらせたまわぬ神様におすがり申すほど、安心で大丈夫なことはございません。

 このごろはもう聖書を読みましたり、神様のお話をうかがいますのを、最上の楽しみと致し、第一の慰めと致しているのでございます」

 小林氏がいかにして、ついに家庭の人々を教化し、一家の中に信仰の基礎を据えることに成功したかは、後章において述べることがあろう。ただ、ここでは家庭の人としての小林氏に目を向けて、その偉かった点を彷彿させたに過ぎない。


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 付録「聖書日々実行訓」

 ライオン歯磨の慈善券の発行は、もともとアメリカのカーク商会のアイデアだったが、その本家では一時的な企画で終わっている。

 一方、小林富次郎氏のチャレンジは信仰をベースにした慈善事業としての取り組みであったとしても画期的であり、今日のベルマーク、ブルーチップなどの先駆けとも言える。

 もともと、アメリカでブルーチップ・スタンプがスタートしたのは、1956年。日本では1962年10月に始まっている。

 日本では、一足先にベルマーク運動(ベルマーク教育助成財団)が、1960年にスタートして、今日に至っているのを振り返るとき、いかに明治期の慈善券の発行が画期的なものであったかが、改めて良くわかる。

『小林富次郎伝』には付録として「聖書日々実行訓」(先代の言葉)が収録されている。

1月1日から12月31日まで、一日一句『聖書』から小林氏が選んだ一句が掲載されている。

 その一つひとつが、後添えのあや子夫人を同じ信仰の道に導くために、小林氏があや子夫人にわかりやすく聖書の教えを説いているようにも思えてくる。

 以下、第15章「本郷教会員としての小林氏」へと続く。


 
 
 

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