時代は「鹿鳴館時代」 近代西洋文化摂取に忙しい時代のベンチャー! ライオン創業者 小林富次郎の実像(5)
- vegita974
- 8月5日
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更新日:8月6日
時代は「鹿鳴館時代」 近代西洋文化摂取に忙しい時代のベンチャー!
ライオン創業者 小林富次郎の実像(5)

前回の終わりは、明治17年(1884年)、小林富次郎氏が上京してから7年目、32歳のときであった。わずかに成功の門出についたと思ったら、早くも失脚。希望の月影は、再び空しく暗雲に覆われてしまったというものである。
裸一貫にもどった小林氏が、次に活路を見いだそうとしたのが、海外への道であった。
改めて、当時がどのような時代であったのか。21世紀の今日におけるベンチャーにはおよそ考えられない環境並びに時代背景がある。
そんな世相を多少は理解できるように、年表を紐解くことにする。
明治16年(1883年)11月、東京・内幸町に「鹿鳴館」が開館。西欧化の拠点として、夜毎、舞踏会が開かれた。
それに先立つ、明治6年(1873年)には横浜に石鹸製造所が開業。23年(1890年)10月には、花王石鹸が発売されている。
明治11年(1878年)6月には、歯磨「君が袖」が発売され、明治21年(1888年)には資生堂が練歯磨を発売している。
石鹸も歯磨き粉もマッチも、いずれも近代西洋文明の摂取に忙しい時代の産物である。
第六章は「驥足を海外に伸ばさんとす」である。「驥足(きそく)」とは駿馬を意味することから、優れた才能を言う。
西洋文化が一般庶民の生活にも影響を及ぼしつつあった時代、最先端の消費材を扱い、さらにその先を行く海外進出は、若き小林氏らしい進取の気性の賜物であり、チャレンジということになる。
ちなみに、日清戦争は明治27年(1894年)に勃発、日露戦争はその10年後の37年(1904年)に始まっている。
そんな風雲急を告げる時代にあって、加藤直士著『小林富次郎伝』を読む限りでは、これまでのところ、小林氏の周辺における影響は、明治維新後の「文明開花」の延長との印象である。

* *
第六章「驥足を海外に伸ばさんとす」
翌明治18年、小林氏が鳴春舎工場の一使用人として日夜、殊勝に立ち働いていると、ある日、横浜の貿易商・松村清吉氏が来訪した。
その様子を見て、不憫に思った松村氏は、資本を用立てるから「何か自分で仕事を始めてはどうか」と親切に言ってくれた。
松村氏は鳴春舎株式会社の株主の一人で、いつも小林氏の仕事ぶりを見て、その人となりを深く信用していた。
そのとき、小林氏は「東京にあって他人と競争するよりも、むしろ中国・上海あたりに行って、営業を試みたい」との思いを打ち明けた。もっとも、それは鳴春舎をまったく離れようというものではなく、上海で得た利益をいったん鳴春舎のものとして、その分け前を出資者の松村氏と折半しようという心づもりであった。
自分だけがうまい儲け口にありついたからと、年来の共同者を見捨てるような心持ちは小林氏の到底持ちえないところであった。
長く同氏と交際したある商人の話では、万事につけて小林氏のやり方は、共同者に対して「儲かったら半分分けにしましょう、損したら私が持ちます」というのが常であった。
従って、利益の配当問題などで人と争ったことは、生涯において、ただの一度もなかったとのことである。
村松氏は小林氏の話を聞いて、早速賛成し、差し当たり金5000円を出資することにして、同年6月、2人は上海に赴いた。
小林氏の見込みでは、当時日本の石鹸が盛んに上海あたりに売れているため、むしろ同地に工場を建てて製造したら運賃並びに中国商人の仲介口銭などがかからず、十分な利益を収めることができるだろうということであった。
石鹸製造事業が日本でさえ、まだ着手した人の少ない時代に、さらに一歩を海外に踏み出して製造を試みようとの計画は、破天荒とも言える卓見である。
小林氏は大きな希望を抱いて上海に渡った。
同行の松村氏は商業の視察を兼ねて行ったため、間もなく帰国し、小林氏は一人残って様々な計画の実行に着手した。とはいえ、上海に渡って現地の状況を調べて見れば、工場をつくるにも、その適地から準備してかからねばならない。それに欧米の資本家が軒を並べて営業をしている土地である。わずか5000円、1万円の小資本で彼らと競争を試みるなど、至難の業である。
とはいえ、事業の有望であることは、まったく疑いないため、いまさら初志を翻す必要もなく、小林氏は猛然として事業の進捗を図った。即ち、海軍省の所轄地に土地があるのを幸いに、これを借用する交渉や手続きに取りかかったのだが、その準備に約3カ月を要した。
当時、小林氏の事情を知らない世間では、同氏が上海で一大工場を設立するという噂が立ったため、同業他社は生きた心地がしなかったはずだ。小林氏の胸中は、希望と憂慮がこもごも往来していたことだろう。
これより先、小林氏は神戸の石鹸製造業者・播摩幸七氏と昵懇の関係にあった。播摩氏はもともと石鹸の材料を取り扱っていたのだが、鳴春舎との取引関係上、親密な関係にあっただけでなく、やがて小林氏の協力を得て、自ら石鹸製造を始めていた。
その神戸は中国貿易の適地とあって、東京の鳴春舎の製品が国内で盛況となっていたころには、播摩氏の鳴行社の製品は盛んに販路を上海方面に拡大。小林氏が渡航したころには、分家が本家を、子会社が親会社を凌駕するがごとき活況を呈していた。
そこでは、小林氏の計画によって、最大の打撃を受けるのは神戸の播摩氏ということになる。果たせるかな、上海で敷地借入れの手続きをしている最中、播摩氏から一通の手紙が届いた。曰く「貴君に上海で石鹸の製造をされては、自ずから当社の売り先と競合することになり、今日までの多年の親交を破るような不幸を見るとも限らない。よって、この際、どこかお互いに都合のよい策を講じたいので、貴君は何とぞ、長崎まで帰ってこれないか。自分も長崎まで出向いて、相談できれば」云々ということであった。
この交渉は、一面では小林氏にとって迷惑であると同時に、一人で負い難い重荷を友人と分かち合えるというありがたい一面もある。
早速、横浜の松村氏に相談してみると、同氏も賛成とのことなので、小林氏は一先ず長崎に帰った。そこで、彼は播摩氏の夫人が明日をも知れぬ命との状態であることを知る。
同氏よりの来状によれば「しばらく長崎にて待つか、またはご足労でも神戸まで来てくれるか、どちらかに願いたい」とのことだったので、小林氏は病気見舞いかたがた、早速神戸に向かった。
神戸に着いて、わずか4日後に、播摩氏の夫人は亡くなった。小林氏が病床を見舞ったとき、彼女は非常に喜んで「どうぞ夫と共同で営業してください、これが妻としての最後のお願いです」云々の言葉に、日ごろ涙脆い小林氏は非常に感動した。
いろいろ協議の末、上海で製造する代わりに鳴行社の製品を、より手広く中国に売り広めることのほうが双方の利益であるとの結論に達した。さらに年来の親交や夫人の遺言などの理由もあって、小林氏は上海事業を思い止まり、播摩氏と共同で鳴行社の石鹸事業を経営することとなった。小林氏の神戸移住は、以上のような事情で行われたのである。

第7章 神戸時代の小林氏
神戸の播摩氏の事業は石鹸事業以外にマッチ事業などの業務もあったが、小林氏はもっぱら石鹸事業を経営することとなった。
彼は播摩氏の店の敷地内にある一家屋を仮住まいとして、そこに東京から家族を呼び寄せ、再び平和な家庭をつくった。ただし、神戸時代の小林氏の日々は平穏無事ではなかった。彼は決して安住を好むことのない人である。
壮年時代の小林氏をもっともよく知っている村田亀太郎氏(石鹸づくりの職人)の言はこの点においてわれわれを欺かない。氏曰く「小林氏は失敗したとて、へこたれる人ではなく、成功したとてそこにジッとしている人でもない。実に奮闘家の名に相応しい人でもある」と。
小林氏の一大奮闘は神戸・鳴行社におけるマッチの軸木改良のことに関してだが、これを述べるに先立って、一言すべきことは、小林氏が従業員教育に対する熱心さを、神戸時代に早くも抱いていたことだろう。鳴行社の石鹸・マッチ工場にいる百数十人の職工・従業員はいずれも無学の庶民の子女である。彼らに多少の読み書きを教え、あわせて品行を良くしようとの目的で、夜学校をつくろうと企てたのだが、先立つものは金であり、早速、資金の調達に困窮した。
そこで小林氏はこうしたことは、何か自分で節約する他ないと考えて、日ごろ愛用していた3~4個の煙草入れを売却して20円ばかりを得た後、今度は主人・播摩氏に向かって「私も禁煙して出資しますから、あなたも出して下さい」と説いた。播摩氏も小林氏の言葉に感動して、当時流行した乗馬一頭を売却して、金150円を夜学校の設立費用にあてた。これが数年継続した新田夜学校のできたきっかけである。
神戸時代の逸話として残っているもう一つは、小林氏が初めて大枚1円を慈善事業に投じたことである。
岡山孤児院と言えば、当時、日本一の慈善団体であるが、いまから数十年前、慈善事業家・石井十次氏が初めて3~4人の孤児を収容して、だんだん手を広げようとしていたころ。神戸の多聞教会に賛助会員の募集を依頼して来たことがある。
その条件は1カ月1口2銭を出すというものであった。小林氏もある人から勧誘されたのだが、当時、孤児院とはどのようなものかを知らなかった。そこでその説明を聞いて大いに賛成し「それは大変結構なことです。私も毎月5口ずつ出させてもらいましょう」と言って、とりあえず1円を寄付した。
そのころ、1円を寄付したのは神戸では初めてのことで、この1円がどれだけ石井院長を感激させたかは、想像するに難くない。
後年、慈善券の発行等により、全国の慈善団体、とりわけ岡山孤児院にとっての大恩人となった小林氏の最初の寄付は、このような形で行われたのである。
今日、岡山孤児院を参観される人たちは、数種のライオン館が院内に建てられているのを見ると同時に、講堂の壁面に小林氏の肉筆による短い手紙が額装されて掲げられているのを見るであろう。
これが、その1円を寄付したときの手紙である。聖書(マルコの福音書)にある貧しい未亡人が、2枚の小通貨レプタを献金した「貧者の一灯」になぞらえられる。
古来、偉大な慈善事業はこのようにその基礎を据えられるということである。

* *
明治期、岡山孤児院を設立したのは石井十次氏だが、日本初の孤児院は、明治5年(1872年)6月に、横浜の修道院に設立されている。
小林氏が1円の寄付を行うことになったのも、神戸の多聞教会でのことである。
日本の資本主義の父と称される渋沢栄一翁が日本の最高額紙幣の肖像になる時代に、彼ほど日本の国づくりに関わった存在ではないが「論語と算盤」の渋沢翁に対して「聖書と経営」の小林富次郎氏の存在は、一企業人としては、極めて現代的である。
次回、第8章「清国往来の奮闘時代」そして、第9章「小林氏基督信徒となる」へと続く。
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